花のある風景
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「お前、サイッテェー!!!」
 貴様にだけは言われたくない。ヒイロは胸中そう呟くと、腕の中から罵声の言葉を浴びせるデュオに視線を合わせた。




 休日という単語が禁句にさえなりつつあるプリベンターへ常勤するに当たり、ヒイロにしろデュオにしろその日曜日がちゃんと休日として作動するなど思ってもみなかったのが事実であった。神様が世界の万物をお造りになり、そして休まれた七日目の朝をベットに懐いて迎えられたことなど、彼等が火消しに勤めてからは数えるほどしかなかったのだから、それも致し方ない。しかし、何を図り間違ったか、それとも最初から図られていたのか、その日は確かに、日曜日を日曜日として迎えることが叶ったのだ。
 前日の晩、仕事帰りに「うち寄ってくか?」という事実上の事に関する承諾を得たヒイロは、久方ぶりの感触に酔いながらも朝の光に覚醒を促された。
 彼の喉元にデュオの亜麻色が触れ、ヒイロは多少のこそばゆい感触を味わった。デュオに貸された腕には同じく髪の乱舞が甚だしたかったが、しかし、存外ヒイロはその柔らかな重みを気に入っていた。
 目覚めたヒイロの気配と、それとも染みついた体内時間からか、デュオがゆったりと瞼を引き上げる。横向いたヒイロの腕の付け根に頭を預けていたデュオは、しかし目覚めを厭うような仕草で額をヒイロへすり寄せた。眠りやすい薄闇と体温を求める彼に、怠惰な気分になっていたヒイロも応えるような抱擁をする。
 しかし、確かな意識の浮上を得てしまったらしいデュオは、仕方ないといった風情でもう一度瞳を開いた。
「はよ。」
「ああ。」
 ヒイロは、目覚めてもなお邪険にされない腕を良いことにそのまま恋人を抱え込んだ。気分の良いデュオもさしてそれを咎めず、ヒイロの胸元で大人しくする。
 しかし、ともすれば寝入りそうになるヒイロの様子に、デュオは彼の髪を引いた。まどろみが消え失せてしまった身体を一人で持て余すのは、デュオは嫌だったからだ。デュオが腕を伸ばしたため開いた上掛けの隙間と、そして後ろ髪をぞんざいに扱われたことから瞬間ヒイロが顔を顰める。悪びれないデュオは微笑む。
「寝るなって、オレが暇になっちゃうじゃん。」
「まだ早い。」
 そうはいっても、気怠げな雰囲気がブラインドの向こうにある時間帯に似つかわしいわけではない。その事に気が付いてしまい、また寝床から離れるつもりのないヒイロに飽き始めたデュオは、一人起き上がろうとした。
 身じろいだ様子に察したのか、ヒイロはデュオを捕らえる腕に力を込めた。無言の強要とも甘えともつかない我が儘に拘束され、しかし彼のその行動に半ば惰性さえも見出すようになったデュオは、僅か睨むに止める。
 行動の制限を課され、しかしそれを破り行うべきこともなく、結果的にデュオは相手へ体重を預けた。一連から、ヒイロも睡魔の手の届かぬ人となっていたが、それは彼にとって問題ではない。デュオはブルーの瞳を彷徨わせ、対してヒイロは感慨もなさそうな素振りに彼の髪を撫でた。
「お前さぁ、明日どうすんの?」
 脈絡がなく、目的語も補語も見つからないセリフにヒイロはいつものことながら微かに戸惑った。時折、デュオの口をついて出る人に易しくない話し方を、ヒイロは常に解析しなければならなかった。
 彼は首を捻り、デュオの思考の元になったのであろう事物を探す。デュオの連想は突飛だったが、しかし大体に置いてその大元が側にあるからだ。
 ヒイロは、背後にその存在を主張する小型の電子時計へ視線を遣った。ヒイロの部屋にも同一のがある。彼以外にも、カトルにしろトロワにしろ、五飛にしろ所有しているだろうものだ。それは以前、サリィ・ポウが皆にプレゼントとして渡した品だった。
 素直に喜んだカトルの横で、デュオは「何が悲しくて男五人でお揃いか。」と嘯いていたが、しかしどうにも気に入っているらしいとヒイロは思った。
