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「春日さん」
 望美はぱちぱちと何度か瞬きをすると、一度腕時計へと視線を落とした。本当は、彼女は確認するまでもなくわかっているのだ。時刻は二十一時をとっくに通り過ぎて、頭上には星が瞬いている。
 須釜の手術が始まったのは、今日の午後を回った頃だった。切断手術だけならば、一時間ほどしか掛からないが、その後の移植手術に長い時間を取られ、手術室のランプが消えたのは、夕日が半分も沈んだ頃であった。執刀を行ったのは勿論弁慶だ。望美は、朝からいつもの通り働いて、ほんの少しだけ須釜の件に気を取られて、小児病棟へ通った帰りだった。
「何してるんですかっ?」
 大きな手術であったから、本当であれば、弁慶はすでに帰宅し休養を取っているべきなのだ。何故、彼がこの時間にこの場所で望美の前にのほほんといつものように笑いながら立っているのか、彼女にはさっぱりわからなかった。バスの最終便まで、残り数十分といったところだ。
 声を上げ、ほんの短い距離を駆け寄った望美の様子に、弁慶の笑みは深くなる。正門の前の街灯は周囲を照らし、二人の影がほぼ垂直に落ちていた。
「君のことを待ってたんですよ」
 微笑んだまま、弁慶は端的に答えた。つい先日、望美自身が弁慶に対して言った台詞と、それはほぼ同じだった。含むものはまったく異なるが、少なくとも、弁慶は意表返しに成功した。開いた口がふさがらないというよりも、望美は語るべき言葉を探しあぐねている。
「今日中に、お伝えしたいことがあったもので」
「それなら、病棟に来てもらえれば」
「院内では、君と二人きりで、ゆっくり話すことなどできないでしょう?」
 彼のそれは、明らかに単語を選び、そして望美の頬が熱くなるのを楽しんでいる口調だ。望美自身、弁慶の意図したとおりに、頭部へ血が登ったのがわかった。誤魔化すこともできず、ただ彼女は、男を睨みあげて、不服だと意思表示をする。
 いとけない彼女の様子に、弁慶は笑う。望美の睨むという行為は、彼に向けられる可愛らしい怒りで、嫌悪でも、ましてや忌避を含むものでもない。そういうことがすぐに知れてしまうのは、彼女にとって手痛いことだと、弁慶は思う。
 弁慶が、僅かに居住まいを正して見つめると、望美は問うような表情をした。悪い報せの類ではないと、望美にも十分知れたが、やはり疑問であることに変わりはなかった。
「手術自体は、無事に終わりました」
 「大きなショック症状も見られません」と、彼は続ける。当然のことながら、須釜のことだ。執刀医の直接的な言葉を受け、成功の旨はちゃんとわかっていたのに、望美はひどく安心した。彼女は、まるで今にも泣き出しそうな表情をする。そして、涙腺に溜まった水を吸い上げ、花が花弁を広げるように、清廉な笑みを浮かべた。弁慶は、その美しい様に目を細める。
「ありがとうございました」
 望美と目を合わせたまま、彼が穏やかに言葉を紡いだ。
「え?」
「君には、感謝してもしきれません」
 言い終え、再度、彼は囁くように感謝の言葉を繰る。
 答えに詰まり、望美は戸惑った。弁慶は、彼女の困惑した空気をわかっていたが、特にそれ以上の言葉を継ぎはしなかった。優雅に笑みを零すだけの男を見上げ、彼女が何度か口を開き、沈黙する。望美の髪がさらさらと、動きに合わせて流れた。
 望美は、一度顔を伏せ口元に手を置くと、ほんの僅かな思案の時間を置いた。弁慶が望美に与える雰囲気はただ柔らかいばかりで、事実、彼はいつまででも望美の言葉を待てただろう。
 しばらくして、望美は、冷えた弁慶の右手を取った。望美の癖だ。今、彼女が両手で持っている手のひらが、患者の手術を終えたのだと思うと、それはひどく尊かった。経過はいまだわからず、何より腫瘍細胞の転移に関して、脅威が薄れたわけではないのに、それでも彼女の胸を締め付けるのは単純な喜びだった。
