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「まぁ、偶然ってあるものなのね」
 昼食を取るというには、午後を回りすぎた時刻だった。むしろ、陽光はあと数刻も経てばその身を夕風に遊ばせるような時間で、いまだ不機嫌の気配を見せる空は、それでも気紛れに泣き止んでいる。
 朔はベンチの上にハンカチを敷くと、しっかりと両膝を揃えて座る。品の良い仕草に内心の憧憬を強めつつ、望美はその横にすとんと身を落とす。彼女とて、下品であるわけではなかったが、やはり朔の持つ洗練された物腰と比べれば、一線の違いを認識せざるをえない。それはそのまま望美の中で、美しい親友に向ける憧れとなるのだが、朔当人はといえば、それら望美の眼差しを僅かにくすぐったく感じているらしい。
 病棟に面した中庭を眺めながら、望美は弁当の惣菜を口に含む。彼女のそれらは、多くが冷凍食品である。数少ない手作りのうちの卵焼きが、若干哀れなことになっているのは愛嬌だ。望美にしてみれば、十分まともな部類に入る。
 当初、望美は今朝の出来事について、朔に話すつもりはなかった。心配性な彼女の友人が、心を砕いて案じてくれるだろう事は十分予想できたし、そういったことで、忙しい看護婦である朔を、煩わせたくはなかった。しかし、常ならばすでに仕事に戻っているべき時間に、望美が朔を見つけて昼食に誘ったものだから、朔にしてみれば、いたって自然に疑問がもたげた。二人の休憩時間が被るということは、至極稀である。しっかりとした時間区分の休憩が存在しない職場であるから、それは致し方ない。望美にしてみれば、正当な理由があったとはいえ遅刻したことは変わりなく、常よりも仕事の時間が押してしまっただけなのだが、そう白状してしまえば、結局ずるずると芋蔓式に全てを聞きだされることとなった。
 痴漢被害にあったのだと望美が言えば、望美以上に朔は秀眉を顰めた。しかし、如何せん捕り物の様子を望美がおかしそうに話したものだから、初め、果たして笑って良いところなのか判断つかないという表情をしていた朔も、最終的には微笑んだ。ただ、彼女の浮かべた微笑は、その話に対してではなく、むしろ望美が笑っていることへの安堵が要因だっただろう。
「でも望美、あなた本当に大丈夫だったの? この頃は怖いニュースも多いから、不安だわ」
 望美は最後のひとかけらを飲み込んでしまうと、ふるふると首を振った。お茶を一口、口に含み、ゆっくりと嚥下する。その様子を「焦らなくて良いのよ」と、まるで朔が望美の母親か姉のように見つめる。
「大丈夫。元々、私神経太いし、色んな人に助けてもらっちゃったし」
「そう? ……それなら、いいのだけど」
 僅かに歯切りの悪い返答を受け、望美は一度、上半身ごと朔へと向けた。そして、視線をしっかりと絡め、健康的な笑みを見せた。
「ホントだよ」
 彼女の身体全体全体を使った親愛に、朔は眦を和らげる。
 木々を揺らす風は、雨の気配をまだ十分に含んでいる。彼女らの座るベンチの背後には来院患者のための外来棟がある。内科、外科から始まり、MRI検査やレントゲン検査の機器もこちらに置かれており、院内とはいえ、やはり多少のざわめきが常に満ちている。対して、それと向き合うように建てられたのが病室病棟だ。多くの場合、ナースステーションを基点としている朔や、リハビリテーション科に勤めている望美の職場は、病棟側といって差し支えない。二つの棟はコの字の形で繋がっており、長期入院患者のための整髪店や書店、またシャワールームなどは連結棟に設置されている。
 すでに空となった弁当箱を仕舞い込み、望美は朔が食べ終わるのを待つ。盛りを過ぎた躑躅の垣根が、レンガ造りの散歩道に沿って植えられ、常緑樹の多い中庭の中で、気の早い野バラが白い花弁を広げていた。濡れた芝生の中で、萎んでしまったヘビイチゴの実が濃い影を落としている。
