いまだ冬は遠く
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友人主催の中世アンソロジー「Vetus Memoria」寄稿
ロシアさんとリトアニアとポーランドの三角関係染みた話。
[冬の暖炉]
初めて、彼の家で起きた面倒事を知ったとき、自身は、自分でも驚くほど落胆したものだった。どこも変わらないし、どこも同じなのだと、そう考えが落ち着くにつけ、リトアニアも、どうしたところで人間同士の利権がある家なのだと、とても残念な気持ちになった。「人」という生き物を、あまり感慨を持って眺めたことはないけれど、見聞きする「リトアニア」という国自身が、随分と清廉潔白な存在であった分、意外だったのだと思う。
二年ほども前のことだったか、彼の上司の兄弟が、自身の元に結託をほのめかす手紙を送ってきた。今、リトアニアはヨガイラという男を自身の大公と定めて仕えているが、それを由としない存在が、少なからずいたらしい。
彼との間で、大きな戦を起こしたことはなかった。というよりも、お互いにプロイセンの相手をするのに忙しくて、手を出す暇がないというのが現状だった。多少は国境越えをしたこともあるが、かわいい程度だろう。遠くから眺めたリトアニアの庭は、森林がひどく美しくて、その穏やかな深緑と柔らかな花々の色合いが、じんわりと染み込んでいくような憧憬を、自身に植え付けたものだった。
窓の外に視線をやる。その先で、雪がちらついている。自身からしてみれば、リトアニアに降る雪は驚くほどに薄く、儚い。もっと南に下れば、雪が降らない土地すらあるというのだから、それを知った当時は、幼心にひどく衝撃を受けたものである。
国境近くの城砦だった。リトアニアにとっては北東、自身にとっては南西に位置する場所だ。冬だというのに凍らない川や、殺人的な鋭さにはいまだ遠い空気が珍しくて、ここに到着した一日目は、飽きもせずに外を眺めていた。
自身の教官は、ヨガイラをリトアニアから引き離すことに利益を見ている。リトアニアの土地は、琥珀を多分に含んでいるし、加えて商業も盛んで、枯れた場所に住むロシアの住人たちにとっては、とても魅力的だった。教官と、手紙の差出人の間で、どんな密約が交わされているのか、聞かずとも容易に想像できる。モンゴルの元で辛酸を舐めたときから、人と人の間で計算されるそういった損得の勘定を、自身は簡単に見抜けるようになっていた。
ヨガイラの兄弟からの手紙を受け取って以降、自身は、それとなくリトアニアに圧力をかけ続けている。おかげで、リトアニアはプロイセンと停戦するために秘密裏の条約を結ばなければいけなかったらしいが、結局、彼の敬愛する大公は、叔父によって国を追われた。大公に成り代わった人物は、在位一年で露となったけれど、ようやっと国へ戻ったヨガイラは、ロシアとの同盟か、プロイセンとの同盟か、二者択一を迫られていた。
我が上官ながら、上手だなぁと思わず息を吐いたものだ。敵の敵は味方だと擦り寄って、リトアニアを足がかりに、バルトの海へ出るつもりなのだろう。自身とて、暖かな場所に行けるのは嬉しい。その先が、一度ならず目にしたあの美しい森林だというのなら、なおのこと嬉しい。
会談の場を設けようと、そう提案したのはこちらだった。元々、リトアニアは平和的な解決方法を好むようで、対話を求めれば拒否はされなかった。先に城砦へと足を踏み入れたのは、もちろん呼び込んだ側である自身らだったが、二日目に、相手も城門をくぐったと聞かされていた。同じ城内にいるのに、食事を共にすることもできず、自身は膨れたものである。三日目が、彼の大公の使者と、自身の教官の使いの会見日だったから、それまでは国同士も隔離されたらしい。
「こちらでお待ちください」と、暖炉の炊かれた部屋に通されて、すでに数分が経過している。もうすぐ、リトアニアを間近に眺めることができるのだと思うと、少しだけ浮き足立つような心地がした。
誰かと喧嘩をしたいわけではないのだ。だから、戦場で見えない限りは穏やかなリトアニアには、元々好意があった。本当を言うなら、ロシア自身は、プロイセンのことも嫌いではない。面倒だし、時折うるさいとは思うけれど、仲良く出来るなら仲良くしたい。それを相手が理解してくれないから、自身は肩の凝ることをしなければいけないのだと、いつも思っている。
冷たい石に囲われた部屋の中で、くべられた材木と炎は、星のように明るい。降り積もる羽のような雪の破片は、確実に城壁を凍えさせているのに、なぜか、空気はどこか甘かった。
自身の家では、決してありえないことだと思う。閉ざされていて、受け入れずにいて、拒み続ける雪だけが、音もなく降り積もっている場所だ。お互いの国境に近いだけで、そこは確かにロシアの城砦であるのに、こんなにも差があるのかと不思議な気持ちになった。
ふと、顔を上げる。耳が拾ったその音は、聞き慣れない靴音だったから、すぐにわかった。氷の冷たさを吸い取った石の通路へ、異質な音が混ざりこめば、思考よりも速く鼓膜が反応するのだ。にこりと、自身は笑みを浮かべた。
漆の塗りこめられた木製の扉が開き、じいっと見つめる先で、彼がこちらを見返した。扉を支える兵士に小さく感謝の言葉をかけ、足を踏み出す。室内に入り込む。