「……藤原先生は、私に「ありがとう」って言いましたけど」
 弁慶の五指を確かめるように、望美はじっと彼の手を見下ろした。そして、顔を上げた。
「でも、助けたのは先生ですよ。私、本当に、嬉しい」
 助ける余地があるということは、ただ僥倖であるということで、相手が呼吸をして笑っているということは、無条件に素晴らしいことだった。
「嬉しいんです」
 にっこりと、彼女が微笑む。
 望美の眼の表面にうっすらと張られた水の膜が、街灯の光を弾いていた。きらきらと、彼女の双眸は輝いていて、緩やかな頬のふくらみの線を、橙味の強い人工照明が一際、印象付けている。弁慶は、砂糖水を煮詰めたような色の瞳を微かに眇めると、握られた右手をするりと外し、そのまま望美の方へ伸ばした。望美のことを、彼が美しいと思うとき、彼女はいつも光をまとっていて、弁慶は困った。
 望美の細い肩を弁慶が引き寄せた。左手で腰を捕えると、彼はそのまま望美を捕まえ、腕に囲った。多分、望美が両手を突き出せば、すぐにほどかれる抱擁だったのだ。それができなかったのは望美で、それをさせなかったのは弁慶だった。
「……嫌がらないんですね」
 すぐ耳元で囁かれ、望美は息を呑んだ。やりどころのない両手は胸の前で握りこまれていたのだが、男の甘い声音に対して必死に爪を立てるように、彼女は弁慶のシャツを握った。可愛らしいその仕草に気付くと、彼の抱きしめる腕は強くなった。
 まるで息の根を止められたように、望美はぴくりとも動くことが出来ないでいた。だが、そう長い時間もかからず、彼女の中では衝撃よりも羞恥が勝ったらしい。俯いたまま、望美が僅かに身じろぐ。弁慶は、望美のつむじ近くに唇を寄せた。口付けではなかったが、男との距離が縮まったのはわかったのだろう。彼女はもう、頭部を持ち上げることもできなかった。
「あの、藤原先生」
 小さいが、切羽詰った声音だった。
「はい」
「離して、もらえないでしょうか」
「おや、何故?」
「なぜ……」
 そう切り返されるとは思わなかったのか、望美は弁慶の言葉を復唱すると、そのまま沈黙する。
「あの、先生?」
「はい」
「じゃあ、何故、私はずっと、抱きしめられてるんですか?」
 問い返された質問は、むしろ弁慶にしてみれば歓迎すべきものだ。我が意を得たりと弧を引いた唇は、残念ながら望美からは窺えなかった。男の腕の払い方を、一つも知らない彼女が可愛らしくて、そして、だからこんな男に引っかかるのだと弁慶は思う。
「ご存じなかったんですか? 僕、君のことを愛しているんですよ」
 望美の頭皮に呼吸が当るほど近くで、囁きは、ゆっくりと吹き込まれた。
 彼の腕の中、望美の頬と、耳朶と、首筋がさっと紅色に染まった。まったく愛らしいことだった。すっかり緊張して硬くなってしまっている望美の肩を、弁慶は右手で何度か撫でる。女性だというだけで、望美の肩は弁慶の手のひらで掴めるほど薄く、男性だというだけで、弁慶の手のひらは望美の肩を掴めるほど大きかった。
 長く美しい彼女の髪を梳いて、弁慶は僅かに腕を緩めた。
「だから、君を抱きしめていたいですし、名前で呼びたい」
 睦言に対して、望美は眉をひそめると、水分を含む眼差しで弁慶を見上げた。彼女の睫毛が濡れているのは、過剰な困辱のせいだ。多分、何か言おうとしたのだろう唇から、真っ白な歯列と真っ赤な舌が僅かに覗いた。顔を上げて、望美は至近距離にある互いの頭部に、ひどく驚いた顔をする。そして、また大きな素振りで頭を垂れた。あんまり俯きすぎて、望美の額が、弁慶の胸元に押し付けられる。
「望美さん、降参です。あんまり可愛らしいことをしないでください」
 くすくすと笑い、弁慶は望美を宥めるように、小さな背中を撫でる。彼とて、そういった接触が、反対に彼女の混乱を招くだろうとは百も承知だ。しかし、そうなったところで、彼は困らない。
「っいま、名前!」
「嫌ですか?」
「いえ、そうじゃないですけど」
「それはよかった」
「……あれっ?」
