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 望美は、整然と並ぶ棚と棚の間をゆっくりと泳ぐ。そこはファイル資料によって成り立っている紙の森で、何百万枚にも及ぶカルテが収められていた。
 病院には、五年間に渡るカルテの保存義務がある。診察の折に撮影された写真や映像は近年、電子化によって省スペースが実現したが、資料室に紙媒体が溢れていることに変わりはなかった。望美が移動書架を起動すると、小さくモーターの鳴る音が響く。カルテ資料は、病院によって整理のされ方がまちまちだ。しかし、最も多いのは、やはり患者の名前の五十音順だろう。
 五年以上経過したカルテは、基本的に元患者や、その家族の手に渡る。しかし、受け取りを拒否された場合のみ、焼却処分されていた。病院によっては、確認を取らず処分を行うところもある。一つの証拠物件でもあるので、あまり褒められたことではないが、物質的空間には限りがあるのだ。医療機関が、長い間抱える目の上のたんこぶで、保存をするのは当たり前の義務だが、それを許すだけの広さが足りない。
 望美は理学療法士だ。
 彼女の仕事は、身体的障害を抱える人々に対して、家庭復帰及び社会復帰のための援護を行うことである。ハンディキャップに関する知識や対応が、どうしても浸透しない社会の中で、例えば片腕がないということを、毎日絶望的な気分で確認するようなことがないように取り計らう。それが、彼女の誠実さの表象的な結果であった。
 腫瘍という病において、最も恐ろしいのは転移なのだ。資金面や、切断後の社会的地位を不安に感じるのは当然のことといえ、やはり、とにかく一日でも早く、患部を除去することが求められる。手術の決定権を持つのは、治療を施す側ではない。全ては患者と、その家族の一存だ。彼らの「イエス」を引き出すのは、彼女達に許された干渉値だが、裏を返せば、強制は絶対の禁忌だった。
 何度となく言い含められ、そして院内の誰もが理解していることである。もちろん、望美とてそれは同じだ。しかし、助けられるだろう命を、みすみす死に至らしめるとなれば、それはやはり、何かが望美の胸を押し潰して、息さえもつけなくさせた。
 独善的なのだろうか。
 望美は思う。だが、そのような言葉で彼女自身を諌めようとしても、どうしたって望美の抱えてしまった「助けたい」という祈りめいた希求は、ついえず、枯れ果てず、彼女のことを追ってくる。
 整形外科の書架の前に立ち、望美はファイル名を指先で追いかけた。骨肉腫というのは、そう多く見られる病名ではない。過去のカルテを探すよりも、専門書や医学論文に当った方が、有益な情報を得られるだろう。しかし、同病院内での症例であれば、それは患者に説得を行うときの大きな足がかりになる。
 望美が、腫瘍手術の冊子を二冊ほど見つけ出したときだ。彼女の背後で、小さくドアノブの回る音がした。
「望美、いるの?」
「朔」
 問いかける言葉はささやかで、気遣いに満ちていた。望美に対して、いつだって優しい大切な彼女の親友だった。望美が、書棚の間からひょこりと顔を覗かせると、彼女は花のように微笑する。
「ああ、そこにいたのね」
 望美のまとう沈んだ空気を、ふわりと包み込むような笑顔だった。
 朔という女性は、春の宵に似ていると、望美は思う。夕日がゆっくりとしたスピードで、空に滲み消えたあとの、柔らかで深い夜の気配だ。
 朔は望美の傍近くに歩み寄ると、小さく首を傾げて彼女を覗き込む。望美の居場所を朔に教えたのは、リハビリテーション科の彼女の同僚だった。「なんか、あいつ悪いもんでも食ったみたいな顔しててさ」と、言葉は悪いが心配をしていた男を思い出し、朔は望美のことを見つめた。
 望美は、朔と目を合わせると、微かに笑った。無理に作られた表情であることは、朔でなくとも十分にわかっただろう。
「朔、仕事は?」
「もう着替えて帰るだけよ」
 望美は私服である。
 朔は、すでに望美のことだけに時間を使うつもりでいた。望美がいらないとつっぱねるなら、それはそれで構わなかったが、しかし、先の診察室から出てきた望美は、朔の心配を誘うに十二分の曇った表情をしていた。とてもではないが、放っておくことなど彼女にはできない。