椅子から立ち上がって、さらに笑みを深めた。見目の年齢は、自身とそう変わらないようにも思う。重たげなローブの袖から白い手の甲が覗いていて、それは緊張からなのか、少し震えていた。
「はじめまして」
リトアニア語で声をかけると、相手は一瞬、驚いたような、戸惑うような表情をしてみせる。けれど、比較的すぐに持ち直して、同じ言葉を、ロシア語で返してきた。たぶん、この城砦の兵士や女官に教えてもらったのだろうけれど、訛りがひどくてびっくりした。自身の話したリトアニア語も、それと大差なかったに違いなくて、確かにこれは、少し面食らってしまうなと思う。ただ、相手が自身と同じ好意の示し方をしてくれたのが嬉しかったから、やっぱり、己はにこにこと微笑んでいた。
「ねぇ、こちらにおいでよ。お茶を淹れるから」
扉の前に佇んだままでいる相手に席を勧めると、それには深く礼を取られる。礼儀正しい子はますます好きだったから、自身は、驚くくらい上機嫌だった。そういえば、仲良く出来なかった過去の子達は、往々にして、みんな行儀が悪かったと思う。
自分とそう変わらない背格好なのに、初対面の相手には慣れない性質なのか、リトアニアの言動は硬かった。さすがに、普段使いの言葉をリトアニア語で語れるほど勉強はしていなかったので、出来る限りゆっくりとロシア語で話しかけることになった。相手も、それに合わせて、一言一言を区切るように言葉を繰った。面倒な会話だったけれど、退屈ではなかった。
唐草模様の刺繍が施されたソファーは、暖炉の灯にあてられて、随分と暖かくなっている。その上に手を滑らせて、向かいに座るリトアニアを見ていた。水を吸い込んだ後の大地のような色の髪だった。花や草を育てるのは、好きだったり、得意だったりするのと尋ねると、こちらの意図を汲み取れなかったようで、それでも首肯と言葉が返された。
「やっぱり、そうなんだ。うらやましいなぁ、僕は、てんで駄目だから」
交わされる会話は、他愛のないものばかりだ。元々、自身とリトアニアが、狐の話すような上滑りの言葉を投げあう必要はないのだけれど、脈絡のない自身の言葉は、相手の緊張をほぐすことに少しばかり貢献したらしい。彼は、目元をふんわりと和ませて、唇の端を上げる。満面の笑みには遠くても、微かに笑う。自身の心の中にいる誰かが、ひっそりとした声で「仲良くしたいな」と呟いた。リトアニアは、夏になれば、もっと花々が咲いていたのにと、少しだけ残念そうに言っただけだった。
「なら、夏にもう一度、今度は君に呼んでもらいたいな」
微かな含意に、彼は気付いただろうか。
気付いたのだと思う。途端に、素直とも取れる態度で、カップを支える手が、ほんの僅かであっても震えたから。
穏やかで、行儀がよくて、頭もいい子なら、きっと一緒にいられるだろう。想像して、少し幸福な気持ちになる。
「僕と君は、きっと、仲良くなれるよ」
囁くようにリトアニアに語りかけると、彼は返事に窮したようで、僅かに目を伏せた。リトアニアが、単独で答えを返していい問題ではないだろうから、そんな態度も許すことが出来る。
「仲良くしたいな、君と」
暖炉の中から、小さく材木のはぜる音が聞こえていた。
[春の椅子]
会話の最中、常に微笑を浮かべていたロシアの様子に、緊張の糸を解かなかったといえば嘘になった。相手とは、今回ほど大きな接点といえるものがなかった分、繰り返される邪気のない発言に、少しずつ肩の力が抜けていったのだろう。ロシアの様子を見ておいでと、大公様はそう言ったのに、相手の煙に巻く挙措に戸惑ってしまって、うまく立ち回れなかった自身が申し訳なかった。
昔から、ロシアが時折、こちらの庭へと入り込んでいたのは知っている。けれど、必要な威嚇をすればすぐに帰っていったので、面と向かい合った会話は、実は初めてのことだった。こちらの家の混乱に乗じるような真似をしているのに、ロシア自身は、ずっと穏やかな口調と仕草を絶やさずにいて、背格好も、自身とそう変わりはしなかったと思う。だというのに、僅かに気を抜いた瞬間、「夏」という季節の催促を受けてしまって、心底驚いた。あのあと、秋も麦の穂が美しいですよと続けたのだが、「収穫が忙しいでしょう」と一蹴され、それが事実である分、言葉を継ぐことも出来なかった。
ロシアが、友好的にこちらの返事を待つのは、今年の夏までだ。プロイセンは、それよりもさらに、気が短いだろうけれど。
三月を過ぎて、ずっと庭を覆っていた雪の冷たさが、少しずつ遠退いていっている。ただ、いつもならこの短い芽吹きの季節を喜べるのに、花が咲き、鳥が歌うのを見るにつけ、期限が迫っていることがわかるので、大公様も、自身も、素直に笑みを浮かべることが出来ずにいた。意図を窺うというならば、プロイセンの方が、ずっとわかりやすいと思う。彼は、今の自身にとってとても迷惑な相手であったけれど、ある意味、正直な性格をしていたから。
小さく息を吐いたヨガイラを見上げる。彼は椅子に座ったまま、窓から春を眺めている。ようやっと、この椅子に戻ることができたこの人を、自身はとても好いていた。
「大公様」
僅かに握りこまれたヨガイラの右手に両手を添える。見目は幼くとも、剣を握って久しい自身の手のひらは硬い。しかし、日中の陽射しが差し込む中で、相手は僅かに微笑んでみせた。