 表示された時刻の下に、小さく日にちが記されていた。ようやく意図を察しヒイロが彼に視線を戻すと、待っていたデュオはすぐに口を開いた。ヒイロが諦めながらもデュオに対して立腹するのはこういったときだ。相手の答えが出るまで待つぐらいならば、初めからもう少し要領よく話せばいいというのに、デュオはそれをしない。
「結構色んな人にチョコ貰ったし、オレは一輪ずつ花あげようかと思ってんだけど。」
 地球ならではの贅沢だよな、とデュオは続けた。コロニーでは生花は高価だった。楽しげに笑ったデュオの横で、ヒイロは沈黙した。おしゃべりのネタを見付けたデュオは向かい合っていたヒイロの腕を外すと、うつ伏せで肘をつき、そこへ顎を乗せる。彼が左へ避けた長髪の少しが枕に乗り、他はシーツへ流れる。
「そういえばさぁ、三月十四日ってバレンタインに結ばれたカップルが一月後に永遠の愛を誓ったことに由来してんだって。すんげー付け足しくさくて反対に笑えねぇ? てか何でそれでホワイトデーなんだか。ポピーデーとか、フラワーデーとかも言うみたいだけどさ、それもわかんねぇよな。」
 けたけたと笑い出したデュオの肩を、ヒイロは引き寄せ再び彼の身体を抱いた。
 突然のことに、変な風に髪を巻き込んだデュオは非難の声を上げる。それに気が付き、ヒイロの手が思いがけず丁寧な所作で、下敷きにされた彼の髪を掬い出した。
 密着した肌に、僅かな間とはいえ外気へ触れていたデュオの肩が温かくなる。
「隙間を作るな、まだ肌寒い。」
「へーい。」
 デュオは心地良い姿勢を見付けると、先の質問へ返答が無いことを思い出した。
「そんで?」
 デュオの促す言葉に、ヒイロが面倒臭げな眼をする。それには気付かないふりをし、デュオは自ら話の流れを変えぬよう口を閉ざした。しばらくの間があり、閉じられたブラインドの隙間が光と共に鳥の鳴き声を零した。
 屈託のないデュオの追求はともかく、「ホワイトデー」の「ホワイト」は全飴協のネーミングセンスに因る。バレンタインのアンサーデーを、「ホワイトは純潔のシンボル。ティーンのさわやかな愛にぴったり」という思想の元「ホワイトデー」とした辺りかなりかゆいものがあるが、ティーンエイジャーの立場でありながら同じベットで朝を迎えている彼等に、その「ホワイト」が適用されるかいなかは非常に微妙なところだろう。
 ヒイロは彼の髪を手放すと、思案するような瞳をした。
「......日本の古典に。」
「は?」
「古事記や日本書紀といったものに、飴製造の起源がのっている。そこから拾ったらしい。」
 デュオは僅かの間瞠目すると、次の瞬間に酷く不満げな表情を浮かべた。いつもの無表情を顔に貼り付け、先程のデュオのように素知らぬ風を纏うヒイロを、彼は変な意固地で腹立たしく感じる。引き寄せられた具合に腕を張り空間を空けると、デュオはヒイロを睨め付けた。
「ヒイロさん、そりゃわざとか。確かにキャンディーデーとも言うけどよ。」
「聞いたのはお前だろう。」
 ヒイロは顔を背けると、突き出された腕の関節を無理矢理に折り畳んだ。段々と、互いの意地が頭をもたげ始め、そしてつまらない腕力勝負になる。しかし、悔しげに眉を顰めるのは初めからデュオに決まっていた。
 乱れた彼の前髪に、ヒイロはふと、何とはなしにキスをした。デュオは唐突なそれをどう捕らえればよいのか、瞬間判断を尽きかね、そして器用にも肩を竦めてみせる。
 どうしようかと、デュオが思案するだけの沈黙が流れた。
「なぁ、ホントにさ、ヒイロはお返しどうすんの?」
 何が彼の好奇心をそんなに刺激しているのか理解できず、ヒイロは内心困惑した。対して、デュオはやはり単純な興味の色をそのコバルトブルーに浮かべる。幾らか従順な素振りでヒイロを仰いだデュオは、勿論そのアングルがヒイロに効果的だということを知っているだろう。
