#4 2year.June Copyright 2007- (C) Uoko All rights reserved. 会社を出たあたりで、すでに嫌な予感はしていたのだ。それが予感ではなく現実になったのは、地下鉄を抜けてすぐだったが、駅に着いた途端本降りになった雨脚には、仕方ないと思いつつも溜め息をついてしまう。 こんなときに限って、折り畳みすら持ってきていない。置き傘は会社のロッカーの中で眠っているので、500円出してビニール傘を買うか買うまいか、問題といえばそれだけだ。 東と西に二つある改札口のうち、一方はバスのターミナルに繋がる。今俺が立っているのは、それの反対側で、左前にあるエスカレーターに乗れば駅ビルの2階に直行だ。 繁華街とも言えないが、駅の周辺は、それでも賑わっている方だった。車道にはタクシーと乗用車の群れが、雨の中窮屈そうにしているし、手軽な遊び場が多いせいか、夜遊びをする学生も珍しくない。都心に出るより、ずっと安全だとも思うし、若い頃に遊び回ることに対して、咎められる立場にいないので、別段悪感情は抱かない。というよりも、同じ穴のむじなだ。 横手には、ATMとすでに店仕舞いを始めている花屋と、キオスクがある。キオスクの雑誌スペースの前に、バケツに入れられた傘の束があり、見ている間にも一本減った。雨粒は大きくなっていくばかりだし、そもそも、走って帰る気力はない。 再度、溜め息をつく。500円が惜しいというよりも、すでに持っているものを買うのが無駄だと感じるのだ。ビニール傘だけでも家に3本ある。いや、学習しろって話なんだろうが。 時計を見れば、19時半を過ぎたところだった。折角一本早い電車に乗れたのだし、逡巡して時間を潰すのも馬鹿らしくなって、キオスクに足を向ける。多分、こんな思考回路だから、傘ばかり増えるんだろうけど。 味気ないビニールの傘に手を伸ばす。しかし、ここ最近で聞き慣れた声を拾った気がして、ふと周囲に視線を投げた。ぐるりと見回し、胸中で首を傾げる。気のせいだったのかもしれないが、幻聴として聞いたとすると、少し自分を省みたくなるというか。 年齢の割りに言葉遣いは大人っぽくて、でも、声質はまだまだ女の子のままの、お隣さんの声が聞こえた気がしたのだ。一瞬であったから、あんまり自信もないのだが、エスカレーターの前とか、構内に置かれているベンチの傍とか、順繰りに眺めてしまう。 視線が、ATMのあたりに差し掛かったとき、もう一度聞こえた。で、思わずキオスクから離れて、本格的に探し始める。気分はあれだ、ウォーリーを探せ。そういや、案外好きだったな、俺。 こんな時間に、一体駅で何してるんだと思う。ただ、そう思った瞬間に、まだ8時前だと気付いて愕然とした。過保護の思考だ。でも、元就が相手だと過保護にもなるというか、なんというか。 改札の前で、男に捕まっているちっちゃい女の子を見つける。本当に、何やってんだっ。 「人を、待っているだけです」 「じゃあ、その人何時頃に来るの。もうすぐ8時じゃね?」 「いつも、大体この時間ですから」 近づくと、何やら問答をしている声が聞こえる。元就は、そんなに大きな声を出すほうではないから、むしろこの声量で声を拾った自分の耳に軽くショックを受けた。やっぱり、方向性は違えど、少し自分を省みたほうがいい気がする。 「でもいないじゃん」 「……」 多分、こんな風に積極的に話しかけられて、驚き半分不快半分というところなんだろう。元就は、遠目にもわかる微妙な表情をしていた。出歩く時間でないことは分かっているから、咎められることは理解できても、それをなぜ、目の前の男にされなければいけないのか、疑問で仕方がないといった感じだ。無理矢理腕とか掴まれる前に、見つけてよかった。 ぼけてて強情っ張りで、それでも、やっぱりまだまだ女の子のままのお隣さんだ。何かあると、こちらも寝覚めが悪い。 てか、こんな時間に駅で何してんだ。いや、8時前だけど。