 望美は膝に両肘を突くと、頬杖をして空を見上げた。上目遣いの眼差しは物憂げで、彼女の次に口にするだろう台詞は、朔にとって想像も容易だ。案の定、望美は一つため息を吐いたあと、朔の考えた通りに一人ごちる。
「雨、早くやまないかなぁ」
「ついこの間、梅雨入りをしたばかりじゃない?」
 例えば、小学生が運動会前日に、てるてる坊主を作っているような表情で望美は言う。思わず諭すような口調となった朔は楽しげに笑うと、最後に残っていた小松菜の胡麻和えを口に入れた。望美の子供っぽい仕草を、愛しんでいる声音だった。
「もう少し降ってもらわないと、夏に水不足になってしまうわ」
「それは嫌なんだけど。でもなぁ」
 宥めるための朔のいらえにも、望美の返事は芳しくない。
 望美は、決して雨を嫌っているわけではない。雨音や、まるで一枚紗をかけたような濡れそぼった街を、彼女はむしろ、好意的に受け止めることができる。ただ、雨の日よりも晴れの日を好んだから、望美はほんの少し寂しい思いをしているだけなのだ。望美の視線は、重たげな雲を連れている空へと向けられたままで、若干のうらめしさを含んでいる。甘やかしたくなる様子を見せられ、それでも朔は、僅かに意地悪く囁いた。
「私は、雨は好きよ。望美はきらい?」
 両膝の上に手を重ね、朔は望美を覗き込むようにしながら言う。
 大好きな親友の言葉を受けて、望美は虚を突かれたかのように目を丸くした。そして、注視していた雨雲など、すぐさま視界から、ついでに思考からも放り出して、望美は朔に言い募る。望美とて、朔がほんの冗談でそんな言葉を選んだのだということはわかっていた。それでも、朔の好むものを疎んでいると思われるのは、彼女にとって避けたいことに変わりなかった。
「そうじゃないよ、好きだよ雨。ただ、見てる分ならともかく、その中を出掛ける身としては、ちょっと困るだけで」
「ええ、わかっているわ。ごめんなさい、からかったの」
「やっぱり!」
 悪びれない朔の言葉に、望美はくすくすと笑った。
 他愛のないじゃれ合いに、やはり微笑んでいた朔の視線が、ふと病棟へと向けられた。等間隔に並んでいる窓ガラスの内の一つから、二人へ向けて振られている手があった。小さな手だ。朔につられ、気付いた望美も手を振り返した。小児病棟へ長期入院している子供の一人で、彼は花が綻ぶように笑顔になると、さらに大きく手を振った。
 彼は、小児病棟で保育士の真似事のようなことをしている望美へ、ひどく懐いている。色素の薄い小さな身体をいっぱいに使って、ずっと彼女たち二人へ合図を送っていたらしい。様子を見ていた看護婦が、子供の背を押して促した。検査室へ行く途中だったのだろう。
「気付かなくて、悪いことしちゃった」
 ちらちらと、望美を振り向きながら去っていく姿を最後まで手を振ることで見送り、彼女は多少気落ちした声音で呟いた。そして「今日は、めいっぱい、一緒に遊ぼ!」とこぶしを作って笑う。一時、比較的健康体の子供たちとかくれんぼをして、院内を東奔西走していた望美を知っている朔は、その言葉への反応を苦笑でとどめた。看護婦の立場からすれば、ベッドの上から下りられない小さな患者たちへするのと同じように、絵本や積み木やトランプが好ましいのだが、楽しげな幼い笑顔を見てしまうと、彼女にも強く嗜めることはできない。
「あ、大丈夫。鬼ごっことか、危ないのはしないから」
「当然よ。せめて、だるまさんが転んだとか、そういうのにしてちょうだい」
 諦観の声音で包んだ言葉の本意は、それでも望美を咎めるものではなかった。同じ文句を「先生」からも言われている望美は、笑ってやり過ごすしかない。
 彼女が腕時計へ視線を落とすと、休憩終了まで残り十分であった。朔にはもう少しの余裕があったのだが、望美の仕草に気付いたのだろう。朔はすっと立ち上がった。揃って、病棟へと足を進めると、どちらともなく別れを意図する眼差しを投げ合った。