「腫瘍のカルテね」
 朔は望美の手元を覗き込むと、確認するように呟いた。気遣う心を向けられて、望美がまだ少し悩むように、歯切れ悪く頷く。
 朔は、望美のことを愛している。望美が幸福であればいいと祈っている。望美が哀しくてつらいときに、素直に泣ける場所であればいいと思うし、落ち込んだとき、甘えたいのだと擦り寄れるような特別になれるのなら、それは朔にとっても幸せなことだった。望美も同じで、だから、彼女らは親友だった。
 朔の微笑は崩れない。躊躇い口を噤んでしまった望美を、ただゆっくりと待っている。
「望美、私に何か、手伝えることはあるかしら?」
 資料室は静かだった。来院棟の地下に設置されているそこには、院内関係者もほとんど訪れない。窓もなく、四方白い壁に囲われており、白熱灯だけが室内を明るく照らしている。
 望美に、朔の言葉を突き返すことなどできるはずもないのだ。彼女の見立て通り、望美は今とても苦しい思いをしていて、望美の特別である朔に、どうにか慰めてもらいたいのだ。そう訴える望美自身に気付くと、彼女はまた自己嫌悪に陥った。望美は、彼女の先生に対しても、親友に対しても、酷く甘えたがりである。
 彼女の幼馴染は、昔、それを仕方ないといって笑った。望美のことをお姫さまのように育てたのは、確かに彼らだったからだ。望美の素直さは美徳である。朔もそれを知っている。
「すごく、デリケートな問題なんだって、わかってるつもりなの」
「ええ」
 軒下で、雨だれがぽたりぽたりと落ちるさまを見ているような、途切れがちの言葉だった。
 望美は、感情的になっている単語を、一つ一つ理性というふるいにかけてゆっくりと話した。ゆえに、どうしても会話は各所で行き詰まりを見せ、望美が事のあらましを説明するのは、随分と時間が掛かった。朔は時折頷いて、望美が困ったように沈黙すると、手助けのための言葉を継ぐ。そんなことを繰り返し、三十分も過ぎた頃だろう。望美は、最後に顔を伏せて隠してしまうと、小さな声で訴えた。
「助けたいのに」
 それは、どんな手段を取っても、生かしたいという意味だ。
 朔が望美を抱き寄せると、彼女はそのまま沈黙した。それ以上は、朔に嫌われてしまいそうな台詞しか見当たらず、望美は口を開くことができなかったのだ。望美の頭を両腕で抱え込み、朔は「そうね」と相槌を打つ。
 どんなに助けたくても、患者の許可がない手術は傷害だ。相手の身体にメスを入れることが、ナイフを突き立てることと同じになる。

「望美、これ藤原先生の書いたカルテじゃなくて?」
「えっ」
 カルテの捜索は、朔の手伝いが入ったこともあり、望美が思うよりもずっと早くに終わっていた。外の様子を窺うことはできないが、壁掛け時計はすでに十九時を指し示しており、そろそろ資料室からも警備員によって追い出されようという時間である。
 資料室には、机や椅子といった筆記のための用具が少ない。ないわけではなかったが、出入り口付近にしか置かれていないため、わざわざそちらへ移動するのも手間が掛かるのである。結果、書架と書架の間で、二人は黙々とファイルを読み進めていたのだが、先の朔の台詞を受け、望美が勢いよく顔を上げた。
 朔は、望美の読みやすいようにファイルを横手へ差し出す。朔の傍らに頭を寄せると、望美は左手でページを繰った。二年前の日付だ。患者は、当時小学校二年生の少年で、疾患は右上腕骨の骨肉腫だった。
「……藤原先生、骨肉腫を受け持ったこと、あったんだ」
「そのようね」
 骨肉腫は、八割近くの割合で、膝の周りに起きる腫瘍である。真実珍しいわけでもないが、肩周囲への発症は二割弱。また、それ以外はさらに確率が低い。
 最初の来院理由は、部活での打撲が原因であったらしい。カルテには、癖のない真っ直ぐな筆跡で、少年の部活動の詳細が記されていた。痛みを訴える右肩への触診と、同席していた母親への問診のあと、X線検査と記述がある。箇条書きだが、診察の過程を理解するには十分だ。
 撮影された写真も、資料室内に置かれているはずである。しかし、そこに写ったであろうものは、望美にも、そして朔にもわかった。二ページ目中央に、血液検査と尿検査の結果が貼り付けられている。
 「骨腫、骨髄炎、骨肉腫のおそれあり」
 その一文は、それらから数行を開けて添えられていた。
