お題ログ 「理想郷」
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進藤ヒカルは完成された世界を知っている。
人々が、慎ましやかな祈りや貪欲なまでの希求に身を呈し、そして得られなかった至上の美しい世界で、そこの甘やかな空気を吸い、溢れ出る清水で喉を潤し、無邪気に笑む、そんな無知を、宙に酷似したどうしようもない何かに進藤ヒカルは許されている。
しかし、ある時彼はそこから突き落とされた。
女の刺繍糸が、ぴっと律され突如切れるように、または、暖かな室内の温度に上着をするすると脱ぎ捨てるように。
その衝撃は彼にしてみれば唐突にして確かに無遠慮極まりなく、未だ幼かった進藤ヒカルを喰い殺す獰猛な犬畜生だった。
彼は強奪されたその世界を取り戻そうと躍起になった。母を求める子の様に幾度も幾度も彼の名を呼んだ。虚空に向かい名を呼んだ。柔らかな無が返事をした。
結局のところ、進藤ヒカルは離別を認識した。その過程にどれ程恋しさを残していたとしても、彼は非情な無空間に頷き目を伏せ、そしてうっすらと瞼を上げると、瞳を煌めかせた。
進藤ヒカルは完成された世界を知っている。
それがどれほど素晴らしく、無垢によがった世界であったのかも、今の進藤ヒカルは知っている。悲嘆が欲した理想は最早得られるものではなく、そしてすでに歩み出した彼は、あの空気も、水も、浮かべた笑みも、忘れているかもしれなかった。
それでも、彼の欲したものは一度は彼が手にした理想だったのだ。
欲したものは、確かに彼が手にしていた慕った理想だけだった。
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