あかつき、かがみのおおきみ
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 彼女は、自分の男をじっと見ていた。女の眼前には喉仏があり、ゆるく閉じられた唇の上に鼻があり、そして、瞑られている両眼がある。男の顔を見つめ、時折、彼女は視線を下げ、やはり男のものである鎖骨を見た。
 彼女の着物を共に被り迎える朝は、もう珍しいことではなくなっていた。さらに言えば、男に抱きこまれた状態で目覚めるのも、彼女の馴染みの感覚になりつつあった。同衾を許したのは彼女自身であった。だから、今、彼女の心に巣食っている腹立たしいような、どこか忌々しいような思いは、結局、女自らが手招いたものだった。
 朝霧の運ぶ清澄とした空気が、遅い朝の匂いへと変わっていくのを、彼女は男の腕の中で感じていた。男はいまだ目覚めず、放っておけば、昼を過ぎても夢の中で遊んでいそうな安眠を、ただただむさぼっていた。彼女は身分高い女である。男も、気位の高い彼女が許す程度には出来た男だった。共寝のたびに、可愛い女だと、男はそういって彼女を愛した。
 男にとって、そもそも「女」という生き物すべてが可愛いのだと、彼女は知っていた。それを知っている分、男は一等彼女のことを心に留め、そして妻問いを繰り返していた。男の知っている他の女たちから、一線を画した場所に彼女は置かれていたが、女は易々と男の手に落ちてしまったようで、それが気に食わなくて仕方がなかった。一度は時の皇に召した身であった分、男を許すことが段々と増えていくのは、女にとって、どうしても癪だった。
「玉くしげ覆ふを安みあけていなば 君が名はあれど我が名し惜しも」
 男が彼女の元へ通い始めて、少しばかり経った頃、彼女はそう詠ってみせた。男は、少しばかり面食らったようにしていたが、すぐに苦笑を浮かべると、彼女を宥めるように抱いた。口を吸い、女が目を眇め男の首筋を爪で掻いても、やはり微笑んで彼女を見た。
 玉くしげというのは、化粧箱のことだ。それに布を被せればすむことのように、男は二人の仲を密にするのは容易いと口説いた。だが、いざ玉くしげを暴かれて、男の名とともに彼女自身の浮名まで流れるのは、女の本意ではないのだ。だから、彼女はばれぬよう、夜が明けぬうちにさっさと帰れと詠った。
「玉くしげみもろの山のさなかずら さ寝ずは遂に有りかつましじ」
 そうはいっても、三室戸山のさなかずらが木々に巻きついているように、少しでも長く共に寝ていたいのだ。彼女の髪を撫でながら、男は囁き返した。明確な口説き文句だった。虫の居所が悪いらしい女に、男が宥めるように愛を詠った。そんな風に大事に扱われるのも、彼女の苛立ちに油を注ぐのだが、あんまりにも男が情けない顔をするから、女はいつもほだされていた。
 だから許してはくれまいかと、男は眼差しで問うた。彼女は、それの返事代わりに、彼を起こすことをしなくなった。
 今朝もまた、目覚めていながら、女はやはり男を揺り起こすことが出来なかった。いずれ室へと訪れるだろう自分に就いている女房たちを、御簾越しに追いやる文句を考えながら、彼女はゆっくりとした時間を過ごす。男の腕に抱かれ、じりじりとけぶる何かを抱きながら、彼女は男をじっと見つめる。



 ゆるゆると、男の意識を手放していく眠りがあった。
 それは元親の腕や、足や、骨や、心臓を少しずつ覚醒へ返すと、段々と遠退いていった。穏やかな目覚めの兆候だった。与えられる柔らかさと強引さは、水面へと押し上げられる浮遊感に似ていた。抗えず、元親はうっすらと目を開く。彼の視界に映るのは、白い敷き布団と、畳の僅かにくすんだ緑である。障子の真っ白な薄紙を通り、さらに明るくなった光が、夜の明けたことを告げていた。
 元親は、上半身を億劫そうに持ち上げた。腕を回し、首を回して、一通りの目覚めの動きをする。乱れた一重の襟元だけを雑把に合わせなおし、彼は室内をぐるりと見渡した。元親の情人の姿はない。元就の朝は早いものだったから、それも致し方なかったが、やはり元親は若干面白くない気分になった。
