#5 2year.July
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 昼前になると、段々と終わらせるべき仕事の数が少なくなって、一息つくだけの余裕が出てくる。机の前に積み重なっていたファイルが、どんどん消えていくのがいい証拠で、残っているのはもう2冊とか3冊とか、それぐらいだ。これが、午後の3時を過ぎると、また忙しくなるのだが、今日は日が良いのか、急な仕事も回ってこない。平和というのはいいことだ。
「だーんな」
 ディスクを片手に顔を覗かせた相手が、いつもの口調で声を掛けてくる。「猿飛佐助」という同僚の一人で、なんだかんだで長い付き合いだ。気のない返事を返しながらも、何だと視線で問えば、先日の仕事のデジカメ画像を持ってきたらしかった。ただ、それはあくまでこじつけの用事で、相手にとっての本題が違うということくらい、目つきで悟れる。
 寄こせと差し出した手のひらを尻目に、口元をディスクで隠した佐助は、双眸だけで笑う。この男の欲しがるような情報を持っているつもりはないから、僅かに眉をひそめた。ちなみに、癖なので仕方ない類のものだと思うのだが、こちらが隻眼で窺うと、大抵の人間は一歩引く。睨んだつもりはなかったので、そのことを指摘されたときには案外ショックを受けたものだ。で、自分の人相が悪い部類に入るのだというのも、一緒に自覚した。
「旦那、一月くらい前半休取ったでしょ? あれの理由、まだ教えてもらってないよねぇ」
 あれか、俺がすさまじく疲労困憊したあの日のことか。
 すぐに思い出せるくらいには衝撃的な状況に放り込まれたので、すぐに相手の言いたいことを察することができる。というよりも、あの日連絡を受けたのは佐助自身で、出社したあと、理由を根掘り葉掘り聞かれたことも記憶に新しい。こちらが妙に疲れた顔をしていたのも悪かったと思うのだが、どうも色事の方面に勘ぐられたようで、遠回しに何度も聞かれたのだ。実際は、小さいお隣さんの初潮に立ち会ってたわけで、頼むから思い出させてくれるなというのが正直なところだった。
 即答を避けるしかない話題なので、濁し濁し佐助の興味が失せるのを待っていたのだが、まだ気になっていたらしい。お前は女子高生か。
「半休ってところが怪しいよね。彼女なら彼女って言えばいいのに、それもないしさ。気にするなって言う方が無理」
 面倒な相手に手を出してるなら協力するよ。なんて、調子の良いことを言いながら、こちらの表情の変化を眺めている。元就との付き合いが始まってから、夜遊びの回数も激減したので、それも踏まえての発言なんだろう。思わず、深い息を吐いた。相手の想像してるものがわかる分、リアルとの差に何だか疲れる。
 お隣さんの存在は、会社では話していない。当たり前だ。人様から見たら、相当奇特なことをしている自覚くらいある。加えて、先月の中頃からこちらが対応に困る事態に陥っているので、このことに関して口を割る気は一切なかった。ただ、溜息を吐いて水底の貝よろしく沈黙したこちらに何を思ったのか、佐助は微かに笑った。苦笑に近かったが、「旦那の交友関係、知りたがってる子は結構いるんだよ?」と、追い打ちのように続ける。
「旦那は、案外罪作りだよねェ」
 まったくもって、目下犯罪者になる一歩手前のあたりをふらふらしている最中だ。
 梅雨前線が通り過ぎて、初夏の空は眩しいばかりだ。気温はこの一週間上がり調子で、元就は、あと数日もすれば期末テストが始まると言っていた。テストのために、何か特別な勉強をしないのは大したものだと思うが、多分、テスト前日に記憶力に頼るという行為自体、彼女は思いつきもしないのだろう。
 元就は、夏休みの間は実家に帰るらしい。まあそうだろうなと思うが、8月の中旬に文化祭準備のための登校日があるらしく、それの間はまたマンションに戻ると言っていた。両親と兄貴に甘えてこいと言ったが、そのとき、ふと相手が見せた寂しそうな眼差しに、どう答えたものか未だ悩んでいる。
 放って、気付かないふりをしてやるのが、一番だと思うのだ。相手はまだ小さくて、それこそ、色恋に関しては右も左もわからないお嬢様なのだから、妙に突かない方がむこうの幸福にもつながるだろう。そう理性は訴えるのだが、なんとなく相手の心情を察してしまっている手前、ひどく不可抗力な罪悪感をひしひしと感じる。何がやばいって、元就を迷惑だと言い切れない自分がやばい。だからこそ、罪悪感なんて生まれるのだ。
「マジで、犯罪者は勘弁だよなァ」
「なになに、本当にやばい相手なの?」
 食い下がろうとする相手から、ディスクを奪って追い返す。
 元就の夏休みが始まれば、隣室は空っぽになるのだ。彼女のために夕食を一品増やすこともないし、朝、出かける間際に交わす他愛のない会話も当然なくなる。
 そのことに、自身は安心するべきなのだろう、きっと。
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