夜明け前の恋人
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帝人の意識が、ふわりと水面に浮かび上がったとき、一番最初に感じたことは、ただ「寒い」という一言に尽きた。暖まった掛け布団の外にある耳朶も、頬も、額も、肩も、首筋も、すべてが冷たく、また、朝の冷気に冷えた枕とシーツは、僅かでも動けばナイフのように痛い。
薄ぼんやりとした室内は、早朝の一番冷える空気の中で、ぽっかりと開いた闇のようだった。包まる布団の中の暖かい存在は相手しかおらず、自然と、帝人は恋人である男にすり寄る。そうすると、相手は少し面倒くさそうに身動きをして、常ならば存在しない寝室の中の他者へ腕を伸ばし、ぐっと引き寄せる。きっと、癖のようになっているのだと思う。
「寒いのは嫌いだけど、乾燥も嫌いなんだ」と、まるで仕方ないという風に言ったのは、部屋の主である男だ。彼は、寒がりで暑がりで、そのくせ空調特有の人工的な風も嫌いで、多少の我慢で過ごしやすくなる多くの事に、我を通してわざと生き辛くしているような、そんな男だった。
思い出すに、帝人の部屋は寒いから、恋人の部屋に居れば良いと、相手の誘い文句はそんな意味合いだったはずだ。だというのに、朝方のこの冷え込みは、正直な話、帝人のアパートとそう変わりない。ただ、帝人がそうこぼせば、相手はとんでもないという顔をして、隙間風も入らず、そして人肌で温いベッドを、帝人の部屋と一緒にするなと、切々と説いた。
帝人にしてみれば、布団の中に、猫が一匹潜り込んでいるか、潜り込んでいないかというそんな理論に近い。夜の触れ合いを除けば、真実その通りだとすら感じる。むしろ、衣服を剥ぎ取られることもないので、猫の方が暖かいのではないだろうか。
冴えてしまった頭の中で、恋人のことを考える。甘い気持ちになるよりも、数学の発展問題を解こうとしているときのような、そんな心持ちになる。何の定理を組み合わせれば、不確定のエックスやワイが導き出されるのか、そこから組み立てていかなければいけない時の、面倒臭さと面白味を感じる。
折原臨也は、基本的に帝人のいうことを聞かないし、そして帝人のことを考えていない。愛しているらしいが、臨也のそれは、相手を慮る愛ではない。むしろ、臨也自身を大事にしている愛である。だから、彼は帝人のことを愛している自身を我慢させない。あれこれと手を尽くし帝人を囲って、自身のテリトリーの中に引き込んで、そして満足げに笑う。
多分、帝人が「仕方がない」と感じて、臨也に折れるように仕向けるのが、臨也なりの譲歩なのだと思っている。そうやって、帝人に細い細い逃げ道を作ってやり、思惑通りにそこに入り込む相手を見て、また悦に入るのだ。そのことを理解していてなお、自身の思い通りになっている帝人を恋人にして、臨也ははたして楽しいのだろうかと考える。ただ、考えたところで、「楽しい」と言われれば相手の正気を疑うほかなく、また、「楽しくない」と言われれば相応に傷つく程度には、帝人も相手のことを愛していた。
触れ合った期間が長すぎたのだ。情が移ったともいう。飼うことのできない小動物に、名前を付けてしまったあとで、その子が保健所に連れて行かれてしまったときのような気分だった。後の事をすべて放り投げて、「僕が飼い主です」と叫んでしまった。手のひらに戻った相手の暖かさに、理性ではどうしようもない安堵を得てしまったのだ。
二人で眠ったベッドの中、覚醒した思考は、春の海のようにのたりとうごめく。視線を僅かに上げると、臨也の端正な寝顔が見え、その下の喉も、鎖骨も、触れるほどに近い場所にあった。元々、朝に強い男ではないが、他人の気配には敏いはずだ。帝人は、相手が起きていてもおかしくはないと思う。相手が狸であっても、構わないことをしていればいい話だったが、じいっと臨也の顔を見るだけというのは、多少退屈である。
「美人は三日で見飽きる」と、胸中で、帝人は呟く。帝人が、臨也の造作に飽きるまでは、まだ多少の猶予があるが、眺めているだけで楽しめるかと言われればそうでもない。ただ、きれいな見目をしているのだと、何度となく思った感想は、やはり帝人の中に浮かんで、そして消えていった。
臨也は、子供のような相手だ。帝人が臨也のことを考えていれば喜ぶし、臨也の様々な悪戯や、言葉や、行為に、帝人が反応を示すことを楽しむ。言葉で好意を伝え、行動でも伝えようとする。しかし、それは帝人のことを思い行っているわけではなく、単純に、臨也自身がしたいから、しているに過ぎない。
そこまで考えて、帝人は、字面にすれば、随分と献身的な男に見えなくもないなと、苦笑を浮かべた。相手への愛情表現を、したいからするなんて、まったく恋人らしいのに、なぜ、臨也が行うとこうも頓珍漢に映るのか、帝人は笑った。
もれた呼気が、臨也の胸にかかる。そうすると、うるさそうに眉が顰められ、相手のまつ毛が震える。この段になって、「ああ、本当に寝ていたのか」と帝人は思う。
ゆっくりと開いた臨也の双眸は、寝起き特有の紗がかかっている。薄赤く見えるそれは、今はただおとなしく、帝人のことを視認すると、「なんだ、帝人君か」とでも言いたげな色を乗せた。
