#3 2year.May
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 月曜日の朝というのは基本的に憂うつなものらしいが、相当面倒なオファーが入っているわけでもない限り、俺としてはそんなに嫌な気分にはならない。まあ、仕事場でも結構好き勝手出来るようになってきたからだけど、昔も良い先輩にばっか当ってきたから、我ながら、そこらへんの運は良い人間なんだと思ってる。
 五月初めのゴールデンウィークが過ぎて、気候もどんどん良くなってきている。今日なんかはむしろ暑いくらいだ。昔省エネスーツとかあったよな。あのときはアホかと思ったが、今になって少し憧れる。いや、上着を脱げばいいだけの話だけど。
 玄関先でくだらないことを考えながら鞄と鍋を持つ。別に仕事場に鍋を持ってくわけじゃない。生活能力の低いお隣さんへの差し入れだ。ちなみに肉じゃが。先週の木曜日はカレー。ご近所付き合いレベルが昭和に戻っている気がする。
 自宅を出るのは、ほんの少しだが俺の方が早い。だから、鍋を置いて朝出掛けると、その日、それで夕飯を食べた元就が、俺の帰宅に合わせて鍋を返してくる。いつの間にか出来上がっていたサイクルだが、二週間も繰り返すと板についてしまった。
 お隣さんちのチャイムを鳴らすと、うちと同じ鐘の音がした。片手に鞄、片手に鍋という冷静に考えると少しどうか、といういでたちで待つ。のだが。
 ……もう一回、インターフォンを鳴らしてみた。やはり沈黙が返るばかりで、ドアの向こうはうんともすんとも言わない。
 初めての事態に少々驚いたが、もう出かけたあとなんかな?と結論付け、とりあえず鍋をどうにかしようと踵を返した。腑に落ちない感もあるが、向こうにも出発を早める用事くらいあるだろう。
 俺が帰宅する頃には、元就は夕飯を済ませていることが多いから、次にどのタイミングで持っていくか少し悩む。まぁ、翌朝でいいか。あったかくなってきたからといって、さすがに一日で腐りはしないだろう。冷蔵庫に入れるし。
 自分の部屋の鍵を通して、ドアノブに手をかける。そのとき、小さいが物音がした。
 首を捻る。もう一度、お隣さんの扉の前に立って、チャイムを鳴らす。すると、扉の向こうで、確かに何かが落ちる音がした。元就は、ペットも何も飼っていないから、ちょっと不穏だ。その場で、僅かに逡巡する。だが、これだけで管理人に連絡するのも、過敏になってる気がするし。
 四月半ばから、お隣さんの元就とは、急速に親しくなっている。向こうが中学生というのと、危機管理能力が低いおかげで、どうにも世話を焼いてしまう。暇があれば料理なんかも教えていて、世話焼きというより、最近は猫可愛がりに変わってきている自覚がある。
 泥棒だとか強盗だとか、そういった物取りの犯罪は、このマンションには縁遠い。しかし、警備システムが高いといっても、やっぱり完璧とはいえないわけで。どーしたもんかなーと悩んでいると、また音がした。もしかしなくても玄関に近づいてきている。
 最悪、鞄よりも攻撃力の高い鍋で応戦することになるだろうな。その際、元就の家の玄関が肉じゃがで悲惨なことになるが、謝るしかない。
 ドアノブが下がって、玄関が開く。一応身構えた。
「…っう」
 苦しそうな声が聞こえて、がたんとドアに何かが当った。つーかドアロックかかったまんまだし。
 何だと思い覗き込むと、少しだけ開いたドアの向こうで、元就が顔面を蒼白にしている。
「おいおい、どうした?」
 明らかに体調を崩している様子に、支えようと手を伸ばした。しかし、ロックがかかったままで、どうにもならない。
「な、とりあえず開けてくれ」
 そういうと、元就もこっちを認識したのか、こくこくと頷いて一度扉を閉める。ドアロックを畳む音がして、ノブが回ったのと同時に、こっちから開けた。外側に開いたドアと一緒に、元就が倒れ込んできたが、予想していたので片手で受け止める。