 しかし、ポーズとわかるからこそ、ヒイロはそのような悪知恵を行使してまで聞きたがるデュオの本意が見えないのだ。彼にとって、デュオは嫉妬などしてくれるような可愛い人ではない。そもそも、デュオはヒイロが浮気をするという思考回路を有していない。
 意地悪い彼は、ヒイロが戸惑う様子を楽しむ奇妙な癖がある。今回のこれも、自身が答えあぐねる様を見遣って、面白がっているのかもしれないとヒイロは思った。
 一抹の疑心を抱え込んだヒイロが再びデュオを見遣ると、しかしながら当人は、意外にもヒイロと同じような「わからない」という表情をしていた。ヒイロはもう一度デュオの額に唇を寄せる。素直にそれを受けたデュオは、微かに楽しげな笑みを作った。
「キスが好きだねお前。」
「態度で示しているんだ。」
 滑らかな彼の返答にもう一つ笑い、それでもデュオは同じ質問を繰り返す。
「で、ヒイロ。お返しはどうすんの?」
 ヒイロは溜息を吐くと、小さく返答した。そして、先の罵詈雑言がデュオの口を突く。
 彼の予想通り怒濤の悪口を吐き捨てていくデュオを、瞑目したヒイロはうるさげに抱え込んだ。




 デュオの自宅のキッチンに、午後から生活的な物音がするのは珍しい。
 しかし、そこで指揮を執っているのは部屋の所有者ではなく、半ば以上機嫌が低下しているその所有者の恋人だった。
 ヒイロは使用頻度の低い秤にキッチンペーパーを一枚敷くと、その上で砂糖を傾けた。目盛を確認し、そしてそれを彼の横に立つデュオへ押しやる。テレビの変わりになじりのBGMを奏でていたデュオは、受け取った砂糖をふるいにかけ始める。
「ホンット信じらんねぇ! マジで信じらんねぇ!! 普通お返ししようとか思うだろ?! てかバレンタインにチョコ貰ったらそれが礼儀だろ! お前去年も一昨年もそうだったのか?!」
 デュオの怒りに触れたヒイロの返答は、つまるところ「考えていない」というものだった。
 バレンタインの本命は元より、義理チョコにすら返事の必要性を感じ取れないヒイロは、しかし強制したわけではない贈り物にわざわざ花を送り返すデュオの考えこそ理解できずにいる。そういった「お遊び」なのだし、確かに突き詰めれば勝手に届けられたチョコレートへ「ありがとう」と返事すればそれまでなのかもしれないが、アンサーデーが用意されているならば何らかを送り返すことが自然でもあると、しかしながら、どうやらヒイロは考えないらしい。
 とは言っても、こういったアニバーサリーを存外好むデュオに、彼のそのいらえが怒りを買うことはヒイロにしてみても容易に想像がついていた。
 だから言いたくなかったんだ。内心、そう吐露した彼はバターを砂糖と同じように秤へ乗せる。
 さもあれ、そのように叱りとばされたヒイロは、先程から仕方なしに「お返し」の制作に取りかかっているのだ。因みに、手作りであるのは費用を出し惜しみしたためだ。それをわかったデュオは、しかし譲歩した。そして、手伝い紛いのことをしているのは彼のサービスである。
「何作んの?」
「クッキー。」
「そりゃまた可愛いな。」
「量産が容易だ。」
 きっぱりと言い切ったこの男が、何故チョコレートを頂けるのかデュオはそれが不思議でならない。以前、リリーナ・ドーリアンは、それと似たようなデュオの質問に「あばたもえくぼと申しますでしょう?」と素敵な微笑を浮かべて答えた。その時、デュオも笑みをもって「なるほど。」と返したが、彼本人があばたがえくぼに見えている筆頭者だという自覚は、多分に皆無である。
「抹茶はあるか?」
 大した期待をしていない口振りで、ヒイロが訊ねた。しかし、デュオは抹茶という飲み物に興味もなければ、菓子作りをする趣味もない。そのような台所事情の家に、抹茶が常備されているはずもなく、デュオは何を言っているんだという目をした。
「そんな日本文化的なもんうちにある訳ねぇって。」
「......ココアパウダーは。」
「あー、それならあっかも。」
 すぐさま出された打開案に、デュオは冷凍庫を開けるとそれを取り出した。どうにも解せないところから現れた所望の品を、ヒイロは受け取る。