帝人は、目覚めた相手に笑いかける。挨拶をすると、室内の薄暗さから、まだ一桁台の時間であると判断した臨也が、不満そうにあくびをする。もう少し寝ようと、小さく呟きながら帝人のことを抱え込むので、はいはいと頷いた。相手の腕の中へ、囲い込まれることを拒否せずに、形だけ目を閉じる。
臨也との関係を、帝人の周囲の優しい人々は、あまり快く思っていない。それはそうだろうと、帝人も思う。帝人とて、臨也のしでかしたことを全面的に忘れているわけではないから、時折、相手の悪癖には心が冷える。ただ、本当に冷え切ってしまったならば、それはその時に、離れればいいことだった。
それは、至って一般的な思考だと、帝人は思っている。だって、どんな場合でも、人は相手を好きだから付き合い、男女であればあるいは結婚し、子供を産むのだ。そして、相手への愛情が枯れたとき、別れ、離婚し、縁を切る。
帝人は、臨也とずっと、生涯をかけて共にいるとは、思っていない。想像もできないというのが正しい。臨也の方とて、それは同じだろう。そもそも、臨也は臨也で、彼自身の抱く帝人への興味がいつ尽きるか、楽しそうに待っているような節があるのだ。臨也にしてみれば、珍しく、深く特殊な愛情を注いでいるので、それが途切れるときはたしてどうなるのか、興味があるのだろう。
「相手を理解しきったと、満足した時が愛の終わりだよ」と、臨也は言った。すでに、幾分過去のことだった。理解しきれずに、相手を追い求めるうちは、この恋は続くだろうと、楽しそうに笑って臨也は告げたのだ。愛し合おう、理解し合おう、求め合おうと、臨也が人を陥れるときの笑みで帝人に囁いたことを、よく覚えている。
今のところ、帝人は臨也を理解できない。臨也も同様らしい。ただ、相手のことを理解しきるというのは、何とも途方もないと、帝人は思っている。臨也のそれは狂気の沙汰だ。そもそも、今まで臨也は、彼なりに一種の「観察の区切り」を置いているようだったのに、帝人に関してのそれは何なのだろうと、よく疑問に思う。そのスイッチさえわかれば、帝人は臨也の無関心のスイッチを押さずにいられるので、できれば相手よりも先に知りたいのだが、臨也という男は不透明が過ぎて、帝人にはさっぱり読み取れずにいる。
臨也に対して、帝人が知っていることだって、もちろんある。例えば、帝人は眠るとき室内の明かりをすべて落として、真っ暗にしなければ眠れないが、臨也は反対に、ベッドサイドへ小さなランプを灯したまま眠る。だから、帝人は臨也の部屋で眠るとき、いつも男の胸元に潜り込み、擬似的な暗闇を作っている。しかし、臨也は本当は、暗闇だろうが、薄明かりの中だろうが、どちらでも眠れるのだ。ただ、帝人がすり寄る様子が楽しくて、わざと明かりをつけているに過ぎない。そのことを、帝人は知っている。臨也も隠していない。そんな程度の理解ならば、掃いて捨てるほど存在する。
お互いに、面倒なことをしているのだろうと思う。ゆっくりと降りてきた眠気の中で、帝人は何度目かの帰結をする。一言、「食べたい」と言えばいいことを、「上の歯と下の歯で噛み砕き、舌の上で風味を味わって、ゆっくりと喉を動かし、食道へと導いて、胃の中へ招き入れたい」のだと、そんな風に告げている。
そう、本当ならば、きっとそれはつまらない一言だ。ただ、その「一言」にして、何を言えばいいのだろうと思っても、言葉もなく帝人のことを手放さない相手がいるから、自身もまた、口を噤む。間違った言葉で相手を縛るよりも、臨也の腕の中にいる方が安全で、合理的で、無駄がないのだ。それは帝人の、悪い部分だった。臨也が、時折微苦笑と苛立ちと共に指摘する帝人のずるい側面である。
いつか、帝人が見つけずにいる一言は、臨也と日々交し合う、不理解と、言葉と、愛に埋もれて、溺れていくのではないかと思っている。もう、帝人にも臨也にも手の届かない深い深い場所まで沈み込んでしまい、そこにあったことはわかっても、触れられなくなるのではないかと感じる。そして、帝人は多少、そうなることを望んですらいた。
ただ、そうして安易な安堵の中に逃げ込もうとするたびに、臨也はきっと、笑っただろう。笑いながら、しなれた観察眼を帝人にも向けて、多分、くっくと喉を震わせていた。
「これでしょう?」と、まるで紙切れを一枚揺らすように、相手が触れまいとする何かを見せつけて、臨也が、ゆっくりと歩み寄ってくる被害妄想を、帝人は常に抱いている。そういうひどいことをする男なのだと、知っているからだった。
知りたくはなくても、手放したくもなかった。言葉にはしなくても、それがあることは知っていたかった。
帝人は、臨也の眠る呼気に誘われて、また薄闇の微睡みへ落ちていく。そうして、同じベッドの中でぬくもりを分かち合い、帝人が、思わず臨也の腕を取ってしまった瞬間の相手の顔を思い出す。
臨也は笑っていた。だって、あの男はいつも笑っているのだ。
「もっと、愛し合いたいね」と、臨也の言葉が耳の中へ入り込む。帝人は眠るふりで、それにはいまだ、答えずにいる。
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