ふわりとセーラー服のカーラーが揺れる。小走りで掛けていく信乃の胸は弾んでいた。息切ればかりではない。心躍る出来事が家で待っているのだ。
逸る気持ちの中で別れ際の拗ねた荒谷の顔がちらついた。随分前から決めていた遊びに行く約束を土壇場で反故にしてしまったのは信乃だ。元々大人びた性格の荒谷だったから、謝って頼み込めば渋々とだが了承してくれた。数年来の友人はこういうとき事情を知っているのでありがたい。
やがて見えてきた自宅の屋根に、地面を蹴り出す足にひときわ力が入る。スピードを殺さぬまま門をくぐって玄関を開けた。ここ最近はなかった両親の靴が並んでいるのを見て予感は確信へ変わる。脱いだ靴を揃えるのもそこそこに信乃は居間へ飛び込んで、ソファで寛いでいた兄の胸に抱きついた。

「おかえりシグナル!」

驚いたであろうに、それでもしっかりと信乃の体を抱きとめてくれたシグナルに心が温かくなる。嬉しくなって胸に頬をすり寄せるとあちこちから苦笑する気配が伝わってきたが、構わない。一ヶ月ぶりの再会を喜んだっていいはずだ。

「元気だなー、ただいま。信乃もおかえり」
「えへへ、ただいま」

顔を上げれば座っているため同じ高さになったシグナルと視線が合わさる。きらきら輝く紫の瞳は初めて出会った頃から変わらない。口角が上がるのを抑えられないでいると、何笑ってるんだと額を軽くぶつけられた。

「信乃ー、父さん達にただいまはないのかい?」
「あ、忘れてた」

向かいのソファでみのると共に愛しの我が子の帰りを待ち望んでいた正信は、信乃の一言に大きく肩を落とした。一月も日本を離れ仕事に勤しんでやっと帰ってこれたと思ったらこの仕打ち!
信乃にしてみれば幼い頃から散々留学だ出張だと飛び回っていたくせに今更なんだと言いたい所だった。しかし、それでも大好きな両親だし傍にいてくれたら嬉しい。シグナルの膝の上から降りた信乃は、正信とみのるの間に座った。

「うそうそ。おかえりなさい、父さん母さん」

にっこり笑顔をおまけにつければ、正信の目元がでれんと緩む。厳しい所もあるが基本的に信乃のことを溺愛しているのだ。あっという間に立ち直った正信は愛娘を抱きしめようと大きく腕を開いた。

「ただいまー信乃! ちゃんと食べてた?」
「もー、母さんってばそればっかり。っていうか苦しい苦しいギブギブ!」

自分がしようとした光景をそのすぐ隣で繰り広げられて正信は動きを止めた。親馬鹿であると同時に愛妻家でもある。いかに正信であろうともみのると信乃の邪魔をすることはできなかった。
その光景を見ていたオラトリオがブッと噴出して口元を押さえた。並んで座っていたパルスが即座に立ち上がる。正信の眼鏡が怪しく光った時は逃げるのが第一だ。光ってなくとも危険なのだが。

「くっく、残念だったなあ正信」
「・・・・・・父さん、オラトリオのメンテは僕が引き受けますよ」
「おー怖っ! 助けて信乃ちゃーん、正信に苛められちまうー」

わざとらしく高い声で叫ぶオラトリオに目をやって信乃はしょうがないなあと肩を竦める。今回の出張では正信とみのるの他に、オラトリオとシグナルも同行していた。旅から帰ってきたばかりで改造魔神と恐れられる父に苛められるのは余りにも可哀想だった。

「帰ってきたばっかりなんだから今日は許してあげてよ、父さん」
「そーそー・・・・・・ん? 今日は?」
「明日のお楽しみってことで」
「げっ」

口元を引きつらせるオラトリオとは対照的に正信は至極楽しそうに信乃の頭を撫でてやる。

「賢い賢い。流石は僕の子だ」
「顔はみのるさんに似て可愛いのに、性格が正信そっくりなんて可哀想に・・・・・・」
「オラトリオはよっぽど明日のメンテが嬉しいようだね」
「ああっ、タンマ! 今のなし!」

やたらと騒がしい再会を横目に一人コーヒーを飲んでいたクリスの視界に桜色の羽が広がったのが見えた。あ、と思う間もなく鋭い鉤爪がオラトリオの頭に突き刺さる。

「じゃあかしい! 少し黙っとれ!」

コードに叱責され、オラトリオは二メートルを越す巨体を折り曲げていじけた。その背中に追い討ちをかけるかのように何度もゲシゲシと蹴りを入れる姿は音井家の男性メンバーなら一度は経験のあることで、その恐怖に一同は体を震わせた。
フン、と大きく鼻を鳴らしたコードはオラトリオの背中に乗ったままくるりと首を曲げる。