 今は何月だっただろう。望美は、唐突に思う。
 とにかく、今の彼女はどこもかしこも熱くて仕方がなかった。どくどくと、彼女の心臓は何をそんなに必要とするのか、煮立ったような温度の血液を大量に送り出していて、そして受け取っている。爪の先や髪の毛には血管が通ってないはずなのに、そんなところまで熱を持っているのではないかと、望美は本気で考えたほどだ。
 彼女にとって、こんなにも熱くて苦しいことはないように思えるのに、対して弁慶は、随分と涼しい顔で望美のことをじっと見ていた。
「ひどい」
 そう言って、望美は言うことを聞かない自身の身体をもてあます。
 真っ赤に染まった耳殻を隠すように、彼女の髪が揺れていた。詰りの言葉が、望美の舌を転がして、彼に向かいまろび落つ。弁慶は、思わずと言った風に眉根を寄せ、そして息を吐いた。知らない望美はひどく無防備で、今の弁慶には少々毒だ。
「望美さん」
 彼も、戯れが過ぎた自覚はあった。だから、いつものように、ただ話しかける音を踏んで望美を呼んだ。
「はい」
「もうすぐバスが来ますから、それに乗って、帰ってくださいね」
 彼女の瞳は、不思議そうに弁慶を見上げた。いまだ頬や耳たぶに赤味を乗せ、彼女は首を傾げる。混乱の余韻もあり、含意を完全に把握し切れない望美は、一度病院へ視線をやった。遠くに、救急センターの赤い点灯が見えた。
「藤原先生、まだ病院に残るんですか?」
「いいえ」
 それはそうだ。さきほど、弁慶は望美を待っていたのだと、はっきりと言った。
 弁慶は、深く溜め息を吐いた。随分と幸福な溜め息もあったものだが、彼にしてみれば、少々苦痛であることも事実だった。望美の悟りを悪くしたのは彼自身であるから、自業自得ともいえる。彼は、僅かに処置を考えあぐねると、結局素直な語彙を選んだ。
「多分、抱いてしまいますから」
 さらりと言われた言葉に、望美は一瞬、本当にただの無知な少女のように黙り込んだ。そして、その意味合いを捉えると、困り果てて弁慶のことを見上げた。それは、むしろやってはいけないことだ。
 弁慶は、望美から手を離す。それは引いていく波のように、なんの名残も残らない仕草で、望美を驚かせた。彼の手の外されたところから、望美の体躯は急に冷えていった。どこもかしこも占領していた嘘のような熱は、弁慶が触れていないというだけで、秋の風とまったく同じ温度になった。
 炎のような混乱は、言葉にしてしまえば、ひどくあっけないものだ。まるで初めから心得ていたかのように、望美の中で落ち着き、馴染み、同化する。
 弁慶は、望美を愛しているといったのだ。
 彼女の右手が、離れていく弁慶の左手を取った。そうすると、望美の右の指先から熱い血潮が全身に行き渡る。ほんの一瞬だった。そんなことが起こる理由は、たった一つしか存在しなかった
。  弁慶は僅かに目を見開いて、望美の右手を困惑顔で見下ろした。
「一緒に、帰りましょう?」
 苦笑を零し、望美の随分と命知らずな行為を止めるため、彼は彼女の長い髪を撫でた。ついで、望美の前髪に口付けを落とし、男の薄い唇が彼女の額を晒す。弁慶は、白い額へもう一度キスをして、望美を大いに赤面させた。そして、言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「どういう意味に取られるか、わかっていますか?」
「もちろんです」
 夜道の向こう側から、明かりと走行音が段々と近づいて来ていた。最終ダイヤだ。二人は、バス停までほんの数メートルというところで、奇妙な形で手を繋ぎ、お互いに相手の出方を測っている。望美は弁慶の手を離さなかったし、弁慶は望美の手を振りほどかなかった。
「君にはとても言えないような、ひどいことをしますよ」
「ひどいこと」
「ええ」
 脅従へと仕向けるための言葉であるなら、弁慶の表情も望美に対する態度も柔に過ぎる。だから、それは最後通牒なのだ。彼は、望美がその言葉をちゃんと吟味して、そして引き下がることを、暗に求めている。
