どこからきたのかとか、塩化ナトリウムのような安定した 物質が水のようなおだやかな物質の中    
に入るとどういう機構で簡単に分解するのかを アレニウスが自分の師匠であるクレーペに説明  
しようとしても断固として しりぞけられてしましました。  
1884 年にアレニウスはイオン解離の理論を博士論文の一部としてまとめ、4時間 にわたる  
試験を受けた後、疑り深い試験官から最低の成績で合格させてもらいます が、丁度この時期  
に後に物理化学と呼ばれることになった新しい学問が誕生した ところで、この分野の巨星、  
ファント・ホップとオスワルドがアレニウスの理論に 興味を持ち、オスワルドはウプサラに赴いて  
若いアレニウスと議論までしました。 こうしてこの3人は共同研究を始め、10 年にわたって  
化学界の小数派的理論を 構成することになります。  
1889 年、アレニウスは化学反応の速度が温度と共に上昇するメカニズムを明らかに して、  
分子の反応に必要な活性化エネルギの存在という、触媒の理論に欠 くことができない概念を確立  
しますが、これが前記の絶縁材料の熱劣化の理論の基 盤になります。  
 
1890 年代に入ってトムソンによる電子の発見、ベクレルによる放射能の発見によっ て  
ようやく原子の内部構造が明らかにされ、アレニウスのイオン説が突然注目を浴 びることに  
なりました。1895 年にストックホルム大学教授に任命され、1903 年には 博士号をとるとき  
最低の成績で通過した論文に対してノーベル賞が与えられます。  
ノーベル賞の選考委員たちは物理賞にするか化学賞にするかで悩み、中には半分 づつ  
与えるという妥協案まであったようですが、20 年前にアレニウスの理論を斥け たクレーペはこの  
研究の重要性にもかかわらず、その中間的性格のため見落とされ がちであると主張して過去の  
失敗の償いをして、アレニウスの受賞を熱心に指示し ました。  
 
その後、アレニウスは宇宙構造に興味を持ち、地球の生命体は宇宙空間から到達し た  
胞子に起因するといった、今では間違いがはっきりしたアイデアを信じたりもし ましたが、大気中の  
二酸化炭素には一種の保温作用があることを指摘して、現在に 通じる問題に道を  
きりひらいています。  
1950 年ノーベル物理化学研究所長になったアレニウスはその死の直前まで在籍し ました。  
1889 年に Arrhenius は活性化エネルギが反応速度を決定する重要な因子であるこ とを  
指摘しました。平衡定数が二つの速度定数の比で表されることから、速度定数 の温度依存性  
と平衡定数の温度依存性が同じでなければならないと推論し、温度依存 性を決める  
「ファントホッフ」の式からの類推で求めたようです。  
また  近代キンダイ科学カガク ニュートンも晩年バンネンには 錬金術レンキンジュツ興味キョウミをもったようです。さらに歴史,  
文学, 社会,言語,思想,宗教,音楽,病歴と実に多角的に考察する巨人でもありました。  
こうした 異才イサイることも オオくの知識チシキやしになることでとても勉強ベンキョウになる。  
    40