「信乃、いつまで制服でいる気だ。先に着替えてこい」
「わかったー。あんまり苛めないであげてね、コード」

スカートの裾を翻して信乃が自室へ向かうと部屋の中が一時だけ静まり返る。嵐が過ぎ去ったようで、しかしそれは信乃ではない。

「ところでシグナル。お前どうして電話の一つもしなかった」

ぎろりとコードの鋭い目に睨まれてシグナルは肩を震わせる。オラトリオの件でコードの機嫌は悪い。信乃を部屋から出したのもこれから起こることを余り見せたくないためだろう。

「どうして・・・・・・って、忙しくて」
「阿呆! 貴様はそれでも信乃の兄か! あいつがどれだけ寂しがったと思ってる!」
「あたたたたた! ゴメンごめんなさい!」
「俺様じゃなく信乃に言え!」

すっかりシスコンの代名詞となったコードは信乃も妹として認識している。元々みのるの子であるし、赤ん坊の頃から知っているのだ。妹センサーに引っかからない方がおかしい。
頭を鉤爪で鷲掴みにされる痛みにシグナルは部屋の中をあちこち走り回るが、誰も助けようとはしなかった。特にこの一ヶ月を音井家で過ごした面子は信乃の落ち込みようを見てきただけに尚更だった。
信乃にとってこれほど長い間シグナルと離れていたのは初めてのことだった。絶対に帰ってくるとは分かっていても、空白の時間はやはり怖かったのだろう。時折目を腫らして起きてくることがあった。
かといって連絡しろと裏で助言したとなれば正直者のシグナルのことだ、絶対に不自然な態度になってしまう。それでは信乃が喜ばないだろう。だから、いくら鈍感な彼でも妹へ便りの一つや二つ出すだろうと信じていた結果が、これだ。

「あれ、コードとシグナル遊んでるの? 混ぜて混ぜてー」

ラフな格好に着替えた信乃がパタパタ駆け寄ってくると、コードは最後にシグナルの頭を蹴り付けて彼女の肩に移動した。衣服を隔てているとはいえ華奢な体を傷つけないようそっと降り立つ。

「信乃さ、あの、その・・・・・・」
「ん、どうしたの?」

目の前に座り込んだ信乃が首を傾げる。髪質は父親譲りなのか細い黒髪がさらりと揺れた。中々言い出せないでいるとコードからの視線が突き刺さった。

「連絡しなくてごめんな、寂しかっただろ」
「すっごい寂しかった」
「う。ご、ごめん・・・・・・」

ぷう、と頬を膨らます様子は可愛らしいが、シグナルはしゅんと項垂れた。しかしシグナルとて気に掛けていなかった訳ではない。走り回る日々の中でふと頭に浮かんでくるのはいつだって信乃のことだった。ちびにならないことに安堵しつつも、あのクシャミが聞こえてこないのは不思議な感じだった。
この一ヶ月、ダイブしたオラトリオの体を護衛したり、時には一緒に電脳空間へ降り立って<ORACLE>の手伝いもした。日がなシンクタンク・アトランダム関係者の元へ正式な挨拶回りをしたりと息つく間もなかったのは事実だが、それでも信乃に連絡をいれられない程ではなかった。
しょんぼりするシグナルはまるで耳の垂れた犬のようで、信乃はそっと手を伸ばして頬に触れる。きょとんとするシグナルが可笑しくて少し笑ってしまった。

「私からだって連絡できたし。あいこ、ね」

見る間に表情を明るくしたシグナルと信乃がお互いがいなかった間の出来事を話し合い始めたのに、オラトリオを始めとする面々がちょっかいをかけるのを見て信之介は溜め息をついた。

「全く、こいつらはいつになっても騒がしいのお・・・・・・」

ほんの数年前まで静かに隠居暮らしをしていた信之介にとって家族が増えるのは喜ばしいことなのだが、それ以上に悩みの種が振って沸いてくるので頭が痛い。一人暮らししていた頃が遠い昔のようだった。
とはいえ、たった一人の孫娘が可愛くないはずはない。信乃が楽しそうにしてるならばそれが一番だ。

「それはしょうがないよー」
「なんじゃハーモニー」
「みんな末っ子が大好きなんだもん」

空中で寝転がるハーモニーは目の前の騒ぎを愛しそうに見つめていた。