「ご、めんな…っさ」
「こんなときに謝るな。どうしたんだ? 熱か?」
 そういいながら、額に手を当ててみるが、こんなふらふらになるような高熱は出ていない。勿論外傷だってなし。
「ぃた、いっ…たぃ」
 玄関を閉め、鍋を置き、両腕で元就を支える。今にも泣きそうな声で「痛い」と訴えられても、痛い箇所がわからないと打つ手がない。
「どこが痛い? とりあえず、病院か?」
 救急車を呼んだほうがいいかもしれないと、スーツの内ポケットを探り、携帯を取り出す。
「元就、どこが痛い?」
「おなか、…ぃった」
「腹ァ?」
 直前まで考えていたことも相俟って、食中毒かと思ったが、土曜日に元就んちの冷蔵庫を見たときには賞味期限の切れていたものはなかったはずだ。俺が冷蔵庫の中身を把握してのも、どうかと思うが。
 元就は、下腹部を両手で押さえて震えている。制服に着替えているあたり、朝起きた時点では大丈夫だったということだろうか。もしくは、持ち前の頑固さで痛みを我慢しながら着替えたのか。……ありえる。
 何にしろ、一度寝かせた方がいいだろう。そう思って、元就の身体を抱き上げるために、膝裏に右腕を通そうとした。それで気付く。元就の太ももの内側に、赤い汚れがある。
 ……ちょっと待て。
 思わず硬直してしまった。ていうか普通する。普通固まる。どうしろっていうんだ。
「…あー、元就?」
「っぅ?」
 痛みに気が行っているのか、元就は涙で潤んでいる目で見上げてくる。わかっていないんだろうなァ、これは。おい、お嬢。
 「生理」という言葉を知っているかとはさすがに聞けず、だからといって勝手にあれこれできる問題でもない。頭を抱えたくなったが、元就を両腕で抱き上げているのでそれもできない。したところで意味ないけど。
「とりあえず、ベッドに連れてくぞ? 寝室入っていいか?」
 頷かれて、ついでにバスタオルを一、二枚失敬する。不思議そうな顔をされたが、理由を尋ねる余裕もないのか、こっちに頭を擦り付けて元就はうんうんと唸っている。つらそうにしてるのは心底かわいそうだと思うんだが、俺の口からどういう状況なのか教えていいのかこれ?
 掛け布団を捲り上げ、ベッドの中ほどに、二回折って重ねたタオルを二枚敷く。これでシーツが汚れることはないと思うが、問題は制服だよな。
 しばらく考えたが打開策も出ないので、元就を布団の中に入れると、痛み止めを探し出す方向に頭を切り替えた。あれだ、半分が優しさでできてる薬。
 いい加減、こっちもそれなりに混乱してたので、自分の部屋から常備薬を持ってくればいいのだと5分間くらい探してから気付いた。落ち着け俺。ていうか、突然こういう状況に陥った男としては随分落ち着いてる方だって思うけど!
 水で薬を飲ませると、元就は暫くベッドの中で身体を丸めていたが、体力が磨り減ったのか段々とうとうとして、小さく寝息を立て始めた。
「寝る前に、実家に連絡取らせりゃよかった…」
 今更なことを思ったが、仕方ないので会社に電話した。午後から出社することを伝えると、連絡を受けた同僚にえらい突っ込まれた。色気のある理由じゃねェよ!期待すんな!!



 僅かに寄っている元就の眉根に、果たして何度目かもわからないため息をつく。眠ってしまったこの小さい女の子は、痛む腹部を庇うように、きゅうっと背を丸めていて、その様子がかわいそうで仕方ない。今、元就の細っこい身体に降りかかってるだろう代物を考えれば、普通、労わりこそすれ、ひどく当たることなどできるはずもないだろう。
 だけどなァ。
 ぶっちゃけ、僅かな怒りもこめて、布団の中の元就を眺める。とりあえず、自分の身体に起こったことを、ちゃんと理解してから行動しろよ。
 腹が痛いなら無理して学校に行こうとするな、と言いたい。
 病状(今回は「病」じゃねェけど)をちゃんと把握しろ、と言いたい。
 そんでこれが一番だが、「年頃の女の子」なんだという自覚をもっとしっかり持て、と言いたい。心底!色々な意味で!!