 レントゲンの全身撮影に始まり、CT検査やMRI検査、そして骨シンチなど検査入院中の診察が、それ以降数ページに渡っていた。望美は、それらをぱらぱらと捲り送ると、手術要項を探し当てる。切断手術だ。しかし、その日程を確認した瞬間、彼女は思わず声を震わせた。
「これ、最初の検査から手術まで一月以上経ってる」
 致命的な時間だ。三十日もの間、少年の身体の中で成長しただろう腫瘍を思うと、望美は気が遠くなった。
「これじゃ、転移しないはずない」
 細胞が若ければ、それだけ腫瘍細胞の広がりも早い。右腕の切断手術、それ自体は成功しているが、しかし術後僅か半年で、義手訓練の通院中に肺への転移が発見されていた。二度目の摘出手術は日を置かず行われていた。しかし、さらにその三ヶ月後の日付を最後に、カルテは途切れていた。
 弁慶の発見は早期であったはずだ。一度目の切断がもっと早くに行われていれば、この子供を病魔の手から救えていただろう可能性は格段に上がる。望美は、まるで我が事のように顔を歪めた。それは、泣き出す寸前の幼子に似ている。
「……どうして」
「セカンド・オピニオンを受けたようね」
 検査入院中の最後の記述を見ながら、朔が答えた。朔は痛ましげに眉をひそめると、指先で望美に文章を示す。
 医師から説明を受けても、情報や知識の少ない患者や家族にとって、決断を下すのは難しいことだ。特に、肉腫や癌といった治療法も日進月歩の領域では、専門医の中ですら意見が分かれるのが普通で、セカンド・オピニオンというのは、主治医以外の専門医から新たに意見を聞くことである。いまだ日本への浸透は浅いが、患者の選択肢を広げるという点で、重要な制度だ。
「患者本人はまだ小学生だもの。家族の同意が、得られなかったのかもしれないわ」
 五体満足で生まれてきた子供が、後天的な病で、四肢の一部を失うということ。それは、確かに家族にとって、受け入れがたい事実だろう。疾患部分の一部摘出や、医薬品など化学療法によって、切断を回避したいと思うのも自然な流れである。しかし、新たな意見を得るために掛かる時間は、この場合明らかに毒だった。
 「でも」と、望美はいいかけ、唇を噛む。
 カルテの罫線、その最後の行に「退院」という文字がない。それは、何より医療機関が避けなければいけないことではないか。
 望美の心臓は、何かに強く握りこまれたかのように、ぎゅうぎゅうと音を立て窮屈そうに脈打っている。細い血管に、無理矢理大量の血液を流し込むような苦しさが、彼女を襲って攻め立てる。どくどくという血流の音は、彼女の耳のすぐ近くで鳴っていた。とても悔しかったり、とても腹を立てていたり、とても混乱しているときと、それはよく似ている。しかし、どれとも違う。



 つるべ落としという言葉がある。日中は、いまだ残暑の腕に抱かれる空気も、名残薄く日が落ちてしまった後では、すっかり秋の匂いをまとっていた。
 病院敷地内でも、少々正門から外れたところに救急救命センターがある。手術室や検査室へ近いように作られた出入り口であって、正面玄関が閉められると、深夜から明け方までの間、そこに赤いランプが点った。
 弁慶が、時間外の退勤で、救急センターの受付口を通るのは珍しいことではない。警備員室は、その救命センターの目の前に設置されているから、自然、彼は警備員たちと顔見知りになってすでに久しかった。弁慶は、彼らへ向かい挨拶代わりに笑いかけた。帰り際にはいつものことだ。しかし、室内にいた警備員の一人が、今日に限って彼のことを呼び止めた。
「ああ、藤原先生。ちょっと」
「はい?」
 弁慶は、数歩窓口に近づくと「なんでしょう」と問いかける。
 小さな個室には二人の男性職員がいて、一人は後方で懐中電灯のチェックをしていた。弁慶に声をかけたのは、窓口前のパイプ椅子に座っている男だった。彼は、まず一つ謝罪をすると、手に持っていたペンをくるくると回した。
「いやね。さっき、先生のことを探してる女の子が来まして」
「女の子ですか」
「もう帰っちゃいましたか、って聞かれたんで、まだ見てないって答えたんですよ。それだけなんですけどね、一応お伝えしとこうかと」
 弁慶にとっての心当たりといえば、一人しかいない。彼は一つ礼を言って、病院正門へと足を向けた。