「凍らせてどうする。」
「どうにもなんねぇなぁ。」
 至る所に無秩序な整頓を受けているキッチンを、デュオは気にした風もなく笑った。
 着々と進められる下ごしらえの風景を眺め、デュオは多少勿体ない気分になった。ヒイロの料理は美味しい。お菓子も当たり前に美味だ。その手腕は大概にしてデュオへと振るわれていたが、これらのクッキーはデュオを素通りしてしまう。独占欲も混じったのだろうそんな未練に、彼は何となくつまらないものを感じた。
「なぁなぁなぁ、オレには?」
 幾分か甘えを含んだ物言いは、デュオ自身驚いたことにポーズではない。しかしそれに気付かず、ヒイロは秤を見たまま返事をした。ココアパウダーと共に薄力粉が乗せられ、五グラム刻みのライン上を針が移動していく。
「あとでどうせ花屋に行くんだろう。その時に材料を買ってくるなら、シュークリームでも焼いてやる。」
 デュオは、つまみ食い程度の思い付きに返された手間の掛かる甘味を思い浮かべた。この男はそんなにキッチンへ立つのが好きだっただろうか。デュオは不可思議に思いながらも、そんなことを考える。そもそも、午後を回った時間にそのようなことを言い出すヒイロは今晩も自宅に帰る気が失せたらしい。別段構いはしないが、とにかく奇妙な浮き足立つ気分をデュオは止めらずに、確認めいた口調を取った。
「わざわざ?」
「クッキーの方が良いのか。」
「いやいや、心遣い痛み入りますとも。ハイ。」
 常のデュオよりも幾らか歯切れ悪い言葉尻に、何度目かの同じような計量を行っていたヒイロは内心眉を顰めた。しかし、窺ってもふるいを片手に暇そうな表情をしているデュオからは何も読みとれず、彼は再び薄力粉の紙袋を斜めにする。
 しかし、彼の目的の目盛まで残り三十グラムほどのところだろうか、針が止まった。空になった袋を捨てながら、ヒイロは冷蔵庫を覗き込むデュオに声をかける。
「予備はないか?」
「あったと思うんだよなぁ、確か。前口開けちゃってそのまま放置したのがさ。」
 つまりは開封された小麦粉が二袋あったということなのだが、そんなことはよくあることだ。小さめの冷蔵庫を漁り、次に流し場下の棚を開けているデュオを、ヒイロはバターを練りながら待つ。どうにも見つからず腰を上げ、デュオは食器棚の上のダンボールを思い至った。
「上にあげちまったのかも。」
 身長よりも高いそこに、忘れられたようなダンボール箱が一つ、確かに鎮座している。
「抱え上げるか?」
「殴り飛ばすぞバカヤロウ。」
 踏み台代わりの椅子を取りに行く彼に、ヒイロが冗談とも本気とも取れない声で問う。それに口汚く返したデュオは、ダンボールの真下に置いた椅子へ乗り上がった。
 何でもかんでも投げ入れられたのだろうその紙箱の、比較的現実的な惨状を想像していたデュオは意外とまともであった中身に胸中ほっとした。デュオと似たようなことを考えていたヒイロも、その様子に胸を撫で下ろしクリーム状になったバターへ砂糖を加える。
「おー、あったあった。」
 乾物の横に置かれている薄力粉の口を見付け、デュオは声を上げた。その場で封を広げると、虫が湧いていないかどうか確認する。デュオは溶き卵をボールに加えているヒイロを見下ろした。
「あったぜ。」
「聞こえた。」
 愛想のないヒイロから視線を外し、デュオは紙袋の口を摘み上げる。しかし、何かに引っかかっているのか、それは思うように動かなかった。
 こういう場合、ヒイロならば一度ダンボール箱を床に下ろし、そして薄力粉を取り出すだろう。しかし、デュオはヒイロではないし、彼本来の性格も、残念ながらダンボール箱を床に下ろすようなタイプではなかった。よって、それが起きたのは致し方なかったのかもしれない。
「あ。」
 不吉な声にヒイロが振り仰いだとき、ぶちまけられた小麦粉は丁度重力に従うところだった。




 皮膚呼吸のままならない状態に陥ったヒイロを謝り通しながらシャワーへ押しやり、デュオは彼の不機嫌さを思い悩んだ。
