その指先が欲しい
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ちょっと前まで、自身にとって、髪の生え際を染め直す数時間は、ただただ苦痛で仕方がなかった。煙草を吸えるわけでもなし、興味のある雑誌があるわけでもなし、加えて、自身の噂を少しでも知っている店員は、会話も極力しようとしないので、二時間以上もの間を、ただ本当に座っているだけだというのだから、苦痛でない方がおかしいだろう。
決まった店もなく、であれば勿論、決まった担当もいない。ある意味では、気楽だったのかもしれなかった。金髪の中の自毛の色が目立ち始めると、近場のヘアサロンに入り、染め直す。それの繰り返しだ。
「トリートメント、ちゃんとした方が良いですよ」と、それが始まりだったと思う。そんなことを言われたのは初めてで、一瞬、相手が何を言ったのか理解できなかった。その言葉は十分唐突だったし、そもそも、サロンの店員が静雄に営業のような台詞をかけてきたことなど、一度としてなかったからだった。
「勝手だろう」と返せば、「綺麗なのに、もったいないですよ」とふにゃふにゃした笑顔を返された。悪意の欠片も感じられない笑顔だったので、物覚えの悪い自身でも、いまだに思い出す事ができる。「変わってるな」と言えば、「そうでもないです」と答えがある。ついで、「大抵の奴は俺を怖がるから、そんなことを言ったのはお前が初めてだ」と続けると、「怖いことをするんですか」と尋ねられる。そこまでして、今、相手と会話をしているのだと自覚した。それは、自身の心に、何か面映ゆい感情を落とした。
以来、自身に初めて「担当者」というものが出来た。
相手は男で、小さな手のひらに、細く長い指を持っていた。ヘアサロンの人間なのに、黒い髪をしていて、身長も低い。童顔で、声は柔らかく、それでも、言動は大人びている。鏡越しの会話で得られる相手の知識は、その程度のものだったが、それでも一番重要なのは、相手が静雄の髪を洗う時、ひどくその感触が心地いいということだった。あと、男は竜ヶ峰帝人といった。
二回目までは、自身が店内に入ると、一瞬空気にぴんと張り詰めたものが通った。しかし、三回目以降の来店になると、店の側も多少は慣れるらしく、そこまであからさまな対応もされない。ただ、終始竜ヶ峰を宛がわれているというのはわかる。他の客の場合、カッティングとシャンプーと染髪の担当がくるくる変わるのに対して、自身には竜ヶ峰がずっとつきっきりになっているのだから、わからないわけにもいかない。ただ、竜ヶ峰以外に苛立たずにすむかと言われれば、答えに困るのが正直なところなので、自らその点を指摘することはなかった。しかし、妙な心地にはなる。
予約した時間に店に入り、数分も待たずに竜ヶ峰が寄ってくる。そして、朗らかな笑みを浮かべて「こんにちは」と挨拶をされる。相槌のような返事をしても、相手の柔らかな態度は変わらない。客商売だからと言えばそこまでだったが、商売用の態度であったとしても、相手の猫の身体のような対応が、自身は好きだった。ふわふわとしていて、ふにゃふにゃとしていて、触れれば優しい。
「今日は、ちょっと切ります? 邪魔じゃないならいいんですけど」
「任せる」
「ちょ、丸投げですか」
笑いながら、「こちらへどうぞ」と先導され、簡単な問答の後、「リメイクとカットとトリートメントですかね」という相手の言葉に頷く。大して自分で考えているわけでないので、竜ヶ峰任せのことがほとんどだった。そんな自身に、「僕がとんでもない料金のコース、ふっかけたらどうするんですか」と相手が聞くので、「吹っ掛ける気なのか」と、いつかのように返した。
結局のところ自身は、相手の指の感触が好きなのだと思う。シャンプー台に行き、髪を濡らされ洗われている時間が、単純に気持ちいいと思う。無防備なものだったが、竜ヶ峰の指が頭皮をこすり、耳の穴に泡や水が入らないよう気遣いながら、こちらの頭部を扱うのが、心地よくて仕方ないのだ。理由はあまり考えない。考える必要性を感じていない。
気遣いのための、顔面を覆う乾いたタオルの下で「お前が家に欲しい」と呟くと、「僕でよければいくらでも」と、笑みを含んだ台詞が降った。
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