 灯火の少ない屋外に出て、弁慶は一度夜空を見上げた。初夏の季節であれば、同じ時間にスピカを見つけられたのだが、今彼の頭上で輝くのはデネブであった。秋口の夜は過ごしやすく、過度の暑気も寒気もない。気の早い落ち葉が幾枚か道を飾り、冬へ向かう道標のように転がっている。
 彼に、いい予感を抱かせるような状況ではなかった。懸念の材料は山ほどあって、弁慶は珍しく疲弊すらしていた。彼の内心は、ほとんどの場合表に表れない。しかし、だからといって、存在しないわけではない。
 弁慶が視線を前に定めると、バス停の横に望美が立っていた。長い髪は下ろされ、肩口から一房、前に零れている。月が明るい季節である。十分相手との距離が縮まると、望美が先に口火を切った。
「藤原先生」
 話しかけられ、弁慶は微苦笑を浮かべる。夜遅い帰宅を彼は推奨できないのだが、今回彼女にそれをさせた理由は、弁慶自身にあるらしかった。時刻は二十二時を回ろうとしている。
「バスは来ませんよ」
 とりあえずという心持で、弁慶はそう切り返した。わざと話の軸を捉え損ねたような台詞に、それでも望美は眉根を寄せることなく、ただ真摯に男と瞳を合わせた。月光を受けた望美の頬と、鼻梁と、唇が白く光っている。時折、望美は弁慶の前で、こういったひどく美しい顔をした。そういうとき、彼女は不思議なほど光というものをまとっていて、闇にあってなおそれは健在であった。
「違います。先生を待ってたんです」
「そのようですね」
 打てば響くような望美の返事に、弁慶は困り果てたようなため息をつく。彼は、その仕草で望美がひるんでくれたらと、僅かに期待した。しかし、そのささやかなはかりごとは功を奏さず、彼女はじっと弁慶の返事を待っている。弁慶は、こういった根競べで望美に負けはしないだろう。しかし、果たして勝てるのかといえば、否というのが事実だった。
「とりあえず、歩きませんか」
 客観的に見て、弁慶のそれは了承だった。彼女に対して、折れたともいう。
 返事を受け取ると、望美は弁慶に向かい一つ頷いた。その動作に合わせ、望美の髪がたわみ、するりと滑り落ちた。流れた髪の上を、優しい月明かりが走った。

 カジュアルスーツの横を、ひらひらとサテンのリボンが歩いている。ブラウスの付属品であるらしいそれには、彼女の襟首を飾る小さなレースと同じものがあしらわれており、男の衣服に比べて随分と繊細な作りをしていた。望美は、膝を隠す細かなプリーツスカートと、濃茶のロングブーツという組み合わせで、すでに秋の仕様である。
 駅前への道は、大きな本通りに差し掛かるまでが、ひっそりと暗く、寂しい。乗車のランプを点したタクシーが、ほんの時折走り去る程度で、あとは二人の靴音だけが響く。
「いつも、こんな時間まで残ってるんですか?」
「おや、君に言われるとは思わなかったな」
「私は、今日は調べものもありましたし」
「僕もですよ。時間は、どんなにあっても足りない仕事ですからね」
 弁慶としては、こういった何のことはない会話が、駅まで続いてくれればいいという思いが強かった。彼女に対して、彼はあまり悪質性を含む故意をしたくなかったし、望美の雰囲気を慮れば、持ち出される話題によって、少々傷つける物言いになるだろうと予想できた。彼は望美に対して十分好意を抱いていたから、できるならそれを避けてやりたかった。
 ふと、彼は黙り込んだ望美を見る。弁慶よりも、頭一つ分小さい彼女は、何かを思案するように前を真っ直ぐに見据えている。
「先生が、担当してる骨肉腫の患者さん」
「須釜さんですか」
「はい。須釜さんの担当療法士に、入れてもらうことになりました」
 彼は社交辞令的な何かを言うため口を開きかけた。しかし、それをとどめるように、望美の強い視線が彼を射た。彼女の大きな双眸はひたむきな色を湛えていて、弁慶は、何となく望美の用件を察した。彼は頭がよかった。
「切断手術なんですよね」
「そのつもりです」
 彼女のいった「調べもの」の内容と、弁慶のしていた「調べもの」の目的は同じだ。それすら勘付けば、わかりやすい望美の言動から、弁慶はするすると物事を読み取ることができた。望美は、必死で言葉を選んでいるのだろう。それは弁慶に向けられている気遣いで、心配りなのだ。感情のままものをいったところで彼女の語彙など可愛らしいものだろうに、それをできないというのは、彼の中の優しいものをうずかせた。
