笑顔なんて綺麗なものじゃなく
Copyright 2008- (C) Uoko All rights reserved.


 ミロがシベリアの地に近付いていることを、カミュは小宇宙という不可思議な力によってもちろん認識していたはずだった。だからこそ、ミロが、彼と彼の弟子が住む家の扉をノックしたときも、カミュはまったく損なわれない冷静さで応対した。ミロにとって幸運だったのは、カミュが氷河を買い出しにやって人払いを済ませていたことにあった。ミロの用向きは、決してやましいことではなかった。しかし、氷河に見聞きさせるには、やはり酷だった。
 カミュは、唐突なミロの来訪に対して当初僅かに不穏を感じた。だが、彼が迎え入れたミロの片手には白い花があり、それがカミュを混乱させた。
「ミロ、こたびは一体どうしたというのだ?」
 カミュは思わずといった風情で問い掛け、次にそこがまだ玄関だということに気付いた。謝罪を口にし、しかしミロも突然の訪問を詫びたものだから、二人は奇妙な空気を作り出す羽目になった。しかし、それが居心地悪くならないのは彼らが親しいからだ。ミロは気恥ずかしげに笑い、カミュも微苦笑を返した。
「いや、オレ自身まだ迷っている。今回はとても個人的だ」
「……珍しいな?」
「そうかもしれん」
 ミロは席に着く。そして、淹れられたばかりの紅茶を一口含んだ。
 カップは武骨だった。そのことは、ミロにここが修行地なのだと知らしめた。
 カミュは、窓の外を見ている。ゆっくりとミロの準備を待っている。それを見止め、ミロは結局、自分自身で勝手に重くしていた口を開いた。そのタイミングを心得たように、カミュも視線で促す。
 ミロは所在無げにある白い花に、ちらりと目をやった。木製の机の端で、その花弁は弱々しい。
「アイザックに」
 ミロは彼の親友から眼差しをそらさずに言うことを努める。とてもデリケートな話題だと彼も理解していたし、元々の気性も、ミロにそうあれと促していた。
「アイザックに花を贈りに来た。お前の弟子には、不似合いかもしれないが」
 そのまま、ミロは口を閉ざした。そして、去年の今日、カミュの身を千々に引き裂いただろう悔恨や慟哭を思い、早まったかもしれないと少しの後ろめたさを抱いた。
 カミュもまた沈黙した。彼がミロから視線を外したのは、自身の両眼に乗っている色を、カミュ本人、測れなかったからだった。先ほどミロが僅かに見やった花を、彼は凝視した。ミロの行為は、カミュの心に無遠慮に触れたようであり、もしくは、彼にすがりついて涙することを望むほど優しいものでもあった。
 アイザックの死は、未だ定かでないのが当面の事実だった。しかし、その事実が積み重なった結果は醜悪だ。それはカミュ自身が一番心得ていることであり、ミロがその闊達な口を鈍重にした理由でもあった。
「……宮を留守にして、よかったのか」
 沈黙という水面に投げ込まれたのは、あまり洗練された礫ではなかった。カミュの口から滑り落ちたのは、比較的現実的な懸念だった。それを受け、ミロは目を見張り、数瞬のためらいを自身に許した。それは、ミロが褒められないことをしたのだと、如実に語っていた。嘘を吐けない気性だと、カミュは小さく笑う。
「迷惑だったか」
「そんなわけがない」
「いや、正直に言ってくれカミュ。俺は気が利かない。だが、そのことでお前に嫌われたくない」
 隠さないミロの直接的な言葉に、カミュがひくりと、カップを持っていた指を震わせた。
「気分を害したなら怒ってくれ。そして出来れば、許してもらえればと、思う」
 言い終え、ミロは緊張の面持ちをカミュに向けた。
 カミュは、ミロの好意に、まさしく感極まるようだった。カミュは息を止め、涙の衝動を堪える他なかった。彼の受けた暴力をミロが全てさらったように、カミュの中には単純な悲哀と喜びだけ残った。ただ、カミュはアイザックの喪失が悲しかったし、ただ、ミロの気遣いが骨身に染みるようだった。
 来年のこの日も、再来年のこの日も、カミュは、先のミロの台詞だけで永遠生き長らえるだろう。
「そんなわけがない」
 カミュは花束を引き寄せ、その柔らかな感触に触れた。
「そんなわけがない」
 ミロは一つ息を吐いた。安堵の息だ。彼らは見合い、そして多分互いに笑おうとした。
 結局、それは二人とも失敗した表情になった。それでも、その空間は息苦しさなど欠片もないのだ。

 で、アイザック追悼染みた話。ホントはこの時点だと死んでないけどね。


|||| AD ||||