「……っぅ」
 小さなうめき声が上がる。身体の大きさに比例したような、ちっちゃい悲鳴だ。
 肩を落とした。いや、怒ってるし、呆れているのも本当なのだ。だけど、そのまま放っておくには元就は危なっかしすぎて、放置する方がストレスになる。なんだこれ、ジレンマ?(多分違う)
 ポケットから手帳を取り出すと、はさんでいる薄いメモパッドに、起きたら実家に連絡を入れるよう指示を書いた。午後を回らなければ自分も部屋にいるので、多少躊躇いはあったが、携帯の番号も保険代わりに添えておく。
 というか、書いていて初めて気付いたのだが、元就に自分の連絡先を教えていなかった。今更だが、そのことにちょっと驚く。何に驚いたのかはわからんが。
 結局渡せなかった肉じゃがの鍋を持って、一度自宅に戻るため部屋を出る。ずっと元就の寝室にいるというのもあれだろう。
 自宅に戻ると、張っていたつもりもなかったのだが、やはり肩から力が抜けた。時計を確認すると9時前で、いつもは見られない朝の特番をつける。スーツの上着を脱いでから、冷蔵庫を開けて鍋を仕舞い込んだ。各紙の朝刊の一面を知らせるナレーターの声をBGMに、野菜室からりんごを拾い上げる。
 俺んとこの家族では、女は母親と姉貴だけだった。経験則から言わせてもらうと、「姉」というのは「弟」に対して、ある意味絶大の権力があるもんで、いまだに頭は上がらない。まあ、昔の数多すぎる失態をことごとくすべて知られているせいなんだけども、それがなくとも、どうにも抗えない権力構造が骨身に染み渡っている。
 男勝りの実姉だったが、それでもやっぱり、元就のそれと同じ理由で、体調を崩している期間があった。動けないのをいいことに、それの間は良い様に使われるが、おかげでその鈍痛に対して、女の子がひどく無防備にしかなれないことを、妙にリアルに知ったものだ。
 先ほどぐるぐると胸の内を回っていた元就への文句は、それで相殺にならないものもあると思う。というか、やっぱり俺の言ってることは正論だと思うんだが、違うのか。自問自答する。何で問うかというと、そんなどうしようもない元就をすでに許しかけている自分がいるから。
 叱る言葉は多いはずなのに、痛い痛いと苦しんでいた様子を思い出すと、それらがどこかに飛んでいってしまうのが不思議だ。父性本能でも刺激されてんのかな、俺。
 りんごを16等分して、それを食卓レモンとシナモンで煮る。アップルパイの具と同じ要領だ。
 主に元就のことを考えつつ、砂糖を焦がさないように火加減を見ていたら、いつの間にかワイドショーも終わっていたらしい。10時過ぎまで自宅でのんびりしているなど、休日以外ではありえないので、この時間帯にどんな番組が放送されているのかさっぱりだ。
 テレビ欄を眺めながら、適当にチャンネルと回してみる。画面が三回ほど切り替わったところで、携帯のバイブレーションが着信を知らせた。
 画面を開くと、知らない番号が表示されていた。まぁ、十中八九の予想がつく。俺に電話を寄越す前に、ちゃんと家に連絡を入れたんだろうなと思ったが、実際、通話ボタンを押して出た台詞は、痛みの具合を尋ねるもので、ちょっと自分が情けなくなった。



 謝罪から始まった元就の電話を、半ば強制的に切ると、鍋の中で随分と柔らかくなったりんごを耐熱皿に移した。菜箸でつまむと、薄く切りすぎたのか、それとも煮すぎたのか、りんごの身がところどころ切れる。菓子の類を作ること自体が久々だったので、勘が鈍っているらしい。まあいいか、腹に入れば一緒だ。俺の腹に入るわけじゃねぇけど。
 少しばかり見栄えの悪くなった見舞い品を片手に、再度隣室を訪ねる。起き上がれるだろうかと不安だったのだが、玄関先まで起きてきた元就は鎮痛剤が効いたようで、つい一時間前の様子に比べればずっとマシになっていた。ただ、それでも歩き方がぎこちなかったので、すぐに布団に入らせたが。
