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 先日切り倒されてしまったのは、中庭の中でも奥の方にひっそりと生えていた金木犀だった。元々は強い植物であるのに、植えられた場所が丁度傾斜の関係で水が溜まりやすく、随分と前から弱ってはいたらしい。望美は、ぽっかりと空いてしまったその部分を見つめると、口元に手を置き、考え込む仕草をした。
 昼食のあと、十分望美と戯れて満足したらしい朔は、また資料室へと帰っていった。望美はといえば、リハビリルームへ戻り仕事に精を出していたのだが、今日に限って、彼女の不得意な事務の書類作りがとんとん拍子に終わってしまった。常ならば、これ幸いと病室へ足を向けるのだが、彼女は中庭の一角でじっと立ち尽くしている。
 根腐れであったから、そこには切り株さえも残っていない。周囲は芝生に覆われているのに、ただこげ茶色の土壌を晒している。その様子に、望美が物寂しい気分になるのは、泣いていた子供をどうしても思い出してしまうからだろう。
 風の吹き込み場である中庭は、木陰も手伝って随分と涼しげだ。望美には、ほんのりと若木色をまとった優しい緑陰が落ち、時折悪戯めいた夏風がその木々を揺らした。そのたび、真昼の白い光が、ちらちらと彼女の肩口や髪の一房を輝かせる。
 しばらく望美がそうしていると、抑えられた硬質音が三度鳴った。彼女は、音源を探して周囲を見回す。すると、丁度望美の左手にあった窓を、弁慶が開けるところだった。弁慶はバインダーを片手に持ち、窓辺に数歩歩み寄った望美に笑いかけた。
「こんにちは。今日も病棟へ行かれるんですか?」
「はい。先生は?」
「検診の帰りですよ」
 つまり、午後の時間を使って、入院患者を診て回っていたということだ。「お疲れ様です」「ありがとうございます」と、いささか儀礼的なやり取りをする。大きな病院であるから、患者数も少ないはずがない。ふと思い至った望美が、確認するように食事の有無を聞けば、まるで当たり前のように摂っていないと弁慶は答えた。
「ちゃんと、これから食堂に行きます」
 望美の矛先が定まる前に、弁慶はやんわりと先手を打つ。そして、続け様に「そこで何を?」と問われてしまえば、望美は軸のそらされた会話に乗るしかない。確かに、望美と会わなければ一食分くらい弁慶は抜いただろう。タイミングを奪われた望美は、僅かにそのことを責めるように弁慶を見たが、彼が変わらずにこにこと微笑むので、わざわざ小言めいたことを言うのもどうかと思われた。
 弁慶にとっては、誤魔化す言葉というよりも、それが本題だった。思案気に視線を落とし、植木の中からぴくりとも動かない彼女に、彼の好奇心がうずいたのである。
「何か、水気に強い花を植えられないかなって思ってたんです」
 素直に答えた望美の視線が、すいと奥へ向けられる。弁慶もそれに倣い、掘り返され、むき出しとなった地面を見る。そして得心した。
 伐られてしまった樹木の代わりといえば、少々聞こえが悪かったが、何もせずに放っておくよりもずっといい考えだった。望美の右手は、小学校の理科の教材と一緒に、植物の図鑑を抱えている。それだけで、彼女が花の土植えを思いついたいきさつと、今日病室でやろうとしていることが知れるのだから、よくよくわかりやすい子だと弁慶は口元をほころばせる。手助けをしてやりたくなるのは、多分彼だけではない。
「紫陽花なんていかがですか。花の季節はもう終わってしまいましたが、梅雨の花です。早々枯れることもないでしょう」
「あ、そうですねっ」
 望美は一度手を叩くと、弁慶を振り返りにっこりと笑った。ただの思いつきのような台詞一つで、彼女は手放しに喜ぶのだ。邪気の欠片もない望美の姿は、彼女の持つ勤勉さと、礼儀に厚い人となりを知らなければ、年端もいかない少女と行動が一緒だった。彼は呟く。
「子供がお好きなんですね」
 飾り気がなく、またなんてことはない台詞だった。
 医師や介護士、療法士といった職業は、一日当たりの就業単位数というものが決まっている。一単位を二十分と数え、療法士ならば、上限は二十四単位だ。しかし、書類作成や他病院への研修といったものも少なくなく、結局は多忙を極めることとなる。それにも関わらず、自主性で病棟に足繁く通う望美だから、この弁慶の感想は自然この上ないだろう。
 ふいに、弁慶の視界の端へと、反射した光が入り込んだ。
「はい。でも、藤原先生だってよく小児病棟にいらしてるじゃないですか」
 ベンチの金具に当り、そして反射した陽光の刺すような痛みが、彼の眼をじくじくと苛んだ。ほんの僅かに双眸を眇めると、彼は窓越しの望美へ口を開きかける。しかし、それより早く、日差しの中から彼女はさらに言葉を足した。
「子供、お好きなんですか?」