 彼女の我が通れば、今晩から明日の朝にかけて、先ほどの比にならないほどの恥ずかしさを、望美は味わうことになる。それでも、彼女は弁慶と一緒にいたかったのだから、それはもう、仕方のないことだった。望美のどうしようもないものは、しっかり弁慶によって根付かされていて、するすると伸びたその蔦が、彼女を絡め取って放さずにいる。
「藤原先生、でも私、そういう風に言われても、一緒に帰りたいって思うんです。さっきだって、先生はひどくて意地悪だったけど、私、心底いやだって思ったら、もう殴って逃げてます」
 望美は微笑んだ。その頬は薄く染まっていた。
 彼女のそれは、欲ではなくて我儘だ。望美は弁慶のことを好いていて、だから、単純に離れがたいのだと告げている。それがわかるからこそ、弁慶は沈黙するしかなかった。どうして、誰も彼女に言って良いことと悪いことを教えなかったのだろうと、彼は若干、八つ当たりのような感情まで抱く。
「なんだかもう、しょうがないですよ」
 バスは通り過ぎて、二人のうちのどちらも乗せることなく遠ざかっていく。弁慶は、なぜか随分と疲れた気分になった。望美のことを軽く引き寄せ、彼が諦めを含んだ笑みを零すと、反対に望美はにっこりと笑った。
「名前で呼んでくれませんか」
「……弁慶さん?」
 小首を傾げながら、困ったように眉根を寄せて、彼女は愛らしく弁慶を呼ぶ。
 バスダイヤは、もうなくなってしまった。



 リビングの机の上には、栞の挟まれた文庫本が、一冊置かれたままであった。ソファーの左端と、食卓椅子の上と、廊下の一角、そしてテレビの前。いたるところに本が積み上げられており、望美は弁慶に注意されなければ、きっと足を引っ掛けて倒していただろう。
 彼女は、弁慶の許可を取るとソファーの右端へと腰掛けた。一人暮らしには、少々広い部屋の作りだ。物珍しげにきょろきょろと周囲を見回す望美を見て、弁慶は一つ笑みを零した。
 食卓椅子は一つしかないのに、そこを本に陣取られて、弁慶はいつもどこで食事を摂っているのだろうか。望美は、ひどく単純に疑問を抱く。しかし、望美の視界の中で、彼は上着を脱ぐと、それをぽんと椅子の背もたれへ掛けてしまった。多分、弁慶にとって、すでに椅子は座るものではなく、物置と認識されているのだ。
「何か飲みますか?」
 弁慶の言葉に、望美は必要以上に驚いてみせた。過剰な反応をしたことを望美自身もわかったから、彼女はまた顔を赤らめる。弁慶は、段々と望美がかわいそうになってきた。まるで、彼によって苛められているようではないか。
「あ、いえ、大丈夫です」
「望美さん、自ら退路を断ってること、わかってますか?」
 弁慶は望美の傍に寄ると、髪を一房掬い上げる。そして、その毛先にキスを落とした。随分と近しいところでにっこりと微笑まれ、望美はまた全身を朱に染める。
 児戯のような口付け一つで、こんなにも動揺する望美に、弁慶はやはり同情した。しかし、別に彼はその愛情のまま、引き下がるつもりも毛頭なかった。この状況を招いたのは望美だ。弁慶はちゃんと彼女を遠ざけようと努めたし、我儘を受け入れたのも彼の方である。
 うぶであるということは、弁慶にしてみれば、からかい甲斐があるということだ。彼は、くすくすと笑みを浮かべたまま、ソファーに腰掛ける望美との距離を詰めた。奪われた髪と、男の笑顔を交互に見て、望美は段々後ろへ体重を掛ける。背もたれにぴったりと背がくっついてしまうと、望美は目を瞑り、そして顔を伏せた。
「……そういうことばかりすると、いつか押し倒されますよ」
 穏やかな声音で叱られたことに気付き、望美はそろそろと瞳を開いた。彼女のことを押し倒そうとしている張本人ができる説教ではないだろうに、弁慶は僅かに眉をひそめる。
「ご、ごめんなさい……?」