9時過ぎてから遊びに出てた過去がある俺には何も言えないけど。でも何してんだ。 「元就」 男が何か言うより先に、声をかける。呼びかけると、ぱっとこちらに視線を向けて、元就の表情が緩んだ。その反応に、妙な満足感を得てしまう。 「何してんだ、こんな時間に」 「こんな時間」と表現して、素直に顔を俯けるんだから、やっぱり、元就は育ちが良いんだろうな。で、ちらりと男の方を見る。多分、元就が一人でいたから、声をかけた程度だったんだろう。ナンパするなら、もっと付いてきそうな子を誘うほうが効率がいい。その点、元就は完璧にアウトだ。不慣れな人間に何しようとした? とは思うけど。 見て分かる「大人」が出てきたので、元就に声をかけてた男は、途端に視線を泳がせる。相手が、自分より色々な意味で力があるとわかるのは、善良な証拠だ。口を噤んだ様子を横目で眺めながら、元就の言葉を待つ。無防備に立ってたこのお嬢にも、問題はあると感じてしまう。てか、これも過保護の思考か? 「その…、雨が」 「ああ、降ってんなぁ」 言われて、外の方に視線を投げる。さっきキオスクを離れたときから、雨脚の強さは変わっていない。それがどうしたと、ちっちゃい頭のつむじを見た。すると、窺うような視線を寄越して、少しだけに早口に、元就は続ける。 「今朝、傘を持って出なかったであろう? だから」 元就の手元を見る。細い手は、明るい緑のストライプの傘と、ビニール傘を一本ずつ持っていて、前者のは元就のものだろう。 言わんとしてることがわかって、びっくりというか、なんというか、軽い衝撃を味わってしまった。今朝も、エレベーターホールで一緒になったから、傘を持ってないことはわかるとしても、折り畳み傘とか、置き傘とか、そういうことを考えなかったのだろうか。いや、実際持ってないから、ありがたいことに変わりはないんだけど。 短絡的なまでに心配して、駅まで来てくれたのが、非常にこそばゆい。ついでに、ちょっと恥ずかしい。そして、妙に嬉しい。 「持ってきてくれたのか」 「いつも、世話になっているゆえ」 余計なことをしたかと、視線で尋ねてくるのに笑い返して、助かったよと頭を撫でる。一拍の間を置いて、ふんわりと弧を描く細い眉と、微かに持ち上がる口角が可愛い。よしよしと髪を梳いて、にこにこと笑いかけた。 「で、こいつは?」 「知らぬ」 ついでに、まだいる男をちらりと見遣る。それには、端的な答えが返ってきた。知らない人間なのだから、元就の言葉は正しい。ただ、ちょっと呼吸を詰めた相手は報われない。いや、報われる行いをしていないから、それも当然だが。 「何か用か?」 「あんたこそ、何…」 「兄貴だよ、この子の。で、お前は何してんだ」 機嫌は良いので、優しく対応する。相手にも悪意までいく感情がなかったのはわかるから、なおさら。笑ったままで畳み掛けると、相手は黙り込んだ。うん、やっぱり、子供は素直なのが一番いい。 「帰るか、元就」 「うむ」 こちらの様子を、不思議そうに眺めていた元就が、こくりと頷く。ゆっくりと、元就の歩幅に合わせて歩きながら、改札を離れて駅を出た。 駅周辺は騒がしくても、住宅街に近づくにつれて、人影はまばらになる。車の通りも多いわけではないし、まだ静寂には遠いというだけで、十分、街は夜の姿をしていた。元就が、こんな中を歩いて駅まで来たのかと思うと、少し考え込む。一般常識の欠落してるお嬢育ちが夜歩きをするのは、やはり心配というか、なんというか。ただ、実際のところ、俺にはそこまで物を言う権利もないのだ。それこそ、兄貴じゃないんだから。 お互いに傘を差していたから、少し話しづらかったが、そもそも、元就は言葉数の多い人間ではないので、一言二言のぽつぽつとした会話が主だ。コンビニで、駄賃代わりに何か買ってやろうかと言うと、首をぶんぶんと振って断ってきた。予想はしてたが、そこまで拒否されると少し悲しい。仕方ないので、今度また甘味を作ってやろうと勝手に決める。 