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 そういったことを始めるのだというには、弁慶からは一貫して、欲の匂いというものが漂わなかった。彼は、ベッドの上で、望美の小さな手を握ったり、指を絡ませあったりしながら、望美が朔と話すようなとりとめもない会話をした。それは、中庭に咲いた花の話だったり、病院の裏手の林を飛ぶ小鳥の話だったり、もしくは、彼の担当患者である子供が、自宅のペットを恋しがって泣いてしまったとか、そういった話だ。
 薄暗い照明の中、弁慶の髪が金色に光った。まるで、望美に対して寝物語でもしているかのようだ。ふと、指先が離されて、その指は望美の頬にかかっていた髪を払う。そして、そこをなぞり、口付けが落ちる。
 先ほどまで握っていたものがなくなり、望美の手のひらは、彼女の意思に反して僅かに寂しがる。彼の服の袖口を握り、望美が自ら指を絡めて手を繋ぐと、弁慶は嬉しそうに微笑んだ。
 枕元の照明だけが、室内の明かりだった。ぼんやりと浮かび上がるベッドの脇には、やはり本がうずたかく重ねられている。望美は、彼のベッドの上で、彼の寝間着を着て、彼の枕を敷き、寝転がっている。そのすぐ横で、肘を立てた弁慶が、腹部を下にしていた。
「この頃、中庭の掃除の人、大変そうですよね」
「枯れ葉が落ちるようになりましたから」
「あ、でもね弁慶さん。私、からからになった落ち葉を踏むのって、結構好きなんです。どのはっぱも少しだけ音が違って、ああいうのも、個性っていうんでしょうね」
 そういうと、弁慶はまた忍び笑いをもらした。
「葉が砕けていては、清掃の方はもっと大変でしょうに」
 もう一度、キスが落ちた。
 言葉を紡ごうと開きかけたところだったので、望美は慌てて口を噤んだ。はじめて唇に落とされたキスだった。唇を閉じたせいで、弁慶の下唇を、僅かに食むような形になる。唇の薄い皮膚が触れ合って、それがなぜ、そんなにも望美の身体を変えてしまうのか、やはり、不思議だった。
 男の唇が離れると、早鐘のように鳴っている望美の心臓は、きつく縛り上げられたように苦しくなった。
 望美が、息を止めたのがわかったのだろう。弁慶は、そんなに長い間、唇同士を触れ合わせることなかった。ただ、何度も何度も、彼女にキスをする。
「息を止めると苦しいですよ」
「止めたくて、止めてるわけじゃありません」
 望美は、彼女自身の心臓の辺りを、衣服の上から押さえる。そして、苦しげに息を吐く。
「弁慶さんが触ると、心臓が、かちかちになっちゃうんです」
 彼女の身体は、今、どこを見ても赤い。
 弁慶にしてみれば、望美のそれは殺し文句だ。心臓を止められるのではないかと危惧するのは、むしろ彼の方で、望美は加害者だろう。
 再度、彼の落とした口付けは長かった。触れ合わせて、弁慶の手が望美の髪を撫でると、望美の上唇を何かが舐めた。何か、というのは、弁慶の舌でしかない。知識しかもたないそれを受けて、望美はびくりと肩を震わせる。細い肩が飛び上がると、彼は望美の頬と、髪と、そして緊張したままの右肩を愛撫した。
 労わられていて、優しくされているのだと自覚すると、望美はそろそろと片手を上げ、弁慶の胸元を握った。そして、僅かに身体を起こし、弁慶の下あごと、左頬にキスをする。弁慶が目を見張るのが、なぜか望美にとっては楽しくて、彼女は微笑んだ。
「キスをしても?」
 弁慶の問いかけに、望美が小さく頷く。唇と唇が合わさり、弁慶と望美の髪が混ざった。
 初めから、ほんの僅かに開いていた望美の唇に、ゆっくりと弁慶が舌をさし入れた。温かなそれは、望美の歯列と歯茎をなぞって、上あごを舐める。舌先が、上あごのぼこぼことした表面を軽く撫でると、彼女の身体が小さく跳ねた。どうすればいいのかわからずに、望美の舌はすっかり小さくなっていて、舌の真ん中を弁慶がなぞれば、僅かに浮き上がった。