「どーしたもんかな。」
 デュオは珍しくも重い溜息を吐き、床に散った白い粉を拭い立ち上がる。綺麗な長い睫毛も小麦粉の被害に見舞われていた彼を思い出し、デュオは流石にその間抜けさを笑うことが出来ずにいた。壁掛け時計は一時半を指している。
 流れている水音に耳を澄ませ、デュオはもう一度嘆息した。
 デュオは小麦粉まみれになったタオルを洗い流すと、上着を片手に玄関へ向かう。その途中、シャワールームの扉を叩いた。不機嫌な返事に身を竦ませながら、彼は扉越しに外出の旨を伝えた。会話し易いようシャワー口を床に近づけたのか、デュオに聞こえるそれが小さくなる。
「なら、小麦粉とココアパウダーも買ってこい。」
「リョーカイ。」
 渋らないデュオの声を、しかしヒイロは機嫌の悪いまま聞いた。粉を被った髪を洗いながら、彼は苛立たしさに目を瞑る。
 謝罪の大安売りをしていたデュオの様子から、ヒイロはこの不機嫌のまま菓子作りの放棄も通じるかもしれないと思った。彼は気のない女性職員等に、デュオのような愛嬌を振りまく趣味を持っていない。元々気乗りしていなかったそれに薄力粉の洗礼を受け、ヒイロの機嫌は低迷の一途を辿っていた。
 泡を洗い流し、ヒイロは湯気の籠もったユニット・バスで身体を拭う。彼は乱暴に髪を拭くと、デュオが用意したのだろうバスローブに腕を通した。
 アメリカンスタイルの室内は、風呂上がりにも素足では歩けない。身体を流れる日系の血がそうさせているわけではないのだろうが、ヒイロはどうしてもそれには馴染めずにいた。デュオは踵を潰した靴で部屋を歩き回るが、しかし面倒がってスリッパを使用することも最近では多くなった。ヒイロの部屋へ入り浸るために、玄関で靴を脱ぐ習慣がついてきたのかもしれない。
 彼はいくらか草臥れているスリッパを履くと、ミネラルウォーターをコップに注ぎソファへ腰かけた。流し場には、綺麗にされた調理器具が乾かされている代わりに、秤も仕舞われていない。いまだ持続している苛立ちから、ヒイロはそれらを無視するように新聞を手に取った。
 それから十数分も経ち、玄関に彼の慣れた気配が立った。
 ヒイロは視線を起こすと、玄関に意識をやる。扉の閉まる音に続けてビニール袋特有のがさがさという耳障りなそれが届いた。
「ただーいまー。」
 間延びした挨拶をしながら入ってきたデュオに、ヒイロは怪訝な顔をした。それはデュオ本人に対するものではなく、彼の手に収まっているある場違いな物品に対してだ。デュオの左手にぶら下がっているビニール袋の方は想像に容易い。そしてヒイロの思う通り、そこには薄力粉とココアパウダーが入っている。
「はい、どうぞ。」
 デュオは、ソファの前のローテーブルに袋を置くと、ヒイロの奇異な目に曝されているそれを差し出した。
 華やかで愛らしいミニブーケだ。柔らかなピンクの薄紙と透過性フィルムに包まれ、赤色のリボンが巻かれている。明日のホワイトデー用の花ではない。一人一輪ならば、その本数分予約をすればいい。そうすれば翌朝出社する前に、綺麗な状態で購入できる。わざわざブーケにするのは個人用、当然ながらヒイロへの贈り物だ。
 とち狂ったのかはたまた嫌がらせなのか。ヒイロは判断の付きかねる愛らしい物体を凝視した。
「......何なんだ。」
「たまには、オレも態度で示そうかと思って。」
 無表情というよりも表情を無くしたヒイロの呟きに、デュオはにっこりと微笑んで見せた。年齢に比べて子供っぽいデュオの顔は、無邪気に笑むとよく映える。眉山がふわりとラインを描き、口元は端を上げるだけの、悪戯に精を出すような笑顔にも関わらずだ。
「だからさ、あとでシュークリームの材料買いに行こうぜ。」
 花のような微笑に、ヒイロは理不尽さを感じながらも頷くしかない。内心白旗を掲げると、ヒイロはソファから立ち上がった。


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