溶け消える恋
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 母親からの文だった。彼女の代わりに歌合へ出向けという趣旨のもので、泉水は了承の文を文使に持たせ帰した。
 珍しいことだと思うのと同時に、分不相応だと気が重くなった。乞われるままに、宴席で笛の音を奏でるときと同じような息苦しさが、泉水を襲った。泉水の笛の音で、人々の耳が汚れるのではと思うと、仏にどのように祈っても許されない心地がした。それと同じように、歌は決して泉水にとって、厭うものではなかったが、しかし、拙い歌を詠むことは憚られた。泉水の風評ではなく、母親にその余波が行くことが、わかっていたからだった。
 「断ればいいのに」という、少女の幻聴を聞いた気がして、ふと笑う。泉水がつまらないだろう身の上の話をするたびに、花梨は心配げに、哀しそうに、庇う言葉をかけた。そのような優しい心遣いを受ける資格もないのだと思えばこそ、さらに喜びが増すのであるから、人は業が深い。
 死して後、自身はどの地獄へ堕ちるだろうかといつも思っている。
「またや見む…」
 泉水の隣に座した公卿が、歌を詠む。
 ああ、どうしたものか。考え込み、まったく不得手な題目の歌合に招かれたことを、恐縮して仕方がなかった。題目が「春」だというのは、まだいい。自身でも、自然を詠うのであれば、まだマシなものを詠むことができる。
 しかし、「恋」の歌を詠えというのは、酷だった。自分の作る恋の歌など、痛々しいまでにみすぼらしいのだ。母の意図はここにあったのだと、泉水は気付いた。母は、時折こうやって、泉水がどれほどに愚かで役立たないかを知らせようとする。それは泉水にとって苦しいことだったが、目をそらしてはいけないことなのだ。そう思い、ただ自身の身の愚鈍な様を見る。
 さくらの歌を詠み終え、公卿は満足げに笑う。泉水の恋歌がつまらないことは、この場の人々も承知であったから、わざわざ次を急かすことはない。風が吹き、庭の桔梗が揺れていた。紫の花弁の美しさに、一瞬気を取られた。そして、七草の花篭を届けたときの、花梨の笑みが胸に広がった。
「風かよふ 寝ざめの袖の 花の香に かをる枕の 春の夜の夢」
 場が鎮まる。しらけさせてしまったと低頭する思いの中、なぜか胸は温かいもので満ちていた。
 口元を扇で隠した先の公卿が、目を見張って泉水を見ていた。視線に気付き、目礼をする。
「これはなんと。いったいどうして……」
「あの……?」
 わからずに、また公卿の言葉も意味を成さないものであったから、泉水は困ってしまう。ただ、「なんと」と繰り返す男を放るわけにもいかず、泉水は静かに次の台詞を待った。
「恋をされましたか」
 別の席から声がかかった。高名な法師で、歌の才もある人だった。泉水は恐れ入る気持ちで、「そのような」と首を振る。自分のようなものが恋などとは、罪に他ならない。
「素晴らしゅうございましたよ」
 泉水はどうすればいいか分からず、ただ謝辞を述べ、身を硬くする。恋などと、罪に他ならない。ただ春の霞の中に、ぼんやりと思いを溶かすだけでいい。溶け消え、贖いのため彼女に尽くし、それだけでいい。
 花梨の黒方の香が、ふと風に乗り、届いた気がした。


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