「それじゃあ、頑張ってね」
「ありがとう。あなたも、あまり無茶をしては駄目よ」
 大きく頷き、望美は手を二度三度と振って、朔に背を向ける。朔は、僅かな間躊躇うと、その背中へ呼びかけた。くるりと、軽快な身のこなしで望美が振り返る。
「望美、蒸し返したくはなかったのだけど、今朝のようなことがあったばかりだもの。あまり、遅くならないうちに帰りなさいね?」
 正規の勤務を終えた後に、ただの自主性で病棟へと通う望美を、心底思っての言葉だった。それは大きな喜びを望美にもたらす優しいもので、だから彼女は笑って行儀良く返事をする。ただ、その言葉通りにできるかどうかは甚だ疑問であったから、望美は「できる限り、そうする」と答えた。



 「できる限り、そうする」という言葉には、すでに含意として「多分、できない」という意図が込められている。さらに、この場合の「多分」というのは、字面の通り「大部分」とか「大方」の意味合いが強勢で、つまるところ「絶対無理だとは思うけど一応頑張ってみる」というのが正しい意訳になるだろう。
 そこまで意地悪く考える必要はまったくないのだが、朔の親切心に報いることのできなかった望美は、現在、若干良心の痛む思いをしていた。
 常よりも遅く病室を覗き込んだ望美に、それでも子供たちはにっこりと笑って答えてくれた。薄明るい外はそれでもしとしとと雨だれに濡れていて、もとより室内遊びのつもりだった望美が持参した絵本を二冊、三冊と読み聞かせるうち、宵の薄闇をまとった時間はすっかり領土を勝ち得ていた。
 あくびを漏らす小さな口が増え、望美の右隣にぴったりとくっついていた先の子供も、彼女と同じような長い髪を揺らしてこっくりこっくりと舟をこぎ始めた。
「もう、おやすみなさいしようか」
 望美がそういうと、少数不満そうな声が上がった。しかし、結局全員がベッドへともぐりこみ、そんな彼らと、望美は「また明日ね」という約束を交わす。消灯時間まではまだ間がある。しかし、すでに数人は半分以上夢の世界の住人となっており、女の子同士の小さな話し声が、時折聞こえるばかりであった。
 病室から離れながら、望美は馴染みとなった看護婦達へと会釈をする。リハビリテーション科の職員室を覗くと、当直の数人がいまだ居残っていた。その中の一人に顔見知りを見つけ、ついでとばかりに彼女が生理学の医学書を持ち出したのがいけない。彼は、望美に比べて三年ほど先輩の療法士で、とにかく面倒見ときっぷがいい。結局、不理解の部分を質問すれば気前よく教鞭を振るってくれるその男と、望美は二時間ほどの自主勉強に励んでしまった。
 小雨の中、彼女は常の帰宅時刻よりも大幅に遅れて、救急専用の小さな受付口を通る。すると、街灯が灯るばかりの薄暗い空間が望美を囲った。病院の敷地内、外来棟正面にバス・タクシー用のロータリーがあるが、当然のごとく、夜中の十時半を過ぎた時間にダイヤなどない。正門前には、左右へ伸びる道路が走っている。ちなみに、右にずっと二キロメートルほど進み、さらに左手に曲がって三十分も歩くと、彼女の通っていた付属大学の校舎が見える。
 門を出て左手、小さなベンチが鎮座するバス停で、望美は立ち止まった。車のエンジンの音も遠く、彼女の鼓膜を打つのは、柔らかな雫同士の戯ればかりである。
 上手い暇潰しの方法も思いつかず、かといって分厚いハードカバーの医学書をこの場で読み進める気にもなれなかった望美は、結局ぼうと夜の道路と、街灯と、街路樹を見つめることくらいしかできない。そもそも、あたりを包む闇夜の中で細かな文字を追うことなど不可能だから、彼女の鞄に入っているそれが例え文庫本であったとしても、望美の状況はそう変わらなかっただろう。ふと、多少の眠気を覚え、望美は小さくあくびをもらした。
「何をしてらっしゃるんですか?」
 その声の主は常に唐突だ。