プロイセンか、もしくはロシアかという二択は、以前から自身の家の中にある問題だった。もう二百年近くも前に、この土地へ新しい神が訪れて以降、ずっと、この地の人々は、両者の間で必死だったのだ。リトアニア本人は、別段、その神の存在をうるさがったことはないし、元々「祈る」という行為を好んでもいたけれど、やはり、暴力的な方法で土地へと住み着いた帯剣騎士団に対しては、穏健な態度など取れなかった。いまだ、自身よりもさらに幼かったラトヴィアとエストニアへ、白刃の切っ先が向けられたこともあって、プロイセンに対しての敵愾心は、確かに胸の内にある。
ラトヴィアの庭であるリーガの街の司教は、プロイセンのやり方に反発的なところがあったから、こちらの騎士団を受け入れてくれる。自身も、常に余裕があるわけではないけれど、それでも、末弟の呼ぶ声に駆けつけることは、エストニアの土地に行くよりもずっと容易い。
もし、エストニアを思うなら、ロシアと同盟を組むのがいいだろう。そうすれば、ロシアに近い土地である彼と、今よりもずっと会いやすくなるに違いないのだ。けれど、果たしてリーガの人々は、その身の振り方を許してくれるだろうか。両者とも守ろうとするには、自身は弱かった。
「大公様、ラトヴィアとエストニアが心配です」
憂いをこぼせば、この優しい主君は、慰めるためにこちらの髪を撫でる。自身の家は、色々な人々が共同で住んでいるから、出した答えによっては、出て行く者もあるだろう。季節の暖かさの中にあって、それでも、いまだ部屋の中は鬱々しい。悩むために割ける時間は残り少なくて、別の部屋では、また違う人同士が同じことを話しているかもしれない。家中の混乱は、ひどくなるばかりで、それがさらに自身のことを苦しめている。
「リトアニア」
「はい」
呼ばれ、顔を上げる。その先で、ほんの数十年前は、自身よりもずっと小さかった主が、微かに笑みを浮かべていた。こんなとき、「人」というのは不思議だと、いつも思う。成長も、老いも、変化も、驚くほどの早さで彼らを包む。けれど、それらを受け入れることを生まれたときから知っている「人」という存在は、こうやって、変わらない微笑みを自身に向ける。
「先日、ポーランドから使者が訪れたことを、覚えているね」
「はい」
「彼らは、私たちに第三の選択肢を持ってきた」
プロシアの地にドイツ騎士団を呼び寄せたのは、元を辿ればポーランドの王だ。そうであれば、表立って争わずとも、人同士があまり友好的な付き合いをしていないのは事実で、過去、一度だけ休戦の約束をするために彼の土地へ訪れたこともあったが、それ以来、あまり親密な出来事は起きていなかった。
両国の和の便宜を図るために、自身の家で生まれた女の子が一人、ポーランドの土地へと嫁いだのだ。そのとき、自身は今よりずっと幼くて、ものの道理も弁えていなかったから、ただ心配で心配で、嫁入りの道中についていった。そのとき、相手の皇太子は歓待をしてくれたけれど、ポーランドとは結局、一度挨拶をしただけで会話の機会がなかったように思う。金色の髪の男の子は、優雅な一礼の後、すぐにどこかへ隠れてしまったのだ。
「人見知りでね」と、彼の土地の人は言ったけれど、ポーランドは、自身のことがあまり好きではないのかもしれないと、そう思っていた。だから、そんな彼の使者が来たと聞いて、ロシアから会話を求める手紙が届いたときと同じくらい驚いたのだ。忘れるはずもなかった。
「あちらは、どうやらオーストリアに土地を狙われているらしい」
「今、ポーランドを統べる女王は、聡明な方だと聞いていますが」
「だからこそ、私たちに使者を出した」
プロイセンでも、ロシアでも、オーストリアでもなく、今は混乱し揺れている隣国へと、ポーランドは真意を送り出した。幼馴染と呼べる間柄であったとしても、唐突とも思える距離の縮め方は不思議だったが、それだけ、向こうも必死ということだろうか。
ポーランドは王制になって久しいが、思い出すだけでも、彼の住む場所は華々しかったと思う。記憶の中にいる彼は、ゆったりとしたシャツと、丁寧な刺繍の入った上着を着て、首元にはストライプのリボンをしていた。腰を折った際に、細い金色の髪が頬を隠すようにこぼれたことと、陽の光を受けて、それが一層きらきらと輝いたことが、とても印象に残っている。
ポーランドは、眉根を寄せたまま、じいっと、観察するように自身のことを見ていた。けれど、すぐに身を翻したかと思うと、どこかへ走り去ってしまい、そのままだった。ポーランドがドイツの騎士団を呼び寄せたことを、リトアニアが怒っていたのは昔のことだ。彼の土地でもないのに、勝手に、暴力的な人々をラトヴィアとエストニアの土地へ住まわせたことを、リトアニアは確かに怒った。けれど、彼らがその土地へ住むことを記したポーランドの公文書が、偽造されたものだと知って、リトアニアの想像したことが誤解だったとわかったのだ。件の少女の嫁入りが決まったのは、時の大公が、互いの国のすれ違いを正そうとした結果である。
今思えば、あんなにもわかりやすく、嫁入りの旅路にもぐりこんでいた自身が土地へと引き戻されなかったのも、和睦の意味合いの濃い婚礼だったからだろう。そういえば、その頃から自分は、うまく立ち回るということができなかったなと、少しだけ自己嫌悪に陥った。