 上半身だけ持ち上げた元就は、両頬を紅潮させて、ちらちらとこちらの様子を窺ってくる。多分、少し眠って冷静さを取り戻したんだろう。自分の状況を、多少は理解したかな?と、その眼差しに答えると、頭まで被りそうな勢いで布団を引き上げる。
 俺も相当困ったが、元就にとっては羞恥の極みだろう。そう考えると、この話題について突っ込むのも憚られて、とりあえずりんごを差し出してみた。鼻先をくすぐる甘い匂いに、元就が目を向ける。動作が巣篭もりをしているリスに似ている。
「それ、は?」
「さっき、何も食べずに薬飲んじまっただろ。りんご煮てきた。食べられそうか?」
 腹を冷やすのは良くないだろう。かといって、とてもじゃないが、食事を摂れそうには見えなかった。若干ぬるくなっているが、猫舌の元就には丁度良いはずだ。というか、食べてもらわないとこれを処理するのは俺自身になるわけで。さすがに甘く煮た一個分のりんごは、成人男性にとってつらい。
「てか、俺一人だとこれ対処に困るから、食べてもらえると助かる」
 どうよ、と視線で問うと、おずおずと両手が伸ばされて、元就は、皿を左右から包むようにして持った。もう一度、漂うりんごと砂糖の匂いをかぎ、元就は小さい口に合うように、平たい果肉をスプーンでさらに切り取る。
「いただきます」
「どうぞ」
 僅かにとろみを持つ蜂蜜色のそれを、口に含み嚥下する。顔に集中した血液のおかげで、先ほどから顔色は良くなっていたが、元就の顔に弛緩した笑みが浮かぶと、やっとこっちも安心できた。
「うまいか?」
「うむ」
「そりゃよかった」
 同じような会話を、以前朝食の折にもしたなと思いながら、リスの食事を見守る。半分ほどを平らげたあたりで、元就のスプーンを持つ右手が止まったので、りんごをサイドテーブルへ戻した。少々心配げに皿を目で追うものだから、冷蔵庫に入れておいてやると言うと、これまた嬉しそうに頷かれた。気に入ってもらえたなら何よりだ。
「おいしかった。今度、作り方を教えてくれ」
 「教えてくれ」と直接ねだられたのは初めてで、少し面食らってしまった。というか、お菓子よりもまず食事を作れるようになるのが先決だと思うんだが。
「スティック野菜以外のサラダを、作れるようになったらな」
「……サラダなど、結局は生野菜の集まりではないか」
 拗ねたように言うな。ポテトサラダとかマカロニサラダに謝れ。
「おい」
「嘘だ、ちゃんと覚える。だから教えてくれ」
 そういわれると、断ることもできない。
 仕方ねぇなぁと首肯すると、雰囲気も女の子らしくぱっと華やいだ。しかし、僅かに身を捻った途端、元就の身体が人形みたいに固まる。
「……っ」
 眉根が寄り、元就の両手が腹部を押さえた。きゅうっと背を丸めたので、何かから身を守ってるようにも見える。苦痛に歪んだ表情が憐れなのだが、手を出すこともできない。見守るというよりは、行動を起こせずに様子を窺っていると、波が去ったのか元就が顔を上げた。折角、幾分赤味を取り戻していた両頬は、またさあっと血の気をなくしている。
 時間を置かずに、また薬を飲ませるのも胃に負担がかかるだろう。姉は湯たんぽやホッカイロで気を紛らわせていたが、さすがにどちらも持ち合わせがない。
「いつもはどうやってやり過ごしてるんだ?」
 何か用意できるだろうかと、元就に問いかける。しかし、元就は蹲ったまま、首を左右に振る。
 男の俺には、一生知りえない苦痛なので、まさに苦しんでいる最中の女の子には、どう対応されるのが一番ありがたいのか、見当も付かない。庇護欲だけが募る。まあ、募るだけ募って、やっぱし何もできないんだが。
「っん、……わ、からぬ」
「うん?」
 わからないとは、こちらもわからない。
「は、初めてなのだ。薬を飲んだのに痛いなど、計算してない……っ」
 「そもそもこんなに痛いなど、それも計算してないぞっ」と、痛みで若干イライラしてきたのか、口調が強くなってきている。てか、うん? なに。何だって??