 弁慶の胸元を握っていた望美の手が、彼のことを強く引いた。
 彼が口付けを終えると、望美は必死に、荒くなった息を整えた。短く吐き出される呼気がみだりがわしく感じられて、彼女は口元を覆う。すると、弁慶の瞳が悪戯げに笑った。そして、彼女の唇を隠している手の上に舌を這わせ、舐め上げる。
「……っぅ」
 突然のことに、望美は声を上げそうになった。そして、楽しそうに笑う男を見上げ、僅かに潤んだ瞳を眇める。こんな状況下で、あまり男を見上げるものではない。さきほど、弁慶は彼女のために、そう教えたばかりだ。あまり報われていないことを察すると、彼は望美のこめかみに指を差し入れる。そして、髪を後方へと梳いた。
「何で、笑うんですか」
「嬉しいですから」
 望美は、疑わしげな視線を向ける。
「信じてください」
 彼女の眼差しに、微かに眉根を寄せて弁慶が返事をすると、望美はほんの少し顎を引いて、こくりと首を上下に動かした。弁慶の言葉は、複数の意味を含んでいるというだけで、確かに間違ってはいないだろう。
 彼は、いまだ乾ききっていない望美の髪を、指に遊ばせる。そして、顕れた首筋に唇を当てると、ただ緩やかになぞった。痛いことをされたわけでもないのに、望美の四肢は震えて、緊張する。弁慶は、首筋を下り終えると、鎖骨の硬さを確かめるように凹凸を唇で挟んだ。
 先ほどから繰り返される行為は、彼女の身体をきゅうきゅうと苦しめた。しかし、それと同じスピードで、望美の頑なな部分を柔らかくしていく。鎖骨に舌を這わせたまま、弁慶の唇は望美の右肩へと向かった。もともと、彼女の体躯と合っていない大きく開いた襟ぐりを、ボタンを一つ二つ外すことで、彼は更に広げた。乳房の間の真っ白な肌が、男の欲を刺激する。望美はぎゅっと目を瞑り、眉根を寄せていた。
 右肩の端まで、弁慶の唇は望美の身体を辿った。そして、脇の少し上の柔らかな付け根に、一つ行為の痕を残す。きつく吸い上げられる感覚に、彼女の瞼が上がり、いつの間にか、彼自身の身体で望美のことを覆うようにしている弁慶を見た。
 弁慶が、小さく息を吐いた。先ほどよりも、ずっと男の匂いのする姿に、望美は、素肌がざわざわとする感覚を覚えた。
「弁慶さん」
 彼女が呼ぶと、男は視線を上げ、望美の頬と耳を撫でた。さっきまで、それと同じ行為は、彼女をなだめるものだったのに、今は、より彼女の官能を引き出すものとなっていた。ひくりと、彼女のあらぬところが震えた。緊張と、期待と、羞恥で、望美の身体は匂い立つ色香をまとい始めていた。
「君を」
 弁慶の人差し指が、ゆっくりと、望美の身体の中心を辿っていく。みぞおちのあたりで寝巻きに阻まれると、彼は残りのボタンを全て外してしまった。薄い布を一枚めくれば、そこにはもう、彼女を隠すものは一つもない。へその窪みを、男の指先が優しくえぐる。望美の表情は、慣れない感覚に驚いていたが、しかし、眼は快楽によってほんの少し濡れた。
「怖がらせたり、傷つけたりしたくは、なかったのですけど」
 へそのさらに下へと指が進むと、しかし、決定的な皮膚の手前で、弁慶は遊ぶように何度も円を描いた。指先一本で翻弄されている望美を、彼は慈しみたいと思ったし、暴きたいとも思った。ゆっくりと、彼女の身体に快楽を教え込むのは、ずいぶんと甘美な行為だったのだ。望美の、いまだ開かれない場所へ男を刻むことに、弁慶の持つ原始的な何かはひどく満足する。
「べんけいさん」