「私の愛するリトアニア。お前は、ポーランドのことが嫌いかな?」
穏やかに尋ねられて、慌てて首を振る。その仕草に、僅かに安堵したように笑った相手を見上げて、この人の心は決まったのだと悟った。ならば、自分という「国」は従っていたいと思う。自身を愛してくれる上官と、上官を信じる民と、自身の愛する大地へ、従順に、敬虔に、仕えていたいと思うのだ。
ポーランドは、果たしてどうなのだろうと考えた。ラトヴィアやエストニアほど、彼のことには詳しくないので、想像することも難しい。
「仲良くできるでしょうか、彼と」
顔を伏せ、ヨガイラの右手に乗せていた両手を下ろす。そして、相手が何かを答える前に、再度顔を上げた。ついで、笑みを浮かべる。最近は、眉をひそめたり、思い悩んだりすることが多くて、こんなに何のてらいもなく笑ったのは久々のような気がした。
「仲良くしたいです、彼と」
椅子の背もたれへと、窓から差し込んだ春の陽光が、降り注いでいた。
[夏の庭先]
今度は逃げないようにと、優しく笑いながら言った女王は、自分を女官たちの檻に閉じ込めて会談の広間へと向かっていった。五、六十年ほどの前の失態を突かれ、苦い顔をしたこちらを見て、彼女はころころと笑い声を上げたが、自身にしてみれば笑い事ではないのだ。
そもそも、人にとっての五、六十年というのは、決して短い年月ではないはずだ。なぜ知っているのだと思ったが、どうせ、あのときの皇太子が、面白おかしく後世に伝える手記でも綴っていたに違いない。自身は、あの冗談を理解する皇太子が好きだったが、そんなことまでわざわざしたためなくてもいいと思う。
今の女王も、もちろん嫌いではないが、そもそも今回のこと自体、相当意地の悪いやり方で自身に納得させたのである。人は、なぜか知らないが、どんどんずる賢くなる。昔は、自身のわがままを微笑んで聞いていた少女も、いつの間にかこちらを従えさせる方法を身につけて、にこにこと笑顔の脅迫をする。
半年ほど前だったか、初めに彼女はこう言った。「ポーランド、大変なの。もしかしたら、私オーストリアの貴族と結婚させられるかもしれないわ」。当然、自身はこう答えた。「はァ?! そんなん、嫌に決まってるし!」。
その後は、相手にしてみれば、見事なまでのとんとん拍子だったろう。では、プロイセンと同盟を組んで、対抗手段を取らなければいけないと言われて、あんな嘘つきの集団と同盟なんて、対抗ではなく自滅だと叫んだ。となると、ロシアと休戦の条約を結んで、均衡状態を作らなければと諭され、あんな性格の悪そうな奴らが約束など守るものかと突っぱねた。
「だから私、リトアニアのヨガイラ大公と結婚することにしたわ」
プロイセンは駄目だ。奴は、こちらの手紙を勝手に書き換えた上に、帰れと言っても聞く耳を持たず、いまだにうるさい行為を繰り返している。
ロシアも駄目だ。奴が、虎視眈々とバルト海への進出を狙っているのは自明で、以前からポーランドとの仲は良いと言えない。
絶句した自分を眺め、彼女は笑った。祝福してくれないのと言われて、既視感に顔を歪めたのは二月前のことである。動乱の絶えない西欧の土地を、僅かに離れた場所に住んでいた自身は、今まで、さほどの緊張状態に陥る必要もなく眺めていられた。そんな中で画策されたオーストリアによるお家の乗っ取りは、女王の機転で水泡に帰したのだが、自身にしてみれば、その婚礼の儀式は憂鬱を呼ぶものだった。
愛する彼女が結婚をすること、それは構わないのだ。相手の男も、リトアニアの人間であるなら問題などあるはずもなく、むしろ歓待したいほどである。苦い思いをしているのは、きっと、この件に関しては自身だけだ。もしくは、自身と、リトアニアだけだろう。
ポーランドの女王とリトアニアの大公が、婚儀によって結ばれるなら、両国には同盟や条約などよりもずっと強い絆が生まれる。同じ王を戴き、同じ土地になる。つまり、リトアニアと同じ家で住むことになる。自身に対して、強い怒りを覚えている彼と、一緒の家で、四六時中を共に過ごすことになるのだ。
彼が怒っている理由を、理解できないほど愚かではない。こちらの意図ではなかったとはいえ、リトアニアの弟分たちは怖い思いをして、つらい目にあっている。その遠因は、確かに自身の王がドイツに向けて出した手紙にあって、誤解が解けた後も、リトアニアの人々は単独でプロイセンとロシアに対抗し続けていた。
過去、一度だけ、リトアニア自身がこの家へ訪れたことがある。彼の家の少女が、この家へ嫁いで来たときのことだ。自身は嬉しくて、実は、婚礼儀式の前から、この家に泊まる相手のことを遠くから見ていた。
生まれて間もない頃、リトアニアとは幼馴染と言える仲だったし、彼に二人の弟が出来た後も、派手な喧嘩など一度もしていなかった。一番年長だったリトアニアと、ラトヴィアよりも少しだけ年上のエストニアと、まだ呂律も回らないほど小さなラトヴィアが、三人で歌を歌っているところに出くわせば、いつだって、彼らは微笑んで手を振ってくれた。
そんなリトアニアが、ひどく怒っていると聞いていた。それでも、和睦の意味合いのある婚礼に、他人の土地にまで来て参加してくれると知ったのだ。自身は嬉しかったのだと思う。また、仲良くできると浮かれた。けれど、本当は、リトアニアは自分と親しい少女が、異国へと向かうのが心配で、ついてきただけなのだとわかった。別段、彼は、自身と会いたかったわけでも、会話をしたかったわけでもなかったのだと察して、何を話せばいいのかわからなくなった。