 思考がいくらか止まって、再起動される。そりゃ、再起動は時間かかるよな。今までやってた仕事を全部一時停止して、最初からやり直すんだ。負担かかるから元々避けてるけど、今度からはもっとパソコンに優しくしよう。
 てか、おい。俺、初潮に立ち会ったのか。
「……おめでとうございます?」
「めでたいのか? これは」
「いや、身体が着々と成長してる証拠だし、めでたいんじゃね?」
「痛いのだ。我はめでたくも、嬉しくもない…」
 俺も、ぶっちゃけそろそろ恥ずかしい。死にそう。
 個人的には、すさまじく微妙な空気が流れているのだが、元就は気付いた様子がない。そうか、初めてか。そりゃ対処も何もないよな。状況判断とか、そういう話も通じねェわ。それが来てるってこと自体、わかってなかったんだもんな。でも俺のこの何とも言えない気持ちは、じゃあどうすればいいのかな!
「実家には連絡したか?」
 暫く考えて、結局、無理矢理飲み込んだ。これ以上ないってくらい、飲み込みにくかったけど。



 午後を回った頃には、お花のお稽古を終えた母親が来るというので、11時半には出社した。というか、「稽古」だというから習ってるのかと思い、優雅な趣味なんだなと感想をもらしたら、そうじゃなくて先生の方だった。着物を着ていた元就の母親が、なんとか流の家元だというのは、言われてみると納得できる。しかし、やっぱり遠い世界だ。ちなみに、元就もできるらしい。見せられたものではないと顔を俯けていたが、多分、俺には良し悪しがわからないので、元就が生けた花はきれいに見えると思う。
 ぶっちゃけてしまえば、箱入り娘の初潮に立ち会ったという状況的に、母親と顔を合わせずに済んだことが素直にありがたい。俺としては善意のつもりだったんだが、世間一般的にやっぱり微妙だろう、この上なく。というか、家を行き来するほど親しいのだと勘違いされるのも嫌だ。変態みたいで。
 まあ、実際「お隣さん」という以上に仲は良いのだろうが、一人娘を手放している家族にいらない心配をかけるのも難だと思う。同僚の猿飛から、いい加減遅刻したことを根掘り葉掘り尋ねられて、自分の置かれていた状況を思い出し、ありえなさに自己嫌悪したくらいだ。俺自身、そう感じるのだし、母親にしてみればそれ以上に違いない。元就が、母親にお隣さんのことを黙っていてくれるのが一番いいのだが、あのお嬢な女の子に、そんな気の回し方ができるとも思えなかった。むしろ、謝罪とお礼をと言い出すだろう。
 いつもの時間、夜の8時過ぎの自宅の玄関で、一つ溜め息を吐く。聞いている限りすさまじい元就の「お兄様」に、今回の件がもれないことを祈るばかりだ。
 靴を脱ぎ、廊下の灯りをつける。すると、玄関の鐘が鳴った。なんとなく、外に立っているだろう人物がわかって、居留守を使いたい気分になる。しかし、訪ねて来た人物が予想通りなら、無視するのも失礼になるわけで。
 ためらいの時間が、意外と長かったらしく、チャイムがもう一度響く。腹を括るしかない。そう思い、今かけたばかりの玄関の鍵をはずした。そして、押し開く。
「こんばんは」
「…こんばんは」
 去年の春に、一度会っただけだが、今のご時勢着物に身を包んでいる女の人は、少なくとも俺の周りには少ないので、忘れるはずもない。
「娘が、お世話になっております」
 深々と頭を下げられて、こちらも下げる。お世話していることは、客観的に見てあってると思うが、お世話しすぎの感があるので、引きつった笑みを浮かべてしまった。それに気付いたのかどうなのか知らないが、向こうはにこにこと笑顔のままだ。
「こんな時間にごめんなさいね。元就から、ご帰宅はこのお時間だと聞いたものですから」
「いえ、お気になさらず」
「お時間は取らせませんから」
 時間のかかる話の類は、俺もしたくない。内心で、何を言われるのかとびくびくしていたら、突然皿を差し出された。あれだ、耐熱皿。りんごを入れて、元就に差し入れした奴。きれいに洗われている。
「お皿をお返しに参りましたの」
「ああ、ありがとうございます」
 受け取ると、やっぱり元就のお母様は口元を隠して、くすくすと笑う。
「あの子ったら、『長曾我部さんが、長曾我部さんが』と、そう言ってばっかりで」
 はあ、そうですか。としか言い様がない。どんな反応をしてもアウトな気がする。結果受け流したのだが、随分と懐かれたものだ。悪い気はしなかった。女の子からは怖がられることの方が多いし、そもそも、好意を向けられて嬉しくない人間はいないだろう。元就はお兄ちゃんっ子だから、多分、俺はお兄様の代わりなんだろうな。最近は、元就の反応をそう考えることにしている。
「あの子が、こんなに家族以外のことを話すなんて、初めてなんですよ」
 ん?