マンションの前まで来て、やっと傘を閉じることが出来た。傘というのは、恩恵を与っていて言うのも難だが、やっぱり、そこまで便利なものでもないと思う。足元はどんなに頑張っても濡れるし、何より片手が塞がってしまう。 「我は」 マンションの玄関を抜けて、エレベーターホールに入ると、元就は、小さな声で話しかけてきた。多分、歩いていたなら、聞き逃してしまいそうなくらいちっちゃい声だ。 「うん?」 聞き返すと、右側にいるお隣さんは、顔をこちらに向けないままで、少しためらう。エレベーターの階数を知らせるランプが段々と一階に近づいていて、その点滅が三階に差し掛かったところで、元就は再度口を開いた。 「我は、妹か」 「あ?」 「……先ほど、兄と」 意図が読めず、聞き返す。すると、睨めつけるような眼差しで、横顔がちらりと視線を寄越した。 「先ほど」というのは、駅で男に向かって言った言葉のことだろうか。それは、「お隣さんだ」と言うより「兄貴だ」と言う方が効果があるからだ。さすがに、「父親だ」と名乗るほど歳食ってない。ただ、これは、……よくわからないが、その言葉に対して拗ねているのだろうか? 相当、わかりにくいが。 「あれは、お隣さんっていうより、そっちのが良いと思っただけだ。元就には、実際兄貴がいるしなぁ」 「気を悪くしたか」と尋ねる。聞いた限り、妹狂いとしか思えない兄貴だが、元就と似たような上品さがあるのかもしれない。それなら、柄の悪い自分に兄貴と言われるのは複雑だろう。ただ、そういった不快さとも違う雰囲気であるので、こちらとしては対応に困る。 「いや、違う。その、違うのだが」 ぽーんという軽い電子音がして、エレベーターの扉が開く。とりあえず乗り込むと、うまい言葉を探しているのか、元就は顔を俯けて黙り込んだ。あんまり、追求するのもかわいそうなので、様子を眺めていると、元就はやっぱり、少しだけ恨めしげに顔を上げた。 「我は、……妹なのか」 再度、同じことを元就は問う。困惑したような、納得がいかないような、悲しいような、そういう「悩ましい」といって、過言でない表情をする。見つめてくる。 考え込んでしまった。なんというか、元就自身が気付いていない本音に近い部分を、自分の方が先に覗いてしまって、どうしてやるのが一番良いのか、決めあぐねて困惑する。「妹」じゃないのだから、「違う」と答えるのが正しいだろう。ただ、ここで「妹じゃないのだ」と断言するのは、自分にとっても、あんまりうまい返事にはならない。 妹じゃないなら、この子は何だと、単純に新しい問いが出るのだ。「お隣さんだ」と言えば、「お隣さん」にするには過ぎる手間をかけていて、それを誤魔化す言葉が「妹みたいなもの」という呪文だったのに、それを否定することになる。自覚もないのに男に向かってそんなことを尋ねるのだから、女ってのは怖い。元就は、「妹」じゃないのだ。 「本気にすんな、言葉のあやだ」 多分、それは、元就の欲しがった言葉ではないだろう。その場しのぎの誤魔化しだから、敏い相手は、今でなくても、そのうちこちらが即答を避けたという事実に気付くはずだ。 何の解決にもならない返答だった。しかし、元就は「そうか」と小さく返事を落として、マンションの廊下を静かに歩く。 「傘、ありがとうな」 部屋の前で、もう一度声をかける。すると、元就はふるふると首を振った。消沈している様子が可哀相で、髪を撫でた。頬にかかっている一房を掬い、相手の耳に掛ける。そのとき、左頬をこちらの指先が掠める。 「ご機嫌よー?」 そういうと、元就は驚いたように目を見開いて、「おやすみなさい」と返してきた。それを見て思う。この子は、笑ってるほうがいい。 部屋に戻って、ネクタイを緩めながら、息をつく。弱ったなぁと思うし、面倒なことになったなとも思う。 閉じたカーテンの向こうは、いまだ細い銀糸の幕に、覆われたままだ。 |
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