結局、婚礼のあとに引き合わされたときは、挨拶だけを何とかこなして、相手の顔も見ずに隠れた。それが、女王の「逃げないように」という言葉に繋がるのだが、いまだ、あの深い木々の色をした眼差しに、嫌悪や怒りを見つけるのかと思うと、嫌で嫌でたまらない。
リトアニアもまた、家の混乱が招いた災厄として、ロシアとプロイセンという二者択一を迫られているのだという。ただ、どちらをとっても、リトアニアにとって良い方向には向かわないだろう。
自身とリトアニアが組めば、オーストリアなどに口出しはさせない。プロイセンなどすぐに追い返して、ロシアに対しても強気で対応して、エストニアとラトヴィアも、同じ家に住まわせられる。けれど、リトアニアと話をするのだと考えれば、途端に頭が真っ白になった。
自身を囲んだ六人の女官のうち、一人には喉が渇いたと言ってぶどう酒を取りに行かせた。一人にはお腹が空いたといって、もう一人には、書庫へリトアニアの好きそうな本を取って来いとお使いに出した。四人目に、窓から手紙が飛んでいってしまったといって探しに行かせて、残った四つの目から隠れるのは簡単だった。自身が脱走したのだと勘違いして、慌てて部屋から飛び出した二人をカーテンの隅から見送り、悠々と部屋から抜け出したのが、三十分も前のことだ。
夏は、この土地にとって花々の季節だ。庭に出て、気に入りの白樫の傍に寄ると、そこから瑞々しい緑を眺めた。今頃、広間では大公と女王が言葉を交わしていて、リトアニアは、自身の逃げ出した部屋で待ちぼうけを受けているに違いない。
「マジありえんし」
ぽつりと呟く。そして、今晩の晩餐をどう逃げ切るか思考を巡らせようと寝転がったところで、人の気配に気付いた。飛び起きるが遅い。むしろ、あと数秒もせずにこちらへと辿り着く相手としっかり目が合ってしまって、自身はひどく慌てた。立ち上がり、思わず走り出す。けれど、そんなこちらの様子に、リトアニアはさらに驚いたらしい。
「え、ちょ……なんで逃げるの?!」
「なんで追ってくるんよ?!」
庭を走り抜けて、裏の小さな原生林へと向かった。森に逃げ込んでしまえば、いかに同じ野山育ちの相手といえど、土地勘の差で動きが鈍るから、そこまで捕まらなければ逃げ切るのは容易い。だから、そちらに走っていたのだが、背後で息を吸う音がしたかと思うと、先ほどよりもずっと大きな声が響いた。
「そんなに、俺のこと嫌いっ?!」
驚いたのか、頭上の枝葉で羽を休めていた小鳥が数羽、南の方角へと飛び去る。けれど、そんな鳥たち以上に、自身も言われていることの意味がさっぱりわからず、足を止めて振り返った。視線の先にいるリトアニアの呼吸は乱れており、そして、それは自身も同じことで、髪も、二人そろって乱れきっているだろう。
こちらを見つめる瞳は、まだ僅かに遠くて、ただ少しだけ潤んでいるように思った。理不尽な気がした。きゅっと、自身の眉根が寄ったのがわかる。そして、思わず腰に手を当てると、こちらからリトアニアへと近づき、相手を睨み上げた。
「……俺んこと嫌いなんは、そっちやし」
正面から向かい合うと、身長はリトアニアの方が高い。けれど、急に態度の変わったこちらに困惑したのか、表情は揺れている。自身の持つ緑よりも、いくらか濃い色をした碧眼は、じっと見つめてくる。それを見ていると、こちらの目も、なぜか少しだけ潤んだ。
「俺とお前が組めば、プロイセンなんてすぐに追い返せるし! ロシアなんか怖くもなんともないし! ラトヴィアやエストニアだって、すぐ取り返せるに決まってるし! それなのに!」
言っているうちに、段々と腹も立ってきて、最後は顔を背けた。
「俺んこと嫌って、ずっと避けてるのリトアニアの方だし!!」
頭上に広がる枝葉の中を、夏の風が通る。他者の存在を感じ取り、巣の中に隠れていたシマリスが、ようやっと顔を覗かせる頃になって、若干呆然としたような声のリトアニアが首を傾げた。
「……なんで?」
その声に誘われて、ちらりと、相手を横目に見る。すると、本当に困りきったような顔をした相手が、微笑のような、苦笑のような表情で、それでも、やっぱり混乱した顔のまま、僅かに言い淀んだ。しかし、すぐに言葉を続ける。久々に聞くリトアニアの言葉だったが、そういえば、案外さっきも、感覚ですぐに意味を理解したなと思った。
「ねえ、俺、仲良くしたいよ? 君と」
今度、驚くのは自身の方だった。
あんまりの相手の言葉に、思わず目を見開いた瞬間、表面張力で張り付いていた目の中の水分が、ぽろりとこぼれる。びっくりしすぎて、そのあとに続く涙はなかったけれど、一粒とはいえリトアニアはさらに困惑したらしい。「え?」「何?」「どうしたの?」と言いながら、ひどく慌てている。
言葉もなく見つめていると、こちらのために必死になるその様子が、なんだか面白いものに思えて、笑い声を上げた。泣いた数秒後に、突然笑い出した自身を、呆気に取られたように眺めるリトアニアの顔色は、赤くなったり青くなったりと忙しい。それを正面から観察すれば、さらに笑いがこみ上げて来て、しばらくの間はこれを思い出すだけで爆笑できるだろうと思った。なぜ、こんなに愉快なのかは、自分自身でも理解できなかったけれど。