 すがるような声を、彼女は舌を転がして、発する。彼女の胸は、ゆっくりと上下していたが、ふっくらとしたふくらみの上に、二つしこりを作り上げていた。それは、彼女のまとう彼の寝巻きをひっそりと押し上げ、主張している。乳頭は、それ自体にいくつもの神経が通っているため、本人の緊張感や、肌に触れる冷気にもすぐに反応し、硬くなる。それを理解していてなお、弁慶には、望美の身体がこの上なく淫靡に映った。
「こんな風になる君を見るのは、とても楽しい」
 彼は、いつものように優しく微笑むと、衣服の下に手のひらを差し入れた。それは、望美の左の乳房をそっと脇から掬い上げ、揺らした。ふるふると遊ばれる胸の動きに、少しずつ広げられた寝巻きはずれ、彼女は息を止めてその行為に耐えた。かみ締めている望美の唇にキスをすると、弁慶は彼女の口内へ舌を差し入れた。にちゃり、という唾液の音がした。彼女は身を縮こまらせ、弁慶の胸に手を置き、握った。彼の服に皺がより、唇を離すと、望美の荒い呼吸が弁慶の喉にかかった。
 彼の腕の中で、息も絶え絶えに苦しんでいる望美を見ると、弁慶は確かに嬉しそうに笑った。そして、優しく左胸を弄んでいた指が、硬くなっている乳首を倒す。弾力でもってそれに抵抗する彼女の乳頭を、彼はさらに押しつぶし、苛めるような仕草で愛でた。
 望美は息を詰めると、右頬を枕へ押し付けた。弁慶に向けられた左耳は真っ赤に染まり、唇を閉じてしまったがために鼻に抜ける呼気が、空間の色を濃くした。
 「望美さん」と呼びかけられ、彼女は視線だけで弁慶に答えた。眦に、涙の粒が光っている。どこもかしこも男のためのものになった恋人の姿に、僅かに庇護欲の戻った彼は、頬へ口付けを落とすことで優しくした。置き場所をわかっていない望美の両足が、膝をすり合わせている。初めて受ける性的な愛撫に、女性らしい所作を望美は繰り返した。弁慶の欲火はあおられるばかりで、一概に、彼だけが悪いとも言えなかったのだが、やはり彼女を据え膳に仕立て上げたのは彼であったから、予想される望美の非難は甘んじて受けようと、弁慶は思った。

 慎ましやかな喘ぎが、彼女の口からこぼれる頃になると、望美の理性的な部分はすっかり麻痺した。行為にかかる平均的な時間を彼女は知らなかったが、それでも弁慶が時間をかけて彼女の身体を開いていることは事実だった。
 性的な快感を得やすい箇所を、弁慶は何度も何度もいじり、そして望美が耐え切れずに声を上げると、彼女の頭を撫でて誉めた。動物のような恥ずかしい鳴き声に、彼女は「やめて」と、「やめてください」と幾度も頼むのに、彼は笑うばかりで、決して手や舌による彼女への奉仕を緩めなかった。それは、望美の何も知らない身体には、奉仕というよりも、むしろ責め苦だったろう。弁慶の性技は、快楽を知ったばかりの少女に、毒ですらあった。
 彼が望美の性器に指を這わせたとき、彼女は確かに恐怖を抱いたはずであるのに、そこはすぐに体液であふれた。それがさらに望美を萎縮させ、泣かせた。彼女は、自身の身体がこの上なくふしだらなものであるように感じたし、弁慶がどんなにキスをしても、簡単に受け入れられる類のものではなかった。なのに、弁慶の指が一本体内へ差し込まれ、膣の中を擦り上げると、あとからあとから彼女のいやらしい液体が出てくるのだ。赤くなり、立ち上がった乳頭を噛まれ、望美はまた高い声で鳴いた。そうすると、弁慶は「かわいい」と呟いて、嬉しそうに口角を上げた。
 望美の初めての絶頂は、彼女自身が驚くほど早くに訪れた。彼女の淫水に濡れた指先で、弁慶が陰核をくすぐると、もう望美は耐えられなかった。促す男の手管に落ちて、声を押し殺し達した。ぽろぽろと頬を伝う彼女の涙を、弁慶が舐め上げるのにも身体を震わせ、整わない息を何度も吐いた。