 お互いがお互いに、相手が様々な意味合いで、面倒なことになる人間なのだと承知しているのだ。その上で、情を通わせているのだから、多分、文句は二人とも自身に向けるしかないのだろう。しかし、だからといって、一時の嵐に任せただけの間柄でもないのだから、元親にしてみれば、もう少しの可愛げが欲しい。
 几帳越しに水が用意されていた。元就の気遣いではなく、彼に仕える小姓が、仕事のついでに置いていったものだ。元親が客として訪れれば、毛利の長は相応の対応をする。しかし、彼が戯れ一歩手前の雰囲気でふらりと立ち寄ると、まるで犬猫のような扱いを受けるのが常だった。
 元親が廊下に出ても、そこには従者の一人すらいなかった。明確に、元親は毛利という家から無視をされているのだ。それを指示したのが、昨晩、彼の腕の中で可愛かった相手なのだと思うと、元親はつまらなくなった。
 庭に降り注ぐ陽光は、すでに朝というよりも昼に近いものだった。元親は海の男であったから、朝にはめっぽう強い方だ。しかし、眠ろうと思えばずっと眠っていられるという妙な特技も持っているから、元就は、元親のことを朝に弱いと思い違いをしている節がある。そのせいなのかどうなのか、彼は知らないが、元就はいつも、元親を眠るに任せて放置した。
 夏の庭をゆっくりと眺めながら、元親は一つ、渡殿を渡る。元就のための離れから、毛利の家の棟に到って、ようやっと、僅かに人の匂いが空気に混ざった。それでも、元親の城に比べて気配は少なく、山の空気も相俟って、清閑を通り越し物寂しい。元親は、元就に少々厭世の気があることを知っていたから、そのうち仙人にでもなるつもりなのかもしれないと、勝手に思っている。
 元就の執務室の前に、近習が二人座っていた。険のある四つの眼球が、彼を睨んだ。しかし、元親はそれを笑っていなすと、すいっと障子を開け、室内へと入り込む。彼らは、元親に静止を求めないのだ。元親を止めるために声を荒げるのと、元親を元就の下へ通してしまうのでは、前者がより元就の不興を買うからだった。だから、彼らは元親を一瞬睨み、あとは本来の仕事へと戻る。
 障子が、元親の手によって元の通りに閉められると、殺風景な室内が出来上がった。その中で、元就は背筋を伸ばし、そして筆を握っている。元親は元就を見たが、元就は彼のことを見なかった。夏だというのに、締め切った室の中でも、元就は着物をきっちりと着込んで、髪を結ってもいなかった。うなじにかかる後れ毛は、後ろ髪の下でじっとりと濡れているだろうに、春夏秋冬同じ姿勢でいる元就を元親は本当に奇妙だと思っている。しかし、暑ければ暑いだけ脱ぐ元親を、元就は元就で下品だと思っていたから、この話題に関しては、二人が共に不毛なのだと気付いた時点で触れられなくなった。
 元親が、この室へ近づいていたことも、入ってきたことも気付いていながら、元就はいまだ沈黙し、書をしたため、文書を黙読する。追い出されないのは、元就のこなしている仕事が日常的な代物で、何らかの利益不利益と多く絡んでいないからだ。だが、元親が部屋にいることに問題がない分、彼はさらに元親を無視した。
 元就から数歩手前というところまで元親が近づいても、室内の空気には何も含まれなかった。あぐらをかき、元親はまた暫くの間、元就を見る。
 文机の前に座す元就の向こう側に、面白みのない真っ白な襖がある。元々、元就の好む空間というのは、色味の少ない場所らしいと、元親はつい最近知った。節制というよりも、元就のそれは行き過ぎた渋好みである。
 元就が筆を置く。肩のこる室内を、呆れ半分で眺めていた元親は、それと同時に声をかけた。
「なぁ、俺腹減ったわ」
「言うに事欠いてそれか」
 元親の不躾な第一声に、さすがに元就も顔を上げた。元就はいつだって、人の顔を睨みすえるような無表情をしているが、それよりも少しばかり意図的な不快感が、きれいな顔に浮かび上がった。彼の意識が自身に向くと、元親はにっこりと笑う。