こちらを呆然として見ていたリトアニアは、少しだけ困ったようにすると、それでも、自身がもう逃げないことを察したらしい。そして、ひどく言い慣れない様子で、随分と発音のおかしい自身の家の言葉を喋った。
「こんにちは」
にこりと微笑みながら言われて、さらに大笑いをする。別の意味で、涙が一粒二粒目じりから滲み出た。笑われて、さすがにリトアニア自身訛りがひどいことを理解しているのか、恥ずかしそうに目を伏せる。耳まで赤くなっているのが楽しかった。
「なんなんそれ! 変な言葉すぎてマジうけるし!!」
「これでも、一応、練習したんだけど」
「そんなん、全然俺んちの言葉と違うの言っててわからん?」
「仕方ないだろ」と膨れてみせる相手は、赤面している顔を見られるのが嫌なのか、片手を上げて首筋や頬に手の甲をあてたり、指先で熱を測ったりする。その手を奪って、紅潮する顔を覗き込んだ。笑いかけると、リトアニアも少し息を詰らせたあとに、ふんわりと微笑み返す。
「仕方ないから、俺が俺んちの言葉教えてやるし」
「だから、お前は他の連中から教わるの禁止な。これ絶対な!」と念を押す。リトアニアは、奪われたままの片腕と、こちらの顔を見比べて、また笑った。
手を引っ張り、家に戻るための道を辿る。女王に逃げたことが伝われば、それはそれで面倒なので、早く帰らなければいけない。けれど、今回のことは、リトアニアが話を合わせれば済むことだと気付いた。自身は、室内だと退屈だと言うリトアニアを庭に案内して、そして少し遊んだのだ。考え付くと、確かにそんな気もして、これはそもそも、嘘でも何でもないと思い直す。
「じゃあ、俺の家の言葉は、俺がポーランドに教えるね」
「えぇ? 何で俺が覚えなきゃならんの?」
答えると、ぐいぐいと自身に引かれるままだったリトアニアの顔の中、眉が悲しげに垂れ下がる。その顔に、また笑いそうになった。勉強はそもそもあまり好きではないけれど、多分、こんな顔をした相手が教える言葉なら、案外早く覚えられるだろう。そう思ったままを付け加えると、背後で、相手はまた微かに笑ったようだった。
屋敷の中を遠目から眺めても、自身らを探しているらしい女官が、慌しく廊下を通り過ぎていくのがわかる。先ほど走り抜けた小道を、今度はリトアニアの手を握り、ゆっくりと歩いた。
「俺も」
「うん?」
「俺も、お前と仲良くしたかったんよ、ずっと」
庭先に植えられた夏の花の香りがして、鳥が歌を歌った。
[秋の城砦]
彼の視線の先には、平野と、森林と、大小の湖をたたえる肥沃な大地がある。秋の収穫を待つ黄金色の海までは、さすがに臨むことが叶わなかったが、それでも、その土地の美しさは十二分に伝わる景観であったので、ロシアはふんわりとした笑みを浮かべた。リトアニアは、過去、彼に夏の花々の美しさを教えたが、春も夏も、冬でさえも、彼とポーランドの土地には、ロシアの庭にないものが満ちていた。
春に攻めたときも、夏に奇襲をしたときも、冬に様子を窺ったときも、リトアニアの白い騎士の紋章は、変わらずロシアの方角に向けられたまま動くことはなかった。すでに二百年近くも前の夏の終わりに、ロシアの欲しがった返事を、リトアニアが返さなかったときから、ずっとだ。代わりに、ポーランド女王とリトアニア大公の祝言の報せが、周辺国に何度となく届けられたが、ロシアは、今でもあの瞬間の感情を忘れずにいる。彼は、リトアニアとは、仲良くできると思っていたのだ。
彼の教官は、その報せの手紙を破り捨てた。感情的な人物だったので、ロシアは、その様子を無感動に眺めていた。ただ、その後何度となく訪れたリトアニアとの戦場で、鎧を身に付けた碧眼は、ひどく厳しい色を浮かべていることが多く、それが、とても悲しかった。
掲げられる紋章は、リトアニアの白騎士とポーランドの白鷲である。しかし、戦場ではポーランドの姿を見ることは稀で、そのことも、ロシアの感情を逆撫でしていた。彼にしてみれば、仲良くできる子と戦う羽目に陥っているのに、仲良くなれない子は後方についたまま中々出てこないのだ。
「いらいらするなぁ」
口癖になってしまった言葉を呟き、ロシアは僅かに目を伏せる。プロイセンは、リトアニアとポーランドに大敗を喫したという。そのとき、リトアニアが数百年間憂慮していた弟分たちの身も解放された。ロシアの影響を一番受けていたエストニアすら、今は彼らと同じ家に住んでいる。リトアニアが、ロシアではなく、プロイセンでもなく、ポーランドを選んだときから、ずっと彼らは戦うことになってしまっているのだ。ロシアは、小さくため息を吐いた。
戦場で馬を駆るリトアニアは、何度かロシアに、戦いたいわけではないと言った。その通りだと、ロシアは思う。ロシアとて、リトアニアと戦いたいわけではない。しかし、彼にとって、ロシアのことを選ばなかったリトアニアがそれを口にするのは、どこか不愉快なことで、どこか悲しいことだった。