「これからも、よろしくお願いいたします」
 いや、ちょっと待て。
 時代錯誤的なお母様は、微笑をたたえたままお隣に帰っていく。そうか、さすがに今晩は娘の部屋に泊まるのか。って違ぇよ、問題はそこじゃねぇ。
 いいのか。娘の初潮に立ち会ってしかも部屋に入り込んでいるらしい成人男子がいるっていうのにそれでいいのか。なんだ、あのお母様もお嬢なのか?(大いにありえる)
 信頼されているのか何なのか、読めない。そして、やっぱり元就のことが心配になった。あんな感覚のお母様に育てられたんだとしたら、本当に無防備かつ迂闊な性格が育っておかしくない。変な虫がついても気付かないだろう、あれ。
「お嬢って、わかんねぇ……」
 何度となく、元就に対して抱いた感想だが、お嬢全般に向けるイメージになりそうだ。もしくは毛利家に伝わっている遺伝子なのか? それ、家の存続に関わる問題をはらんだ遺伝子だろうが。
 他人の家まで心配する自分がお人よしなのか、もしくは元就が危なっかしすぎるのか。多分両方だ。とりあえず、りんごの甘煮を元就に教える約束をしたのだと思い出した。早ければ週末には、元就は、今度はこっちの部屋に訪ねて来るだろう。
 玄関先でうなだれた。
 悪意も下心もない交流であることは確かだが、まったく気に留められなかったことに衝撃を覚える。いいのか、毛利家。



(番外編)
 日直の号令がかかって、10分間の休憩に入ると、そのまま崩れるように椅子へと座り込んだ。
 デザイン性よりも、耐久性と機能性を優先させたパイプ椅子は、少しだけ不機嫌な音を立てたが、それも同級生の会話にまぎれて、気になるほどではない。
 思考の隅の方には、だらしないと己を律する心もあるが、下腹部を襲う鈍痛には勝てなくて、そのまま机に頭を乗せた。両腕で、庇うようにそこを抑える。鎮痛剤を飲んだにも関わらず、その効能はたったの3時間で薄らいでいて、妙に苛々とした。
「元就さん、どうなさったのです?」
 にこりと、張り付いたような笑みを浮かべて、楽しそうに尋ねてきたのは、自身が親しくしているクラスメイトの明智光秀だ。彼女が首を傾げると、結ばれていない長い髪のせいで、顔の3分の1ほどは隠れてしまう。強いて言うなら、日本の幽霊画が、少しだけ現代的になったような風情だと思う。
「月のものだ。大事無い」
 本当のことをいえば、こちらにしてみれば、随分な「大事」ではある。痛いし、苦しいし、それらのせいで、授業を受けるのもままならない。ただ、あまり詮索されたくない話題でもあるので、できるだけ素っ気無く答えたのだが、なぜか、途端に表情を輝かせた相手は、「おやおや」と言いながら顔を近づけてきた。
「痛みますか? 何日目です?」
「……は?」
「興味深い。ええ、とても興味深い」
 カーディガンに包まれた光秀の右腕が、こちらの腹部に伸びる。そして、手のひらでそこを幾度か撫でると、どこかうっとりとしたような喜色に満ちる声が、その薄笑いを浮かべる唇からもれた。
「この中で、あなたの子宮の内壁は、今、剥がれ落ちているのですね?」
 言葉を失う。なぜ、そんな言い方しかできないのかと思ったが、返事をするのも億劫で、僅かに目を眇めた。彼女から借りたスプラッタ映画の恨みは忘れていないし、そもそも、あの映像は一生忘れられないだろう。