「いい朝だなぁ毛利」
 彼にとって、本命の文句はこちらだ。
 朝の挨拶とは、相手の顔を見てするべきものであるから、彼は毎度毎度、手を変え品を変え元就の気を引いた。元親は、挨拶一つにも、やはり怪訝な顔をして、意図を探ろうと取り越し苦労をしている元就の顔が好きだったが、最近は、朝の掛け合いに大した意味がないことを、元就も不理解の上で理解したようだった。そのくせ、いつもなんのことはない策にはまるのが、元親のいう元就の可愛いところだ。今回、やり方が少々大人気なかったのは、いい加減、目覚めるまで放って置かれる不満が、元親の中に溜まっていたからである。
 奇妙な意地を張るのは二人に共通するところであるから、元就は元親の笑みを見て、常の無表情に戻った。面白くなさそうに眇められた目元も、もう何の色にも染まらず沈黙する。目も口も雄弁にならない麗人の姿は「氷の面」などといわれるが、つまるところ、裏をかかれてふてくされている表情を隠しただけだ。だから、元親はそれで十分満足した。
 元親の喜色に満ちた空気を吸わぬよう気をつけるかのように、元就は一度唇を引く。そうして、にやにやと笑っている男を一瞥し、すずりに手を添えた。
「まるで、童のような真似をする」
 元就は呟く。その言葉は、彼の行いを諌めるものとして、大した効果を持っていないが、何かしら言わなければどんどん元親はずうずうしくなった。だから、ちょっとした義理も含めてそれだけ言うと、あとはもう面倒になって、元就はふいっと顔を背けた。
 そもそも、もう朝といえるような時間ではないのだ。何をぬけぬけと、というのが元就の正直なところで、うまいこと元親の口に乗せられたこともあり、彼は忌々しげに墨を磨った。
 相手のつまらなげな仕草に、意表返しが十分成功していることを見て、元親の機嫌はよくなる。二人の機嫌が、双方上昇することは稀で、概ね、このように片方が上がれば、片方は下がった。お互いに、子供のような意固地の延長線上にある行為だとわかっているから、会話が面倒になった方は沈黙するのが常だった。
「ああ、でも、腹減ったのも本当でよォ。なんか、頼んでくんねぇかな」
 指圧で折るつもりかと思うような力強さで、すずりに墨を磨りつけながら、元就は元親の言葉を無視する。対して、元就から漂う不機嫌の空気を、元親は依然笑いながら見ており、その呼気に気付けば、元就はさらに冷気をまとった。
 あと一礫で元就の沸点に達するか、もしくはすでに随分と天井の低い怒髪天を衝いているのか、そんなところで、ようやっと元親は沈黙した。てらてらと光る墨汁は、元就の手元で、必要以上に出来上がっている。沈黙したままの横顔は、耳から滑り落ちた髪によって隠され、元親が窺うことを阻んでいた。
 満足するまで元就に絡んだので、元親は席を立とうとした。彼だって、叱られるのは御免であったし、まだ追い出されたくもないのだ。彼は、堺へ商売をしにいく途中だったが、帰途に郡山へ寄る時間的な余裕はなかった。機会を逃せば、一月二月逢瀬の叶わないのが普通で、であればこそ、あとせめて二晩は元就を抱いてから寝たいというのが彼の本音だった。下女を捕まえて、間食を頼もうと算段し、元親はあぐらを崩す。そうして、片膝を立てたところで、元就が視線だけを元親へ寄越した。
「玉くしげ覆ふを安みあけていなば、君が名はあれど我が名し惜しも」
 少々面食らって、元親は呆けた。元就はそれだけいうと、水かさの増えたすずりへ、筆と視線を落とす。元親が、歌の意図を理解できなければ、それはそれでいいという態度だった。会話をするというよりも、憎まれ口を叩いたのだ。「さっさと帰れ」といえばいいものを、わざわざわかりにくいようにいうのは、元就の性格が悪い。元親は浮かした腰をもう一度戻し、苦笑を浮かべた。
「玉くしげみもろの山のさなかずら、さ寝ずは遂に有りかつましじ」