 男が、呼気をもらして笑っていた。そして、彼の手で快楽に落ちた望美の身体を抱くと、彼女の顎のラインを唇で辿った。弁慶の意地悪にも、ひどい行為にも、望美はずいぶん慣れたつもりでいたのだが、与えられた快感の衝撃には、一生馴染めないかもしれないと思った。気持ちが良いだとか、悪いだとか、彼女にとって絶頂はそういうものではなかったのだ。ただ、男の手によって与えられた未知のものは、望美の身体のどこかを確実に変えながら、居座ろうと蠢いていた。
 弁慶は、力の抜けきった望美の身体を僅かに持ち上げ、柔らかい臀部を撫でた。そして、シーツを濡らしている彼女の愛液を、二つの肉の丘の間に塗る。
「……ぁ、んぅ」
 望美の半開きになった唇は、自然と声をもらした。両腕が男の背に回り、彼女は爪で弁慶の肩甲骨の下を引っかく。どろどろに彼女を溶かし、望美が、この空間ですがれるものは、弁慶しかないと本能で理解し始めた頃、彼はやっと膨らんでいる男の性器を彼女にすり寄せた。
 初め、望美はそれが何であるか、判断がついていなかった。硬くなったものが彼女の足の間に入り込み、濡れそぼつ膣の入り口に擦りつけられ、彼女はやっと、性交の本来の目的を思い出すに至った。彼女は、額を弁慶の首筋にくっつけた。男に組み敷かれるというのは、望美にとって恥辱なことこの上なかったが、すっぽりと、何者からも庇われているかのような狭い空間は、好ましくもあった。
「やめることはできませんが、望美さんも、僕に何をしてもいいですから」
 かりり、と立てられた爪の感覚に、弁慶は、望美の頭部へ頬を寄せることで答えた。温かな行為に、望美の涙腺はまた緩んだが、真水がこぼれることはなかった。肌に触れる弁慶の性器は、被せられたゴムのせいで僅かにつるつるしている。望美が気をやっているうちに、いろいろな物事が進んでしまっていることを、彼女は今更ながらに気付いた。
 男が行為に慣れていることも、同時にそれとなく理解したが、誰にでも優しい弁慶が、殊更、望美に優しくしていることがわかったので、喜びしか彼女は感じることができなかった。
 押し付けられたそれは、ゆっくりと望美を犯し、入り込んだ。広げられていく性器を、弁慶の肉が塞ぐ。ぴりぴりとした痒みとも痛みともつかない感覚に、彼女は大きく息を吐き、吸う。その呼吸を助けるように、男の手が彼女の背中を撫でた。
「っはぁ……あ、ぅ……っぁっ」
 女性の膣は、神経がさほど集中しておらず、肉体の中でも鈍感な部分である。膣によって快楽を得る場合は、内部の圧迫や刺激が陰核などの敏感な部位に伝わることによる。慣れない感覚に、怯えるように喉を震わせる彼女を、弁慶は優しく愛撫し、口付けてなだめた。望美を傷つけたり、怖がらせたりしたくないというのは、彼の本心であるから、彼女の処女膜がゆっくりと開かれていくのを、ただただ待った。
 辛抱強い男の愛情に、望美は気付く余裕がない。しかし、聞いていたよりもずっと苦しくない行為に、彼女は顔を上げると、弁慶の唇の端に口付けた。望美の示した愛しさの表現に、弁慶は困った。彼は、彼女の幼さをすべて許してあげたかったが、望美のことを思えばこそ、無知の罪を教えたほうがいいようにも思った。
「べんけいさん」
 回らない舌で、彼女が弁慶の名前を何度も呼んだ。そのたび、望美のいたるところに口付けをして、彼は暴力的な衝動を抑えないといけなかった。今、二人はどこまでも平面的になっている。望美と弁慶の間には、X軸とY軸しか存在しておらず、意地の悪いZ軸のもたらす野暮な隔たりなど、どこにも存在していなかった。触れ合わせることができる素肌を、すべて弁慶の身体に擦り付けるようにして、望美は甘えていた。彼女の中で、いくらかの余裕が生まれたことを意味するそれを受けて、弁慶はやっと、強固な自制心を欲望に渡していった。