数年前、あと少しで、リトアニアを突き崩せそうだったことがある。それなのに、リトアニアが危なくなったと見るや否や、ポーランドは彼を抱き込んで、ロシアのことを突き放した。それまで、彼ら二人は、少々仲が良すぎる程度の連合国家であったけれど、ポーランドはリトアニアをロシアの目の前で、自分のものにしたのだ。ポーランドとリトアニアは連合王国になって、彼らは本当に、一つの国になってしまった。
ロシアは、「戦う」ということが嫌いだ。走るのも、剣を振るのも、相手を屠るのも、どうしたところで好めるはずもないのに、どうして周囲の国々は、自身にそんなことをさせたがるのか、彼は不思議で仕方がなかった。抗わない良い子であれば、ロシアは戦わずにすむ。相手も傷つかずにすむ。それがわからない愚かな子たちばかりで、それがロシアの憂鬱を呼ぶ。
もう一度、彼は口癖をこぼすと、自陣へと馬を向けた。
戦場音楽の調べは、昼を回る前に第一音を発した。ついで、第二奏者、第三奏者が続き、大きな剣戟と矢を射掛ける風の音が混ざり合う。鋼と鋼のぶつかり合う音が空にまで届きそうで、ロシアは朝焼けのようなその瞳を中天に向けた。彼の紫がかった虹彩の先では、不思議なほどに澄んだ晴天が続いている。その中を、白い鳥が一度だけ大きく旋回し、飛び去っていった。雲一つなく、人々の頬を撫でる微風は柔らかく、大地は実りの季節の豊かさを含む。こんなにも素晴らしい日に、血糊の香りに包まれているのが滑稽に思えたが、ふと何か宣託めいたものが彼を包んで、左手から仕掛けられた槍の穂先を弾き返した。
ロシアの強力に飛ばされ、相手は身体を仰け反らせる。そのまま、彼は首筋の隙間から、甲冑の内部へと剣の先を突きたてようとする。しかし、その剣先が他者の白刃によって薙ぎ払われた。大した力ではないので、ロシアが武具を落とすことはなかったが、いらぬ面倒に彼は眉をひそめる。馬上にあって、尚相手の身体は小さい。しかし、愛馬の手綱を繰る姿は手馴れたものだ。ポーランドの騎馬隊が優秀であることを、ロシアは聞いていたが、本人もまた、乗馬は得意であるらしい。
「そこまでだし! うちの団員に剣を振り下ろすなんて百万年早いし!」
宝石めいた緑の双眸が、ロシアを射抜く。ロシアには、何が楽しいのかまったく理解できなかったが、ポーランドは微かに笑って、敵将の姿を見つめていた。軽装といって過言でない姿だったが、ポーランドの体格だと、完全に鎧っては重過ぎるのだろう。自軍の兵士を逃がし、僅かな間合いを取ったまま、彼はロシアと向き合う。ロシアは、僅かな時間その姿を無表情に見つめたが、その次の瞬間には、相手と同じようににこりと笑みを浮かべた。
「こんにちは、君と戦場で会うのは久しぶりだね? 今日は、リトアニアの後ろに隠れなくてもいいのかな?」
ポーランドは、以前からロシアの笑顔を胡散臭いと言って憚らない。であれば、ロシアはことさら笑いかけることに専念するのだが、ポーランドもまた、口元に笑みを浮かべたまま、僅かに目を眇めた。ロシアは、ポーランドのことが嫌いだった。ポーランドとて、ロシアのことが大嫌いなのだ。
「いつもはリトがうるさいから、あいつの我侭聞いてあげてんの」
「前に出るなとか、傍から離れるなとか、マジ細かいし!」。言いながら、ポーランドは肩を竦め、そして馬の首筋を撫でる。ロシアは、微笑を浮かべたまま微動だにしない。
蛮族同士の争いではないのだ。己の国同士の会話を邪魔立てする存在はなく、ただ、ぴりぴりとした相手に向ける嫌悪感だけが漂っていた。馬の嘶きも、人々の猛々しい叫び声も、甲冑が削られる音すらも響く中で、秋の空だけが遠くにあり、丸い。
「リトも、早く俺んこと呼べばよかったんよ」
リトアニアが、ポーランドの本隊を前線にまで呼び出さなければならなかったのは、偏にロシアのためだ。ロシアは、執拗なまでにリトアニアを狙ったから、彼だけがひどい疲労を抱えることになった。リトアニアは、ロシアから逃げずに、いつだってその剣を受け止めたので、国土の疲弊が激しかったのである。
ポーランドは、敵意のある眼差しでロシアのことを見ている。ロシアの見慣れたリトアニアの眼の中にはない色合いだ。リトアニアは、剣を握ったロシアを対峙するとき、その柔らかな顔をいつも厳しいものにしていたが、そこにあるのは嫌悪ではないし、敵意でもなかったらしいと、ロシアは気付いた。
ポーランドは、明らかなロシアに対する悪感情がある。それを隠してもいない。彼は、リトアニアを傷つけたロシアに、怒りをもって向き合っている。そこまで思考が到って、ロシアは疲れたような気分になった。
「……ああ、いらいらするなぁ」
彼は、ポーランドに向け、にこりと笑いかける。相手の馬は染み一つない白馬で、その真っ黒な眼差しも、主人と同じようにロシアにひたりと標準を定めたまま動かなかった。左手に握った剣は重く、身体を守る甲冑は苦しいばかりで、彼はため息を一つ零す。
「君、リトアニアよりずっと弱いでしょう」
ロシアが右足で馬の腹を叩く。合図に、彼の馬が疾走する。防具の少ないポーランドの身体へ、振り下ろされる剣があり、彼は身を屈めると、その切っ先に空を切らせる。
「僕とこうやって戦って、勝てるわけないでしょう」
ロシアの脇をすり抜けたポーランドの馬が、再度、その鼻先を相手へ向ける。刃の細い、薙ぐためのものというよりも刺すための剣を鞘から抜き放ち、ポーランドはロシアの言葉に怪訝な顔をした。右手で手綱を操りながら、争いの場にあって僅かに興奮しているらしい愛馬を落ち着かせる。対して、ロシアの馬はおとなしいものだ。従順で、ロシアの合図をただひたすらに待つ。
