空飛ぶくちづけ
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 デュオ・マックスウェルはキスをする。
 それは彼の出身文化圏が、キスによる挨拶を常とするからだ。朝一番の「おはよう」のキスは、彼の飼い猫であるルーシーへ。プリベンターへ出社してしまえば、「ありがとう」のキス、「さよなら」のキス。エトセトラエトセトラ。
 彼の親しい人への親愛が、頬に贈られるそれらのキスだ。軽く触れられるだけの挨拶は、見ていて何とも可愛らしい。
 しかし、デュオの恋人であるヒイロ・ユイは、その文化に対して一つの悩みを抱えている。否、ヒイロが困惑しているのは、デュオの故意としか思えぬとあるライン引きだ。だからといってさほど取り立てする気にもなれず、ヒイロは不愉快までもいかない奇妙な心情を日々味わう羽目になっている。
「ヒイロ、俺サニーサイドアップが良いな」
 ベーコンが焼かれる音に反応したのか、先程までベッドの住人であったデュオが彼の専用コックへ注文を付けた。長い髪を編み直しながら現れた姿に、ヒイロは頷いてやる。要望が断られるなど露程も思っていなかったデュオだが、にっこり花のように笑うと、感謝を込めてヒイロに抱きついた。
「サンキュー、今日も好きだぜヒイロ」
「知っている。危ないから顔でも洗ってこい」
 ブラックペッパーを片手に、ヒイロは子供のような仕草をする彼を、やはり子供にするように諭した。それが癪に障ったデュオは、ヒイロを軽く睨め付けた。
「返答に愛がない」
 デュオは無表情なヒイロの唇へ口付けると、そのまま舌を滑り込ませた。ヒイロはやれやれといった風情でフライパンから手を放し、一度コンロの火を止める。お互いにじゃれ合いであることを解しているため大した時間も取らないそれは、いつも通りの朝の一コマだ。
 ヒイロが軽くデュオの腰を叩くと、デュオは回していた両腕を解いた。再び点火された炎に、油が爆ぜ始める。
「今晩は和食食べたいよな」
「今日も泊まるのか、猫はどうする」
「ルーシーって呼べよぉ。んー、その内あいつも連れてくるかなぁ」
 それではすでに同棲だと、予想される近未来を冷静に判断しながらも、しかしヒイロは決して咎めはしないのだ。
 デュオは冷たい水に濡れた顔を拭うと、鏡に映った首筋に鬱血を見付け、目立つ情事の残り香に小さく舌打ちした。今更か、と思い直し、彼は時計を見る。
 朝食を食べ終われば、ヒイロは食器を洗い始め、デュオは着替え始めるのが常だ。もう既に出勤スタイルへと服装を整えているヒイロは、時間を潰してデュオを待つ。常時よりも幾分か早く準備を終えたデュオに、ヒイロは視線を遣った。
「俺一旦家帰るわ、餌だけ入れて来る」
「間に合うのか?」
「多分」
 時間が惜しいとばかりに玄関へ向かうデュオを追い、ヒイロは読み途中だった新聞を食卓へ投げた。信用のないデュオは、予想通りに動いたヒイロを不満げに振り返った。
 職員証を提示しフロアへの自動ドアをくぐると、彼等は所属する部署が違うため別れることになる。別れ際にやはり恋人同士のキスをする二人を、他の職員はもはや気にしない。風紀が乱れると怒り狂う五飛がいないため、ヒイロもデュオも呑気なものだ。
 ひらひらと手を振り廊下を進むデュオを、ヒイロは暫しの間見送る。
 ヒイロが見ている中、デュオが擦れ違った人物と挨拶した。懇意の人物へ贈られた「おはよう」のキスを眺め、ヒイロは踵を返した。彼は変わらぬ表情で、エレベーターへと乗り込んだ。



 その日の午後、珍しくもカトル・ラバーバ・ウィナーがプリベンターへと訪れた。それはL4宙域に発見された不穏分子に起因する出頭であったが、代理人ではなく本人自らがガードマンに辟易しながらもやってきたのは、もう数ヶ月会っていない親友の顔を見るためであると皆知っていた。
「カトルッ!」
 目当ての人物に淡く笑いかけ、カトルはデュオからのキスを受ける。「久しぶり」のキスを同じくデュオに返しながら、カトルはデュオの後ろにいるヒイロの視線を感じ、何処かしら意地悪げな印象を与える笑顔をこぼした。大切な友人を奪ったヒイロに、カトルが少なからずの嫉妬を燃やしているのは、一部の人間には周知の事実である。