 元就は、筆を持つ右腕を上げたまま、やはり憎らしいと眉をひそめた。その悔しげな雰囲気に、元親は今度こそ吹き出してしまう。確かに、万葉の時代の相聞など、元々は元親の畑ではない。しかし、元就が元親を放っている昼の間の暇潰しは限られていて、そうであれば、歌集は彼のいい遊び道具だった。元就は、元親が日中まで起きてこないと思っているが、彼は午前には目を覚まして、元就の私室で好き勝手に草子やら歌集やらを捲っているのである。元親も、元就にばれれば大目玉だとわかっているので、教えたことがないだけだ。
 元就は、横目で元親の様子を窺う。歌の意味を解してなお、やはり男に出て行く気配がないことを知ると、彼は本当に疲れたように溜め息をついた。そもそも、元就は元親の下心をわかっているから、返歌の内容は少々生々しい。
 元親の背後の白い障子紙には、近習の影が浮かんでいる。外の日輪の明るさを思えば、彼の下降した気分も少しは上がるが、今日に限って変に絡む元親の相手は、元就には億劫だったし、手に余った。元就の、筆を進める速さは変わらず、元親もくっくと喉で笑った。
「帰れといわれてまだ居座るとは、なかなかに面の皮が厚い男よ」
「そうはいうがなぁ、毛利。そんなにばれたくねぇんなら、帰さなきゃいいじゃねぇか」
 元親は、そう言いながら元就へとにじり寄る。元々、そう離れた場所へ座っていたわけでもないから、元親の右手は簡単に元就の髪を掬った。髪の中で、やはり元就のうなじは汗に濡れている。拭うように男の手がうなじを撫で、情人の首筋で戯れた。元就は、唐突に距離を縮めた相手を横目に、眼差しで威嚇する。すると、興を乗せた元親の隻眼が、さらに元就へと寄せられた。左の首筋をなぞった指が、そのまま元就の顎を捕らえる。大した力も入っておらず、顎に触れているという方が、それは正しい。
「部屋から出て行く姿を見られれば、変な噂が流れる。だから、帰らずずっと傍に居てくれって、そう詠ってる歌なんじゃねェの」
 くっと、元親の指が元就の顎を傾け、きれいな面を男の正面に据えた。元親にしてみれば、片手で砕けてしまいそうな小さな顎と、細い喉である。神の筆によって描かれたような眦と柳眉は、無感情のままで元親の前にあった。午前の光の中にあって、室内はそれでも薄暗い。障子も襖も締め切るのは元就の癖で、室内にこもった空気は、急激に不健康なものへと変わった。
「なんと、無礼な」
 元就の左手がひらめいた。扇が元親の手首を打つと、わざと打たれた男は、ぶらぶらと手を振って詰めた間合いに余裕を戻した。正座を崩すこともなく元親を退け、ついでといわんばかりに、元就は元親のこめかみを扇の先でさらに打つ。
 予想していなかった第二撃を食らい、元親も戯れが過ぎたことを自覚した。可愛い反応をする相手がいけないのだと元親は思うが、覆っている左側面からこめかみを狙うというのは、第三者から見ても可愛い所作ではない。
 元親の気が殺がれたのを見ると、元就は口元だけで笑う。そして、扇を仕舞い込む。さっさと筆を取り直し、また何かしらを記し始めた相手を、元親は僅かな諦観をもって見遣った。
「さっさと出て行け。その力押しで頼み込めば、握り飯の一つも出るであろうよ」
 元就には、やはり彼のいう駒の一人も、元親のために動かす気はないらしい。膝についた頬杖を戻すと、元親は、溜め息一つで了承した。元就の先の弁は、一応の許可で、彼から許しを得ているのといないのとでは、やはり毛利家中の動きは違った。
 元親は今度こそ立ち上がると、元就へ背を向けた。袂に片手を突っ込み、それは何ともだらしのない仕草だったが、彼のその様子にも、もう元就は何も言わなかった。集中力によって、すっかり元親の存在を意識から排除したらしい元就に、引き際と知った元親も言葉は掛けない。しかし、障子に手をかけたとき、唐突に元親は振り返った。
「玉かづら実ならぬ木にはちはやぶる、神そつくといふならぬ木ごとに」