 語尾が上がるのは、望美当人も、なぜ謝っているのか半分以上わかっていないからだ。彼は、その反応に一瞬言葉を失うと、口元を隠す。それでも、十分弁慶が笑っていることは望美にも知れたので、あまり意味のある行為ではなかった。
 望美は、握りこぶしを作ると、肩を震わせる弁慶の胸を一つ叩く。それでも彼の笑いが収まる兆しを見せないので、何度かどんどんと叩いた。
「可愛い人ですね」
 悔しさから、無言の暴力に訴える望美の手を握り、弁慶は彼女の耳元へと唇を寄せた。口説くことを目的とした男の声音は、不慣れな望美にすら甘いと感じさせるほどで、彼女は一度体躯を震わせると、そのまま硬直する。
 望美が視線だけを上にやると、色素の薄い弁慶の眼に、彼女自身が映っていた。つまり、それだけ二人の間にある距離は、短いということだ。
「あっ……の!」
 望美の喉が、上手く酸素を扱えずに変な音を出した。しかし、弁慶には、十分それは制止だと伝わったらしい。彼は、望美の耳の穴に直接吹き込むような近さで「どうしました?」と低く尋ねた。
「シャワー、シャワー借りてもいいですかっ」
 言った瞬間、彼女は自らの台詞の意味に気付き、また林檎のように熟した。望美の頭は、すでに回った血液によって沸騰していて、考えや思考といったものを放棄し始めている。下げられてばかりいる望美の小さな頭部を見て、弁慶はつむじに口付けを贈った。
「はい、どうぞ」

「弁慶さん、わかってて何もいわなかったんですねっ?」
「ええ、まあ。期待はしました。男ですから」
「意地悪! ひどい!」
「ひどいことをすると、ちゃんと僕はいいましたよ」
 望美は、ひどいひどいと悲鳴を上げる。
 少し考えてみればわかることであった。外泊の準備など欠片もしていないのに、シャワーなど浴びればどうなるのか。
 望美は、今弁慶の寝間着を着ている。これに関しては、サイズが合わないという小さな障害はあれど、彼女に文句をいうつもりはまったくなかった。しかし、他の「こまごまとした衣類」に関してはお話にならない。さもありなん。
「あとで、ちゃんと責任をもってコンビニまで買いに行ってきます」
 いけしゃあしゃあと答える弁慶を睨み、望美は本気で殴って逃げようかと思った。
 風呂上りという理由を省いても、少々赤すぎる彼女の頬を、弁慶の右手が撫でた。そうさせたのは弁慶に他ならないのだが、平均体温の低い男の手に宥められ、望美は口を閉じる。彼女は今、確実に騙されている。しかし、残念ながら、それを教えられる人間は存在しなかった。
 落ち着いてしまえば、望美は「あとで」という弁慶の言葉に思い当たって、さっと顔色を青くした。世話しない望美に笑いかけて、弁慶は楽しそうに彼女の髪を拭くと、ソファーから立ち上がる。
「冷蔵庫の中身は、好きにして構いません」
「え?」
 なぜ彼が席を立ったのかよくわからず、望美は弁慶を見上げる。弁慶は、数瞬考え込むと、屈んで望美の頬に一つキスをした。軽く触れるだけの簡単な口付けが離れ、望美は目を瞬かせる。
「あまり、無防備に男を見上げるものではありませんよ」
 ふんわりと微笑んで、弁慶は一言「シャワーを浴びてきます」と言い置く。
 すっかり動転して、何事に対してもうまく頭が回っていないことを、望美自身気付いていた。弁慶は、十二分にそのことを承知していて、彼の中のぎりぎりまで、彼女の幼さを許す心積もりでいる。望美は一度、深く呼吸をした。
 弁慶にキスをされたのだと思い出せば、簡単に彼女の頬は熱を持った。しかし、それは微熱のようなもので、弁慶本人に触れられたり、彼本人によって語られる言葉でなければ、望美はちゃんと、冷静に受け止められるのである。それは、彼女にとって、魔法というよりも狐にからかわれているような気分に近かった。
 望美は、望美の腕よりもずっと袖の長い男物の寝間着を撫でてみた。気恥ずかしさはあったが、やはり、弁慶からもたらされる熱量に比べると、可愛らしいほどだ。

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