 たったの一度だけ、相手の世話を焼いたら、そのまま懐かれたようなものだった。この手の人間に、甘い顔をするべきではないというのは、ある意味で己の教訓だが、折角身をもって知ったのに、いまいち生かしきれないままである。このように、彼女の接近を許してしまうのが、良い例だろう。
「お休みなさったのは、排卵が苦しかったからですか?」
「光秀」
「はい?」
「止めよ」
 聞こえた単語に、思わず制止の言葉をかける。
「なぜ?」
 しかし、まるで昨日のドラマの話題を止められたとき、同級生たちが浮かべるような表情で、光秀は不満そうに眉根を寄せた。
「言ってくだされば、いろいろと教えに、あなたのお部屋まで伺ったのに」
 要らぬ世話だ。
 しかし、初日の苦痛を考えると、確かに経験者であろう口ぶりの光秀へ、対処を乞うメールぐらいすればよかったとも思った。そうすれば、隣人であるあの人に、あそこまで迷惑をかけずに済んだかもしれない。
 優しいお隣のお兄さんに、世話を焼いてもらえることに関しては、喜んでいる自覚があるのだ。我ながら不謹慎だと思うので、口が裂けても言えないが、抱え上げられて、りんごの差し入れをもらって、甘やかされたのは、身体が弱っていたこともあって、とても嬉しかった。でも、決して仕事を半日も休ませたかったわけではないし、手間をかけさせたいわけでもない。挨拶をしてくれたお母様に、怒っていなかったかと聞いてみたのだが、そういうことは自分で確かめなさいと、優しく叱られてしまった。
 今朝、エレベーターの中で謝ったときは、「仕方ないな」という顔で、頭を撫でられた。
 ひどく、動悸が激しくなって、エントランスホールで別れるまでの間、顔が火照っていないかと、そればかり気にしていたのだが、反対に、それが痛みを感じているように見えたのか、無理はするんじゃないぞと、反対に気遣われ、また申し訳ない気分になった。
 とても恥ずかしいのに、なぜか安心もしている。最近は、そんな不思議な感覚に囚われることが多い。何なのだろうと、疑問に思う。
 つらつらと、最近の出来事に思考を飛ばしていると、そんな自身の様子を眺めていた光秀が、小さく溜め息をついた。視線を上げれば、彼女の手のひらがゆっくりと持ち上がって、こちらの左頬を撫でる。何かを検分するような手つきだ。
「今度はなんだ?」
「……つまりません」
 興味深いといったり、つまらないといったり、溜め息をつきたいのは己の方だと思う。しかし、反論する前に、もう一度光秀は口を開く。
「最近のあなたは、まったくつまらない」
 わけがわからなくて顔を顰める。しかし、ついっと身を引いた光秀は、いつもの口元だけを歪ませる笑みを浮かべて、何事もなかったかのように「元就さん」と呼んできた。
「髪を結ってくださいませんか、次は体育ですから」
「我は休むぞ」
「わかってますよ。ね、だから、髪を結ってください」
 自身はひどい不器用だが、三つ編みを編むことくらいはできる。ねだってくる相手に、今度こそ本当に深い息を吐いた。光秀の差し出す髪ゴムを受け取ると、彼女はすぐ隣の席に腰を下ろした。光秀の「つまらない」と言った声音が、どこか寂しそうだったので、また甘やかしてしまう。
 もうすぐ、梅雨が訪れそうだった。
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