「手術は、いつになるんですか」
「説得しています」
「でも、先生っ」
「春日さん」
 二人の声音は対照的だった。しかし、軍配がどちらに上がったかといえば、それは弁慶だった。
 望美は、僅かに傷ついた顔をした。彼女の頬は熱を持っていて、望美はまるで喉の奥に何かが絡まったかのように口を閉ざす。
「ごめんなさい」
「いいえ、君の言いたいことは間違っていません」
 望美の様子を窺って、弁慶は微笑んだ。望美は、なぜ男が微笑できるのか、よくわからなかった。
 のっぽの街灯は、道路を挟んで二列縦隊の構えを取っている。ぽつぽつと、それは途切れることなく続いていて、一つの明かりの範囲の両端が、まるでたすきでも渡すかのように楕円の形で重なっている。駅前の大通りに繋がる十字路は、いまだ見えてこない。二人が話す時間はたっぷりとあった。
「手術の決定権は患者本人とその家族にあります。それはわかっていただけますね?」
 柔らかな声音だ。諭すような口調で、弁慶は望美の同意を待つ。望美が頷くと、彼は、彼に出来る限りの誠実さを保つように、一度息を吸って、吐いた。
「同意を得られなければ、病院はただの実験場ですよ」
「やめてください」
「ええ、ひどい言葉です。そう思えばこそ、僕はセカンド・オピニオンを薦めました。あの時も」
 望美は、ほんの一瞬考え込まなければいけなかった。つい数時間前に読んだカルテの一文が、彼女の脳裏でひるがえる。弁慶の眼差しは凪いでいた。望美の歩みが止まった。
「え」
「ご存知でしょう?」
 尋ねるというよりも、確認するだけの口調だった。
 歩道の真ん中で、二人は見つめあった。望美から漂う緊張感に、もう少し甘いものが含まれていたなら、多分彼女らは色恋の間柄に見えただろう。弁慶が望美に向ける視線は、変わらず穏やかなものだ。しかし、彼女は十分、弁慶の深いところに触れた。彼の態度に、望美に向けるほんの少しの冷気も生まれないのは、ただ触れられただけでは何の起伏も起きないほど、過去のそれが彼自身によって、弁慶の中へと溶け込まされているからである。
「……ごめんなさい」
「勉強熱心なのはいいことですよ」
 「君はなにも悪いことをしていないのに、謝らせてばかりですね」と、彼は苦笑交じりに言う。
 望美たちが持っているのは、人よりも僅かに多い治療に関する知識と技術だけなのだ。他者の肉体はどこまでも他者のものでしかなくて、もしその境界線がなくなってしまえば、望美は療法士ではなくなるし、弁慶は医師ではなくなるだろう。
 二年前、少年の抱える病魔の正体を知ったとき、彼は確かに子供を助けたいと思ったのだ。それは弁慶の本当で、それ以外の何物でもなかった。
 セカンド・オピニオンという制度を薦めることによって、子供の命が脅かされるということを、誰よりも理解していたのは彼だ。だが、矛盾極まりないことであろうと、弁慶は自身のその行為を、間違っていたとは思わずにいる。
「強制はできません。彼の身体は僕のものではない」
 切り捨てるような言葉だった。しかし、真実間違っていなかった。彼は医師であり続けていて、その境界線を、ただ誠実に理解しているのだ。
 弁慶は、僅かに眉をひそめた。彼を見上げる望美は、泣き出すのを必死に堪え、ひどく苦しげな吐息をつく。単純に泣かれるよりも、それは弁慶にとってこたえた。
「先生」
「はい」
「助けたいです」
「ええ。僕も、彼を救いたい」
 医療という方法には、説明と同意が必要なのだ。それは時折、救療の希冀を裏切る。
 それは胸を熱い棒で、貫通させられたような衝撃なのだ。ぽっかりと空いた穴は、確かに貫いた棒が塞いでいるのに、息もできないほどに苦しい。とても悔しかったり、とても腹を立てていたり、とても混乱しているときと、それはよく似ているけれど、違う。
 ただ、哀しい。


埋めてしまったんだ。でも 決して 宝物なんかじゃなかった。
君は 遠い彼方の虹を目指し そんなものを探すの? 泣いてしまう。 きっと傷つける。
(秘密)
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