 下肢をえぐられ、穿たれ、呼吸さえつっかえながら、それでも望美は、弁慶に首筋と陰核をいじられると泣き声を上げた。もう一度極みを与えられるのだと察し、彼女の四肢は震えた。覚えたばかりの悦楽を、彼女の膣は痙攣を起こして喜んでいる。その反応は、望美自身の意思とはまったく違うところにあるはずであったのに、差し込まれた男の性器が出入りすると、彼女の愛液はみだらな音を立てた。
「あ、っ……は、ぅっ、ゃあ……っ!」
 眉根を寄せ、切なげに喘ぎ続ける望美の媚態を、弁慶はずっと見ていた。濡れた眼はきらきらと美しく、時折、開いた唇から赤い舌が覗いた。
「……っぁ、ン……ぅんっ、んんんんっ……っ!」
 背筋を反らし、後頭部を何度も枕に擦り付けながら、望美は与えられた絶頂を迎えた。望美の長い髪が散り、前髪は額に張り付いていて、弁慶の射精を促し蠢く体内の動きとは正反対の稚さだった。きゅうっと絞られた性器に、弁慶ももう耐えなかった。ゴムの先に、放ったものが溜まる感覚を感じながら、それでも彼は腕を伸ばし、望美を抱いた。彼女の前髪を梳き、あらわになったこめかみに口付け、頬を舐めると、二度三度とキスをした。
「……望美さん」
 うつろな彼女の瞳が、ゆっくりとした動作で弁慶を捉えた。それでも、疲れきった彼女の身体は、すうっと眠りへ誘われる。望美の意識が闇に落ちると、弁慶は微笑んで、彼女を抱えなおした。

 ふと、望美の意識が持ち上がる。
 彼女は、結局弁慶の身体を離さずに眠って、そして、そのまま目覚めた。弁慶はすでに覚醒しており、彼は寝乱れてしまった望美の髪を梳いていた。
 時計を探して、彼女は僅かに上体を浮かした。弁慶は、それをやんわりと押さえ、また寝かしつけるように、彼女の目蓋の上へ手のひらを置く。
「まだ六時前ですよ」
 彼は小さく囁いた。そして、望美の頭を肩口に引き寄せると、彼女の背中を撫でた。素肌に望美の髪が流れ、弁慶はくすぐったい思いをした。
「……」
 望美の呼気が、言葉の形を成した。いまだ眠りの世界をさまよっている彼女の言葉に、返事をすべきかどうか、彼は一瞬迷った。しかし、ついで掛けられた言葉は幾分しっかりとしていて、彼は、情事に疲労した望美の四肢を愛撫しながら尋ね返した。
「弁慶さん」
「どうしました?」
「大丈夫ですよ」
 弁慶の沈黙は、彼女の言葉を促すものだ。望美の身体は、いまだ睡魔からの強い引力を受けていて、長い言葉を喋ることはできなかったが、彼女は懸命に唇を動かし、喉を震わせた。
「歩けるようになります」
 望美の言葉には、主語もなく、補語もない。
「まかせてくださいね」
 弁慶はゆっくりと呼吸をする。眠りに落ちてしまった望美にキスをする。
 夜明けだった。



 望美自身が、あの朝方に交わされた会話を、果たして覚えているのかどうか、それは甚だ疑問ではあったが、それから二ヵ月後、外来訓練と経過診断のための通院があるとはいえ、須釜は退院していった。術後の経過は順調で、弁慶に残された仕事といえば、再発が起こらないための化学療法を判断していくことにほぼ絞られていた。
 最後の診察日、病棟奥の小さな小部屋で、弁慶は彼を見送ると、小さく息を吐いた。
 その日は、春と見紛うような日和で、温かな光が窓から差し込んでおり、それはただただ降り注いでいた。まぶしく、優しく、そして温かい光を受けて、部屋の中の全てがぬるま湯にあるように平和である。弁慶は思う。
 祝福というのは、きっと、光の形をしている。


君は 僕の手を握った。そして 走り出し 振り返る。
大丈夫 虹までだって 届くんだから。飛び上がる。遠くへ。
(どんなことがあっても)
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