Beloved Days.
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 その日、薫が自宅の玄関を開けると、常の通り揃えられた妹のローファーの隣に、見慣れない男物が並べて置いてあった。一瞬の動揺のあと、すぐに持ち直した自身のことを、薫は褒めてやりたいと思う。妹が、男を連れ込んで何かをしていると、疑ったわけではない。そんなことを考えつきもしない妹だからこそ、端的な「彼氏」の存在を示すそれに、彼は思わず、息を呑んだのだ。
 薫の双子の妹は、千鶴という。彼と異なる公立高校の一年生で、今年の春に入学したばかりだった。ばかりといっても、新しい環境に置かれて、すでに半年が経っているのだから、男友達の一人や二人ができるのはおかしなことではない。とりわけ、夏休み明けとは何組かの恋人関係が、クラスの中でもできあがっているものであるし、薫は、まさかあの妹がと思いはしても、珍しいことではないと自身に言い聞かせた。
 肩にかけていた学生鞄を下ろし、薫は靴を脱ぐ。彼らの母親は、二人がいまだ幼いころにすでに逝去していて、父親は、子供たちのことを愛してはいても、医者という職業柄多忙だった。小学校を卒業する頃までは、通いのお手伝いさんがいたものだが、あまり他人を好まない薫の性質を千鶴は知っていたので、中学に入ってからは、彼女が家事をこなすようになり、そして、そのまま三年間が過ぎた。
 千鶴を表現するとき、薫は、まず「お人よし」だと言う。ついで、要領は悪いが性格が良く、察しは良いが運が悪いと表現する。つまり、穏やかで優しい心根だが、流されやすくて揉め事に巻き込まれる。そんな千鶴を、くるりと反転させたのが薫で、性格的なものは正反対といってもよかったが、十五、六を過ぎた兄妹にしては、彼らは仲が良かったろう。
 千鶴は、高校に上がって異なる学校に通い、日中を共に過ごさなくなった薫へ、一抹の寂しさを覚えている。口に出してこそ言わないが、まるで報告をするように千鶴自身の学生生活を語り、薫の話も聞きたがった。そろそろ兄離れをさせなければと、薫が思ったのはそう昔のことでもない。しかし、いざ薫以外の男が、妹の部屋を訪れることのできる関係になっているのだと考えると、あまり面白くはなかった。
 妹の語る高校生活に、男のできる気配などあっただろうかと、薫は思う。眉根が寄るのは、気分が悪いのだから仕方がなかった。授業のことや、クラスメイトのことや、部活動のことと、千鶴は何でも、薫に話して聞かせたから、薫の知らないことの方が、きっと少ない。そんな中で、ほんの数回だが、千鶴が本気で泣き出しそうな顔で、薫に詰め寄った話題がある。曰く、「男の人って、みんな意地悪なの?」と、薫も含めてなぜに男はひどいのかと、まるで子供が拗ねるような顔で、それでも眼差しだけは一層悲壮に、ある男の話題は、夕食の席で語られたものだった。
 「沖田先輩」という単語が、千鶴の口から出るようになったのは、梅雨が始まる少し前のことだと思う。「意地悪だ」「怖い」「ひどいことばかり言う」と、千鶴にしては珍しい口調で相手を詰るので、そんなに性根の悪い男は無視しろと、相手をする価値なんてないと、助言したことも少なくない。しかし、薫が男のことをそうやって非難すると、彼女は慌てたように、「でもね」と相手を庇うのが常だった。
 千鶴は、お人よしだ。だからこそ、自身に害をなすものも、責めきれない甘い部分がある。千鶴の行動は、そういったものの一つだと、まったく煮え切らない妹に、そのたび薫は溜息をついたが、男の方の行動の理由は、案外読めないでもなかった。千鶴の話を聞いていても、十二分にわかる。ただ「そいつ、お前のことが好きなんだよ」と、わざわざ教えなかったのは、教えるような義理がなかったからだった。
 まさかと否定しても、それくらいしか思いつかない。妙な心地のまま、薫は自室へと向かう。二階建ての一軒家だが、階段を上って奥の部屋が彼の自室だった。その手前が千鶴の部屋で、あと一室ある一番小さな部屋は物置になっている。父親の部屋は一階にあり、概ね帰宅時間の遅い自分の物音が、子供たちを起こさないようにという配慮の元の割り振りだ。昔は、二人でこっそりと父の部屋に入り込み、よくわからないものを取り出して、日がな一日遊んだものだった。