 元親が歌をそらんじ終えると、胡乱な目つきが、彼を射た。障子紙一枚を隔てて、毛利の人間が侍っているというのに、元親は悪口を詠ったのだ。口うるさい男に、元就は辟易したような一瞬の間を空けたが、仕方ないとばかりに歌を返した。
「玉かづら花のみ咲きてならずあるは、誰が恋にあらめ吾は恋ひ思ふを」
 脳裏を過ぎっただけの万葉歌に、すらすらと答えられる元就の頭は、やはり元親にとって不可思議なものだ。しかし、そんな奇天烈な記憶力よりも、大した情熱も込められていない恋歌に、元親は苦笑を零した。元就も、自身の舌で古歌をなぞりながら、その内容を鼻で笑う。室内にこもる忍び笑いは、元親のものがより長く続いた。
「本当かよ。恋われてるようには思えねぇなァ」
「貴様が振った歌であろうが。満足か?」
 毒気を抜かれた表情で、元就が元親を窺った。その険のない細面に、元親が思わず相好を崩すと、たちまち元就は意識を仕事へと戻してしまう。そして、恋情の欠片も含まれない声音が、元親を追い出すために紡がれる。
「ならば出て行け」



 小憎らしい返歌に、男は喉で笑った。彼自身、可愛くない歌を送った自覚はあったから、女の気位の高さは愛しいものだった。
 蛍を楽しむ夏の夜は、あと幾夜もすれば過ぎ去る季節である。夜長の月を一人で見るのは、あまりにも寂しさが過ぎるので、男はそろそろ、恋人の許しが欲しかったのだが、彼の相手は意固地になっているようだった。
 男が御簾を上げると、中天を回った半月が庭の池を照らしていた。ほとりに植えられた馬酔木の緑は、月光を受けて輝くようだった。女の機嫌を取る花を、彼はつらつらと思い浮かべていたが、暫くして、牛車を用意するよう小姓に言いつけた。無礼といわれるのも一興と、彼は、女の元へ忍びにいくことにしたのだ。
 「玉かづら実ならぬ木にはちはやぶる 神そつくといふならぬ木ごとに」
 実のならない木は、神の所有に帰する。それが、よく言われる言い伝えだった。実のならない木には、どれにもおそろしい神がつくといいますよと、男は女をからかったのだ。花ばかり咲かせて、恋人がいないのは寂しくないかという捻くれた告白の歌である。男の性格が詠わせたものであったし、いくら口説いても靡かない女には、悪戯のような歌の方がずっと効果的でもあった。ただ、それを知った上で女に罠を仕掛けたのであるから、男の性格は、褒められる部類のものではないだろう。
 黙殺してしまえばいいものを、先の男の歌に関してのみ、女の返歌は雷光のごとき早さだった。返事を焦らす技術すら持つ彼女は、子供のようなあてつけがましい歌を、男に突き返した。そんな思いがけない幼さが、何より彼の愛情を煽り、深夜の来訪に駆り立てた。
 「玉かづら花のみ咲きてならずあるは 誰が恋にあらめ吾は恋ひ思ふを」
 私はあなたを愛しているのに、花ばかりで実がならないのはあなたの方でしょうと、僅かに拗ねたような色を乗せて、彼女は見事に男をあてこすった。確かに、男の浮名は流れ流され、浦にも至る代物であるから、彼女の言葉は、彼の耳に痛かった。愛情を疑われているらしいと思い至り、ついで、「恋い思う」という言葉をいいように解した男は、準備の整った車に乗り込んだ。
 蛍狩りは間に合うだろうかと、窓から月を見上げて、彼は考える。その前に、すっかり臍の曲がってしまった恋人の機嫌を男は戻さなければならないのだが、彼が尋ねた途端に、室の御簾は下げられてしまった。締め出しを食らった男が、御簾越しに女の愛を得たのはそれから数刻も経ったあとで、日の出まで、幾ばくもない時分であった。
 歌よりも、花よりも、この腕がいいと、女は男の首に腕を回した。男の微笑を誘うものだったその稚さは、彼が気付かぬうちに、十分女という生き物のものになっていた。
 葛のように女を絡め取ったらしい恋は、男の足元にも、いつの間にか忍び寄っていた。


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