 彼等の乗り込んだエレベーターに微かなGが掛かり、移動を始めた箱の中、仲の良いデュオとカトルの会話が続いた。こういった場合、ヒイロはいつも押し黙った。そして、それが当たり前の風景となってしまったために、デュオは水面下に流れる緊張感を長いこと悟れずにいた。
「まったく、君ときたらメールの返信もくれないんだから」
 カトルは、少しばかり拗ねたような目をした。近況の報せはそうそう高い頻度ではないが、それにも増して、デュオは筆無精だった。デュオは困ったように苦笑すると、効くとも思えない言い訳をする。
「あー、家パソこの頃使ってないからさ。悪い」
「家にも帰れないの? 仕事忙しい?」
「そういう訳でもなく。まぁ、メールは、ノーパソに送ってくれると助かる」
「そうするよ。くれぐれも、ノートパソコンまでヒイロに取り上げられないようにね」
 一瞬の振動が過ぎ開いたドアを通り抜け、彼等は窓もない廊下を歩み始める。
 カトルの悪意を含んだ物言いに、ヒイロがそこはかとなく不本意な瞳をした。デュオがヒイロの部屋に入り浸るのであって、決して拘束しているわけではない。しかし、ヒイロの様子に気付かないデュオとわざと流すカトルに、彼の眼は大した力を発揮しなかった。
 二度目の角を曲がり、会議室の札が掲げられているドアへ到着する。しかし、そのまま立ち止まり二人を見送る姿勢に入ったデュオに、カトルは些か面食らった。
「デュオ、君今回の作戦には参加しないの?」
「別件が入ってるんだ。でもヒイロが行くから大丈夫だって」
「えぇ? 僕は、君がL4に来てくれるとばかり思ってたよ」
 カトルの品の良いブーイングが、果たしてヒイロが来ることに対してなされたのか、それともデュオが来ないことに対してなされたのか、それは分からない。もしくは両方にという選択肢もあるが、デュオは特に気にした様子もなくカトルへ「ゴメン」のキスをした。
 不意打ちのそれに、カトルが一瞬遅れて何か言い募ろうとした。しかし、カトルのセリフよりも早く、それまで沈黙を守らざるをおえずにいたヒイロが口を開く。
「そろそろ時間だが」
「ありゃ。まぁ、とにかく二人とも頑張れよ」
 ヒイロのセリフに、デュオは今度こそカトルから離れると小走りに来た道を戻り始めた。ほだされる形になってしまったカトルは、仕方なしに会議室の扉をくぐる。しかし、予想よりも人の疎らな室内の様子に、カトルは彼の背を通り過ぎようとしたヒイロを睨め付けた。
「そろそろ時間なんじゃなかったの?」
「あいつの休憩時間の終了がだ」
「本当に?」
「何が言いたい」
 煩わしげなヒイロの言葉尻を、しかしカトルは無視した。
 L4代表の隣席に配されている人物は未だ現れず、カトルはその空席へヒイロを促す。ヒイロは、どうやら虫の居所が悪いらしい彼を内心苦々しく思う。逡巡し、結局腰を下ろしたヒイロに、カトルは口を開いた。
「前々から思ってたことなんだけれどね。君、独占欲強すぎるんじゃない?」
 小声の非難は周りに聞き取られることもなかったのか、それとも皆自ら危険に飛び込む趣味など持っていないのか、包むさざめきに変化はない。ヒイロは、前を向いたまま吐かれた言葉に、やはり目を合わせず答えた。
「何を根拠に」
「よく言うよ。デュオがキスしてくれるとき、じーっと見てるあれ、すっごい迷惑」
 声音だけは柔らかいカトルに、ヒイロは一つ溜息を吐いた。返す言葉を探しながら、ヒイロはしかし彼本人の本意を露見したくはなかった。結果、言い訳じみたセリフになるのは仕方がないことだった。
「そういう意味で見てたわけじゃない」
「じゃぁどうして?」
 カトルは再度落ちる沈黙に、自身の考察の正解を見た。そして腹を立てた。彼は、ヒイロがデュオの持つ文化まで否定するのではと、それが一番不安だった。またそれ以上に、デュオからされる親愛の証をたわいない男の我が儘で取り上げられるのも、カトルは癪だった。
「ヒイロ、デュオのは挨拶でしょう? それは君が支配できるものじゃないはずだよ」
「だから、そういう意味で見てたわけじゃないと言ってる」