 相手の顔を見てやろうと思ったのは、意表返しのようなものだ。恋人の兄が突然部屋に入って、居心地の悪くならない男はいない。それが、彼女に瓜二つの顔をしていればなおさらのことで、薫は、案外と子供っぽい嫌がらせをする自身に苦笑した。
 男物の靴に気付かずに、それこそ、いつものように帰宅して、迎えに出ない妹の様子を、少し窺っただけのように、薫はノックと同時にドアを開ける。「千鶴」と妹を呼んで、そして、目を見開いて硬直している自分の顔を見つけた。
「……か、かおる」
 正確に言うなら、驚愕の表情で固まっているのは薫ではなく千鶴だ。けれど、薫も千鶴と同じ顔をして微動だにできなかったから、やはりそれは、彼にとっても彼女にとっても、「自分の顔」だった。
 千鶴は、制服である紺色のセーラー服を着たままで、自室のベッドに仰向けで寝転がっている。スカートに皺がつくから、いつもの千鶴ならば、決してしないようなことだった。
 その上に、男がのしかかっている。彼は、薫が千鶴のことを名前で呼んだ瞬間に、ひどくつまらなそうな顔をした。しかし、今まさに押し倒している自分の彼女が薫の名前を呟くように言うと、得心したように笑う。
 男は、顔だけを薫に向けていた。その口元の笑みは、にやぁっとしたもので、多分、この状況下で一番慌てるべき男が、一番冷静だった。千鶴の頭部の右側についた腕も、プリーツスカートを僅かにたくし上げ、膝より上を撫でている手のひらも、ついでに、ほどいたのだろう制服のリボンもそのままで、男は、薫に笑って見せた。
「はじめまして」
 水を打ったような静けさと緊張感の満ちた部屋の中に、何とも言えない場違いな台詞が、ぽんと、投げ込まれる。そして、いまだに状況を呑み込みたくない薫と、状況に混乱している千鶴を放って、男は、微かに首を傾げた。次に、相手が浮かべた表情は、妙な話「完璧」な微笑だった。
「はじめまして、お義兄さん。妹さんをいただいてます」
 沸騰したのは、薫の場合は頭だったが、千鶴の場合は身体全体だった。頬と言わず首筋と言わず、真っ赤になって羞恥に耐える妹の姿が、薫の中の最後の何かを、それはもう前代未聞の殺人的な威力で壊し、潰し、押し消した。
「ッ、出ていけ!!」
 怒号は響いたが、男は僅かにうるさげに眼を眇めただけで、反応は薄かった。そのまま、まるでじゃれるように千鶴の頬へ何度も口づける相手のふてぶてしさに、薫が本気でキッチンから肉切り包丁を持ってこようとすると、兄の気配を感じ取った千鶴が、自身の恋人に半泣きで必死の懇願をした。
 男は、千鶴の恥じらう様と泣き顔と懸命な譲歩を楽しげに聞き、最後に、薫の目の前で可愛らしいキスを一度だけすると、「また明日ね」といって帰っていった。



「違うの。沖田先輩はね、いつもああやって、私のことからかうだけなの」
「いつもっ? いつもあんなことされてるのか?!」
「あ、あ、違うの、薫。あれは、沖田先輩の……冗談なの!」
「冗談で俺の妹を押し倒されてたまるかっ」
「あ、あの、あの、違うの。沖田先輩はね、ちゃんと、真面目に私のこと考えてくれてるから、いつも冗談で終わらせてるの……!」
「真面目に考えた上で冗談で終わらなかったらどうするつもりなんだ!」
 その日、食卓は散々なことになった。
 興奮しきった薫との会話に、すでに千鶴は泣きそうで、彼女も空前絶後の動揺のあまりテーブルに並んだおかずは皆が皆、どれも辛すぎたり甘すぎたり酸っぱすぎたりした。ただ、どんな料理であったとしても、それを冷静に味わう余裕が薫にも千鶴にもなかったから、料理の質は、あまり問題ではなかったろう。
 千鶴のフォローになっていない沖田に対するフォローを聞くたび、薫の怒鳴り声は大きくなる。千鶴は、どうにかして兄の中の沖田の心証を良くしたいのだろうが、最初から最後まで千鶴のことしか見ていなかった男は、正直薫にどう思われようと興味がないに違いない。
「兄さんは反対だ……ッ」
 言った瞬間、千鶴は悲しげに眉尻を下げた。しかし、薫は発言を撤回するつもりにも、今後一切、彼らの交際を認めるつもりにもなれなかった。ただ、「妹離れしたら?」と、今日会ったばかりのあの男が、鼻で笑った幻聴が聞こえた。



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