耳元で鼻をすする音がする。ベッドの上で背中から圧し掛かるようにして抱きしめられてから早三十分。触れる体温は暖かいのだがいい加減重たいしこの体勢にも疲れてきた。刹那は読みかけの本を閉じると、肩口に埋められた頭に手を伸ばす。

「いつまで泣いている、アレルヤ・ハプティズム」
「痛っ!」

無造作に髪を一束掴んで引っ張ればアレルヤが毛根の痛みに叫んだ。刹那としては少しでも離れてくれればすぐに止めるつもりだったのだが、アレルヤの腕が体に巻きついたまま離れない。仕方がないので続行することにした。

「やめて刹那痛い!」
「ならばいい加減に離れろ」
「ちょっとくらい良いじゃないか!」
「・・・・・・」
「ごめんなさい離れますだから放してー!」

更に力を込めて引っ張れば流石に危機を感じ取ったのかアレルヤは刹那と密着していた体に隙間を作る。そこでようやく刹那は髪を解放した。

「うう、酷いよ刹那・・・・・・」
「アンタが悪い」

アレルヤはひりひりする頭部を押さえ涙目で訴えるが効果はなかった。刹那はフンと鼻を鳴らしてアレルヤから距離をとる。図体ばかりが大きくて、その実この男の内面は非常に繊細だった。
刹那は若干面倒だと思いつつもアレルヤに向き直る。本来こういう役目はロックオンが適任だとクルー全員分かっているはずなのだが、アレルヤだけはいつも刹那の元にやってきた。邪険にできないのはきっとそのせいだ。

「何があった」
「あのね、スメラギさんにマルチーズの乗船許可をお願いしたんだけど・・・・・・駄目だって言われちゃった」

当たり前だろう、という言葉を刹那はなんとか飲み込んだ。
おおよそ女性的な外見とはかけ離れているアレルヤが愛してやまない犬、マルチーズ。見たこともないしどんな犬かは知らないが、アレルヤがそれを好いているのだけは覚えている。

「マルチーズ・・・・・・」

大の大人(といっても先日成人したばかりだが刹那から見れば充分に大人だった)が眦を下げてめそめそ泣いていた理由がマルチーズ。ティエリアではないがガンダムマイスターとして疑問を持たざるを得ない。

「もしかして見たことなかった?」

刹那のなんとも言えない表情がマルチーズを知らない故のものだと解釈したアレルヤは、うって変わっていきいきと話し出した。

「犬の種類でね、頭の上で毛を束ねてるんだ。凄い可愛いんだよ」
「束ねる・・・・・・こうか?」

そもそも犬というものに余り触れ合ったことがない。刹那は頭の中にマルチーズをイメージできず、実際に自分の前髪を掴み上げてみた。直後に鏡が見当たらないことに気付いた刹那は、アレルヤに向かって己のイメージが正しいか目で問う。
それが間違いだった。

「せっ・・・・・・!」

アレルヤの目が異常に輝きだした。わなわな震える拳を胸の前に持っていく仕草はクリスティナがよくやるそれで、この男の雰囲気となぜか合っているのが不思議でならない。
どうしたことかと刹那が手の力を緩めた瞬間、アレルヤの目がかっと見開かれる。

「刹那! ちょっと待ってて! そのまま、そのままだよ!」

アレルヤが突然バタバタと部屋から出て行ってしまい、刹那は開きっぱなしの扉を呆然と見つめる。そのままと言われたからには動く訳にもいかず、額を晒したまま大人しく待った。
やがて慌しい音が廊下から響いて、自動で閉まりかけた扉にアレルヤの手がかかった。三分もしないで戻ってきた彼の手には赤いリボンのヘアゴムと櫛。

「ただいま!」
「・・・・・・それはなんだ」
「あ、これ? クリスに借りてきたんだ」

可愛いよねえと目を細めながらアレルヤはいそいそとベッドの上に上がってくる。律儀に前髪を持ち上げたまま刹那は体を引いた。嫌な予感に従ったささやかな抵抗だったが、アレルヤの笑みが眼前に迫ってくるので観念する以外に道はなかった。
無骨な手が存外器用に櫛を操って刹那の前髪を整える。座高の違いもあって視界はアレルヤの立派な胸板で占められていた。いくら鍛えてもこんな風にはならなくて、刹那は髪をいじられてることも忘れてその筋肉にじっと見入った。

「これをこうして・・・・・・っと、できた!」

頭の上から聞こえてきた鼻歌が止んだ。アレルヤは満足そうな顔で離れていき、ポケットから掌サイズの折り畳み式手鏡を取り出す。それもクリスティナに借りてきたのかとは流石に聞けなかった。もし否定されたらアレルヤ・ハプティズムに対する認識を全面的に改めなければならない。
鏡の中には、赤いリボンで結ばれた前髪が上を向いてふよふよ揺れている間抜けな自分の顔が映っている。

「可愛い! 可愛いよ刹那、マルチーズそっくり!」
「・・・・・・そうか」

犬にそっくりと言われて喜ぶ人間が果たして世界中に何人いるだろうか。
刹那の気持ちなど知りもしないで、アレルヤは携帯端末でひたすら写真を撮り続けていた。