「何言っとんの?」
心底、不思議そうな声音でポーランドは言う。むしろ、その言葉を相手に向けたいのはロシアだったのだが、ポーランドは悪意すらも抜け切った顔つきで、ロシアに言葉を投げた。
「俺らは二人なの。二人で一人なの。お前は一人じゃん」
風がやみ、空気が凪ぐ。笑みを浮かべたまま、ロシアはポーランドの唇が動くのを見る。馬鹿な子も、愚かな子も、礼儀を知らない子も、ロシアは嫌いだった。
「そんなん、俺らが負けるわけないじゃん?」
言い終え、ポーランドは馬を走らせる。彼の剣鋒は、ロシアの腕の関節を狙い突き出され、その得物を落とさせようとする。ロシアは、ポーランドが腕を突くよりも早くさっさと剣を捨ててしまうと、手首の内側へと指先を滑らせる。そして、仕込まれていた鉄の針で相手の細い剣先を力任せに払うと、そのまま、ポーランドの馬の後ろ足へ投げつける。
すれ違い様での出来事だ。驚き、バランスを崩した馬が、ほんの一瞬だけ主人の存在を忘れた。背後で小さく聞こえたポーランドの声に、ロシアは後ろ腰へ下げていた刀を抜く。振り返り、しかしそこに、彼は彼にとって、ひどく悲しいものを見た。
「ポーランド!!」
嘶き、主人の細腕では御せ切れなくなった馬の手綱を、強く握る左腕がある。彼の左手は、自身の手綱と相手の手綱の両方を繰り、落馬しかけたポーランドの背を右腕が支えていた。リトアニアは、彼自身の馬を相手のものと並走させながら、傷を負ったことで混乱している白馬の暴走を諌める。
リトアニアの声に、ポーランドの顔は輝く。戦場とも思えない声色で、彼の名前を呼ぶ。それに対して、リトアニアの言葉は、硬いというよりも揺れている。
「もう、どうしてポーランドはすぐに前線に出るの?!」
「だって、前線に出ないとこいついないじゃん」
「すっごく探したんだよ? もう……、もう」
ロシアを指差し、まるで話を聞かない素振りのポーランドを、リトアニアは僅かに疲弊したような風情で見つめる。しかし、すぐにため息を吐くと、諦観の域に達したのか「間に合ってよかったよ」と零した。
リトアニアは、流暢なポーランド語を話していた。ロシアは、それを見つめ、それを聞き、僅かに顔を歪ませた。彼が、どんなにおかしなロシア語を語ったところで、ロシアは微笑みながら見つめられただろうが、まるで自国の言葉のようにポーランドの言語で喉を震わせる彼は、ロシアにとって見るに耐えなく思えた。
彼は、ただリトアニアのことを見ているロシアを見返す。ポーランドの傍に馬を寄せ、そしてやはり、ロシアの見慣れた強張った表情で、敵将の姿を見ている。
「お願いです」
彼の唇が、リトアニア語を語る。しかし、彼はその言語よりも、もうずっと、ポーランドの言葉を繰る方が多いのだろうとロシアは思った。それは想像だったが、ひどく不愉快な代物だったので、彼はあからさまに眉をひそめた。その表情に何を見たのか、リトアニアは、さらに言葉を重ねる。
「お願いです。ロシアさん、退いてください」
幾度となく、刃を交し合う中でロシアが聞いた言葉だった。
それは彼にとって、まったく真意の読めない台詞だ。ロシアは、リトアニアの眼差しの中を覗き込もうと努めたが、相手の馬は遠く、彼自身から離れていた。ポーランドの白馬は怪我を負っているので、リトアニアは、まず友人の傍から離れないだろう。
「あなたも、これ以上の長期戦は難しいでしょう?」
たとえ夏であっとしても、リトアニアが持つような、伸びやかで、そして穏やかな緑を、ロシアの土地では眺めることなどできない。その双眸には、嫌悪はなく、悪意もなく、敵意すらない。
「お願いです、退いてください」
ふと、ロシアは思った。リトアニアの声には、なぜかいつも、彼こそがロシアに乞うている音があった。望んでいるのはロシアの側であるのに、対するはずのリトアニアにも、何かを希う儚さがあった。思い至ればそれは不可解で、ロシアは胡乱な眼差しをする。その歪んだ相貌に、リトアニアの言葉は、さらに悲壮さを増す。
「……どうして、君のほうが懇願するの」
ロシアが尋ねると、リトアニアは僅かに不思議そうな顔をした。しかし、ロシアとて意味がわからないのだ。
「どうして、君のほうが困っている顔をするの」
ロシアは、ただリトアニアとならば仲良くなれると、そう思っただけだったのだ。悲しいのはロシアのはずで、苦しいのはロシアのはずで、そうであれば、なぜリトアニアの面立ちが愁眉に曇るのか、彼にはわからなかった。
「僕は、君と仲良くしたかっただけだよ」
「俺も、あなたと、仲良くしたいだけです」
芳しい風が吹く。それはポーランドの金髪を揺らし、リトアニアは、そんな彼の乱れた後ろ髪を優しく撫でた。その指先の動きに、ポーランドは何の違和感もないようで、ただ、小さく文句を零す。それをリトアニアが諭すように宥める。ロシアは、もう一度だけ、囁くように言う。
「君と、仲良くなりたかった」
リヴォニアの土地を渡る季節は、秋を深めようとしていた。冬が訪れるにはまだ遠く、春も夏も、すでに過ぎてしまっていた。
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