 不意を突くには不似合いなほど、ただ穏やかな男の声音に驚かされるのは、彼女にとって、今日だけでもすでに二度目である。長い吸息の途中であったから、望美は答えようとして小さくむせる。その様子に、弁慶は僅かに慌てて驚かせたことを詫びた。
「すみません。どうも、タイミングというものが悪いみたいですね。僕は」
「いえ、こっちこそ、毎度驚いてごめんなさい」
 胸を押さえる望美を、弁慶が覗き込む。しかし、互いに傘をさしているせいもあり、覗き込むといっても正確に顔色を窺えるような距離感ではなかった。あくびを変な形で中断したものだから、望美は飲み込んだ驚きも相俟ってへんてこな表情を浮かべていただろう。それを悟られなかったのは、彼女にとって幸運と言えた。
「えっと、こんばんは」
「はい、こんばんは」
 どうしたものかと考えあぐね、とりあえずといった風に望美が言った挨拶を、そっくりそのまま弁慶が返す。弁慶にとって半分は意図的であった会話の続かない返答に、望美はその細い眉を寄せて、やはり困ったように言葉を探した。
「どうなさったんですか。こんな時間に、こんな場所で」
 言葉を継ぐというには少々時間が経ちすぎていたが、望美は特に悪感情もなく弁慶のそれを受けた。そして、不思議そうにしている弁慶に、やはり彼女にしてみても不可思議な気分で答える。バス停の前に立っている人間が何をしているかといえば、それは容易に想像がつく物事である。
「待ってるんです、バスを」
 望美は小首を傾げると、当惑の色の濃い瞳を弁慶に向けた。しかし、それに対して、男は口元に左手を置くと思案げに一瞬の沈黙を落とす。若干の不安を掻き立てるような間だ。望美の戸惑った雰囲気を察したのだろう。弁慶が口を開いた。
「……失礼ですが、駅に行かれるんですよね?」
「はい。そうしないと、帰れません」
「来ませんよ、バス」
 望美は、通算三度目となる衝撃を男の繰るこの柔らかな物言いから与えられた。
「えっ……?」
「ご存じなかったんですか」
「え、だって、ダイヤはまだ書いてありますよっ?」
「それは、駅ではなくて南の住宅街に進む経路です」
 長い睫毛を瞬かせて、望美は一呼吸の間呆然とする。
 彼女が衝撃を昇華する時間、それにゆっくりと付き合いながら、弁慶は苦笑になり損ねたような、困ったような笑みで望美を見ていた。正直なところ、望美の味わったこのような経験を、新人の多くが一度は体験する。土地を広く取った大学病院は、療養には欠かせない静かな環境に建設されたが、最寄り駅である三つの線路からことごとく離れた場所にあるのだ。望美が待っていたのは、北側の駅から来院する人々のためのバスダイヤであって、彼女らの通勤路線の駅は停留所に含まれていない。終電にはまだ余裕があるが、あまり悠々閑々としていられないのも、また事実だった。
「ど、どうすればいいんでしょう?」
「タクシーか、徒歩になってしまいますね」
 「ちなみに、徒歩の場合道筋はわかりますか?」重ねて尋ねた弁慶の言葉に、望美が自信を持って答えられるはずもなく、彼女は力なくうなだれながら否という。ただの確認程度でしかなかった言葉に、随分と消沈した姿を返され、弁慶は慈しみだとか哀れみだとか、そういったものに近い感情を抱いてしまう。
「あの」
 この場合、望美が取れる選択肢は数少ない。それを弁慶もわかっている。だから、彼女の謝意の色濃い双眸と、申し訳なさそうな音を踏むつなぎの語を、彼は微笑で遮った。
「よろしかったら、駅までご一緒しませんか」

 梅雨の季節のことであった。


多分 君は 勘違いをして 虹を滑り降りてしまったんだろう。
今まで その背中の羽に 気付かない人ばかりでよかった。僕は君とであった。そして 気付いた。
(運命のいたずら)
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