「説得力ないよヒイロ」
 ヒイロの返答を待たず、諭すような口調をした彼にされた異論は、しかしすげなく却下された。隠しきれない不穏な空気にちらりと視線を寄こした青年へ、カトルは笑みを返す。ヒイロは、言及の勢いを緩めない相手のその厄介さに苛々とし、そして諦めたように目を閉じた。
「デュオの、カテゴリの仕方を見ていた」
「……どういう意味?」
 カトルはヒイロの横顔に向き直り、分かり難い説明を聞き返した。廃棄物でも呑み込んだかのような音を踏む彼に、カトルは首を傾げる。その様子を面倒臭げに見遣り、ヒイロは言葉を足した。
「どういった傾向にある人物がキスして貰えるのか、それを見ていたんだ。満足か?」
 ヒイロは疲れたように確認すると、席を立とうとした。室内は人数が増えつつあったが、しかしカトルは引き留める。俄には信じられない事態を想定してしまった彼は、怪訝な表情をするヒイロに、僅かに声を大きくしてしまった。
「ちょっと待ってヒイロ。何だか君がキスして貰ってないみたいな口振りじゃないか」
 中腰のまま睨むヒイロに、カトルは思わず瞠目した。そして、席を離れようとするヒイロを押し止める。カトルが自身の手を顎にやり、また彼が思考するだけの間が置かれ、再びヒイロへと質問が飛ぶ。しかし、今回はその内容に配慮してか、困惑の色の濃い小声だった。
「失礼だとは思うんだけど、……夜は何してるの?」
 ヒイロはカトルの勘違いに気付き、なぜ会議室でこのような会話を繰り広げることになったのかその推移を思い出そうとした。しかし、その沈黙を重ねて取り違えたカトルは、随分と情けない顔をした。それを真正面から見てしまったヒイロは、とりあえず彼の思い違いを正すことにする。
「そういうキスの事じゃない、頬にされるような軽いもののことだ」
 落とされたトーンの弁明に、めくるめく気違い甚だしい彼等の恋愛事情を想像してしまっていたカトルはあからさまにほっと息を吐いた。恋狂いの色ボケした悩みを抱えている無表情男を一瞥し、そして動揺した自分自身を情けなく思う。
「もう、びっくりさせないでよ。そんなの、恋人だから口にしてるだけじゃないの?」
 納得のいかない表情を見せるヒイロに、カトルは苛々した。少し前とはまた違った腹立たしさに捕らわれ、彼は会議の開始時間を待つ。
 先程迂闊にも視線を送り、カトルから微笑みを返された青年は、未だ空かない自席に戸惑っていた。



 カトルがデュオの部署に顔を見せたのは、それから数時間も経った頃だった。業務時間の終了まで残り1時間強といったところで、書類提出に追われている者が多い。カトルは室内を覗き込み、様子を窺った。そして、デスクに着くデュオの横にやはり見知った姿を見付け、カトルは笑んだ。
「久しぶりだね、五飛」
「カトルか、確かに久しいな。変わりないようで何よりだ」
「おー、会議終わったのか? お疲れー」
 五飛はカトルを認めると、しかしすぐにデュオの手元に視線を戻した。カトルに更に何か話しかけようと顔を上げたデュオを押さえつけ、五飛はパソコン画面を指さす。乱暴な素振りに文句を言いかけたデュオが、しかし次の彼のセリフに違う意味で声を荒げた。
「今日中にまとめて提出しろ」
「ハァ?! お前時計の針読めなくなったのか? 出来るわけないだろ!」
「残業すれば出来る。安心しろ、手当は付く」
「嬉かねーよ。俺は手当なんかより早く帰りたいの!」
「ならば1時間で仕上げることだな」
 取りつく島もない五飛の弁に、デュオが泣きそうな表情をした。勿論それはポーズだが、分かっていて尚カトルはデュオが可哀想になった。変わらない二人の掛け合いに微笑ましさを感じつつ、しかしカトルはやはり口を出してしまう。
「五飛、何の話かは分からないけれど、流石に1時間前にそれはないんじゃない?」
「仕事だ。こなしてしかるべきだ」
「タイミングがあるよ、そんなに急ぐものなの?」
「火急の用事でなければこんな無茶は言わん」
 腕を組み姿勢を崩さない五飛に、デュオは溜息を吐いた。今晩の和食は電子レンジで温め直さなければならないらしいと考えながら、脇に立つカトルの袖を引く。カトルはデュオに視線を向けると、問うような顔をした。