 弁慶は半歩、廊下側へと下がった。左の目の上へ手を翳し、陽射しを和らげる。望美のそれは、弁慶の台詞を受けた意表返しのようなものだ。何の意図も含みもない望美との会話は「言葉は身の文」という古人の教えを、彼に思い出させる。
「そうですね」
 曖昧な返事を受け、望美は微かにいぶかしみ、弁慶を仰ぎ見た。
「……先生?」
 男の顔の中で、ふわりと眉山が弧を描いた。元々穏やかな作りの眦が、さらに愛しげに細められて、彼自身の手によって影となった表情を、春のようなうららかさに仕立て上げていた。品良く上がった口角はすぐにほどかれ、そして甘い砂糖菓子を口に含まされるような柔らかな声音が、彼女に落ちる。
「今日はお勉強をなさるんですか?」
 望美は、ほんの一瞬考え、そして自身の手元の教材から男の台詞を合点した。確かに、彼女は院内学校の復習をするつもりでいたのだ。弁慶が、他者の機微を察するという点で酷く長けた人物であると、すでに彼女もわかっていた。だから、彼女は微かにはにかむような笑みを浮かべると、一つ頷いた。
「はい。でも、今日みたいに理科をやろうって思ってても、すぐに脱線しちゃったりして。どうやれば上手くいくのかなって、いつも考え込んじゃいます」
 院内学校というのは、養護学校の一つである。義務教育課程の長期入院患者や、病弱児などのための病院内部に設けられた分校で、コンスタントに特殊免許保持者が本校から派遣される。専任の教師を病院が抱えていることは稀である。病院施設の本来の目的を慮れば、それも仕方のないことであった。特に、実験を含む自然科学分野は、それ相応の器具がないこともあって、おのずと限界というものが存在した。
「大学にいる間に、教職も取っておけばよかったなって、今更思いますもん」
 望美が「昔は保母さんになりたかったんですよ」と付け加えると、楽しげな雰囲気に触発されたように、葉擦れの音がざわざわと奏でられた。
 弁慶は笑っている。
「君は、可愛いことばかりいうんですね」
 窓枠を隔てた向こう側から、望美に向けられる台詞の数々は、一歩間違えればまるで甘言のような色を持った。弁慶は、ずっと上げていた左手を下げると、彼の言葉に驚いて、そして戸惑う望美の表情を楽しむ。窓の向こうが眩しいことに変わりはないが、弁慶自身のそれに向ける好悪は自由だ。
「また、そういう……」
 弁慶に慣れ、その意味ありげな語彙の選択に対しては、睨み上げるという対応策を覚えた望美だが、どちらにしろ弁慶にとって、そんな視線は可愛いものだ。望美本人のいとけなさをただ強調するばかりで、有益だとはとてもいえない。誰かが教えてやるべきなのだろうと、どこか遠くのことのように感じながら、弁慶は望美に手招きをした。
「春日さん」
「はい」
 ついさっきまで、弁慶のことを眉間の皴と共に見ていたというのに、望美はいとも簡単に応じ、男に近づく。不出来な生徒に向けるそれと似たようなものを感じながら、彼はため息を飲み込んだ。
「恋人がいらっしゃらないというのに、変わりはありませんか」
「ええ、ないですけど」
「では、僕が君のことを名前で呼びたいと思っても、構いませんよね?」
 睫毛の一本、髪一筋までぴたりと止めて、望美が硬直する。
「……え?」
 驚愕と、当惑と、怪訝と、羞恥。そういった感情すべてをごちゃまぜに煮込み、表情という皿に盛り付け、仕上げとして声音というスプーンを添えたような様相だった。それを咀嚼するつけ、またくすくすと笑い始めた男の様子に、望美は一瞬にして頬を赤らめると誤魔化すように声を上げた。
「藤原先生!」
「すみません。あんまり、物慣れないご様子だったもので」
 笑い止まない弁慶に対して、望美はさらに怒鳴り声を上げるべきなのか、それともあることないこと朔に言いつけるべきなのか心底悩んでいる。
 彼女は、恋愛事にとにかく疎かったが、会話の意図を読み取ることが下手なわけではない。弁慶がそれらしく小石を投げれば、望美は面白いぐらい波紋を作り、そして水面を揺らして愛らしく震えた。
「先生、結構意地悪だっていわれませんか」
 歯噛みするように望美がいうと、ようやっと発作の治まった喘息患者のように、弁慶が僅かに息を乱していらえを返す。
「おや、君に対して、僕はそんなにひどいことをしてますか?」
「そういう、反応に困ることをいうあたりが意地悪なんです!」
 まるで児戯のような言葉の応酬だ。望美はすっかり肩を怒らせて、ふいっと弁慶から顔を背ける。つっぱねる仕草すら子供遊びのようで、折角大人しくなっていた弁慶の笑みも深まるばかりだ。
「本心ですよ」
「信じられません!」
 反省の色が窺えない弁慶の物言いでは、望美の反論も最もである。弁慶の視界の中、望美の毛先が光に透けて、きらきらと光っていた。


寂しがり屋の人達すべてが 悲しくて 泣き出さないように 神さまと私たちを つなげるものなんだよ。
君は 虹を指差して微笑む。
(予感)
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