「ありがとな、カトル。でもいーよ、ホント急いでんだろ。五飛、ポーリーヌは何時まで残る予定なんだ?」
「どうせ向こうもてんやわんやだろうからな。早く見積もっても、今日中に帰ることはないだろう」
 デュオは、依然不安顔をするカトルに笑いかけた。その様子を見遣り、五飛はデュオの頭をポケットから取り出したフロッピーで小突く。不思議そうに仰ぎ見るデュオと、不可解げな視線を送るカトルに、五飛は口元で笑って見せた。
「こちらとて無理は承知の上だ、このデータを使うと良い。あとは、貴様次第だな」
 そう言い捨てデスクを離れようとする五飛の腕を、デュオが捕まえた。彼はきらきらと笑顔を煌めかせ、バランスを崩しかけた五飛に抱きつく。そして、その頬に「ありがとう」のキスをした。
「うーちゃん愛してるー! シェシェー!!」
「貴様やめろ!! 放さんか!」
 歩こうとする五飛に引きずられ椅子から転がり落ちそうになるデュオを支えると、カトルは笑った。やはり、カトルにとってデュオはとても可愛い人だ。しかし、そこでふと、彼はヒイロの惚気なのか何なのか分からない話を思い出した。
 デュオは五飛を見送り、そしてキーを叩き始める。カトルは気になり始めてしまったデュオの真相を、さてどうしようかと考える。デュオがフロッピーを差し込もう手を伸ばしたとしたとき、カトルは好奇心に負けてしまった。
「ねぇデュオ」
「んー?」
「君のする挨拶のキスなんだけど」
「うんうん」
「五飛にさえするのに、どうしてヒイロにはしてあげないの?」
 デュオは先程受け取ったフロッピーで口元を隠し、思案するように天井を見上げた。困っているのか、誤魔化す言葉を探しているのか、それはカトルには判断のつきにくいところであったが、デュオは視線を親友へ向け、僅かに頬を赤らめた。
 見逃がしてくれと訴えるデュオのコバルトブルーに、しかしカトルは素知らぬふりで沈黙する。デュオは一つ嘆息すると、内緒話の要領でカトルの耳へと唇を寄せた。囁くように理由を落とし、そして三つ編みの彼は逃げるように再びパソコンに向き直る。
「アホらし」
 カトルが小さくもらした、呆れとも諦めともつかない独白は、それでも優しい響きを内包していた。



 人の居なくなったオフィスで、デュオは残業に追われていた。気配を察し顔を上げた彼に、ヒイロは室内へ足を踏み入れる。雑然としているデュオのデスクの上にヒイロは一瞬眉を顰めたが、しかし彼は忙しなく手を動かすばかりだ。
「何時頃になる」
「このノリだと七時過ぎかねー。あ、飯は残しといてくれよ、食うから」
「了解した」
 デュオはその返答に画面から意識を外すと、隣に立つヒイロを見た。カトルの疑問が彼の脳裏を横切り、デュオは埒もないこと思ってしまう。
 見上げるデュオに、ヒイロはいつものようにキスをした。キーボードへ置かれた彼の両手が、ヒイロのシャツを手繰る。薄暗い中の色事に、デュオは思い出さなくて構わないことを連想した。
 唇を離したヒイロは、掴まれたままの胸元を奇妙に思った。しかし、デュオは次の瞬間にはあっさりとパソコンへ姿勢を変える。ヒイロは、普段と同じ空気になってしまった彼を見下ろし、背を向けた。
「ヒイロ」
 扉を開いた後の呼びかけに、ヒイロはやはり珍しいものを感じながら振り返った。窓に近いデュオの机は、夕暮れの色に染まっている。呼びかけたにも関わらず、しかしデュオはしりごみしてしまった。意味のない、言葉なき空間が過ぎる。
 ふと、デュオの右手の指先が、彼の下唇に置かれた。そしてそのまま、ふわりと小さなキスが飛んだ。
「あとでな」
「ああ」
 デュオは久々のその仕草を終えると、今度こそ仕事に取りかかった。一方、ヒイロは廊下に身を滑らせる。
 ヒイロの表情が、その瞬間酷く柔らかいものになったのは、誰も知らないところであったし、勿論、デュオの表情が、夕陽に負けぬほど赤く染まっていたのも、誰も知らないところである。



「恥ずかしいじゃねぇか。今更、軽いヤツなんてさ」


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