「う、わあああああ!!」

音井ブランドの最新型は基本騒がしい。それまで団欒していた面々は顔を見合わせ、代表してオラトリオがすっと立ち上がった。愚弟の躾は長兄の役目。
そのまま居間の入り口の横に張り付いて片腕を水平にすっと伸ばす。近づいてくる声の大きさとその距離を、世界最高水準の演算装置で割り出して体勢を整えた。目標前方左手より急接近中。
三、二、一。

「こら、近所迷惑だぞー」
「ぐっ!?」

案の定飛び込んできたシグナルの首にオラトリオの腕が食い込んだ。そのまま背後を取って締め上げるとシグナルの足が宙に浮く。鮮やかな手際にクリスが静かに拍手した。
シグナルとて背が低い訳ではない。オラトリオが規格外に高かっただけだ。その大柄な彼に捕まったのでは逃げることは到底困難である。

「良い子のシグナル君はー、今が何時だか分かるのかなー」

わざとらしく間延びした言い方の中にも若干の苛立ちが見て取れる。笑顔ではあるものの額には血管が薄く浮き出て、自然腕に力がこもる。シグナルの意識が飛びかけた。

「その辺にしておけ、オラトリオ」
「へーい」

師匠と崇めるコードの制止にオラトリオがパッと腕を放せばシグナルの体が床に落ちる。尾てい骨に響く痛みと酸欠とで目を回しているシグナルは、よく見ればいつものジャケットを着ていない。アタッチメントも外した状態で、おまけにところどころ濡れている。髪に至っては泡だらけだ。

「あらシグナル君、シャワーでも浴びてたの?」

引き出しからタオルを取り出して、髪を拭いてやろうとみのるが近づく前に廊下をパタパタ駆けてくる足音が聴こえてきた。体重的な意味で、この家出こんなに軽い足取りであるけるのは信乃だけだ。やがて現れるであろう方向に皆が視線を注ぐ中、シグナルだけがわたわたと慌てていた。

「母さーん、シグナルこっちに来なかったー?」

ぽたりと雫が落ちる。
ひょこっと顔を出した信乃の髪はしっとりしていて、全身からはほこほこと湯気が立ち上っている。いつもは下ろしている黒髪をアップに、細い肢体を覆っているのは薄く白いタオル一枚のみで、頬は淡く色づいていた。あられもないその姿に正信が飲んでいたコーヒーを気管に入れて盛大に咽る。
風呂上りスタイルでキョロキョロしていた信乃は怯えて縮こまるシグナルを見つけると、気にすることなく近寄った。歩く度にタオルの隙間から白い足が覗いて、思わずオラトリオは口笛を吹く。

「いたいた。もー、駄目じゃんシグナル」
「わー! わー! こ、こっち来るんじゃない信乃!」
「何言ってんのさ。そんな泡だらけでどうするの」

何の衒いもなく腕を引っ張ろうとする信乃はこの状況を分かっていない。手足をばたばたさせて何とか逃げようと抵抗してみるものの、もしタオルに手が当たって・・・なんてことになったらシグナルは日の出を拝めないだろう。かといってこのまま風呂場に連行されてもそれはそれで困る。

「一体何の騒ぎだ」
「いやー、ちびとお風呂入ってるときにクシャミしちゃって」

寝起きでシバシバする目を擦りながらパルスが問うのに信乃はさらっと答えた。一瞬にして部屋の空気が凍った中で信乃だけがぷりぷり怒る。

「シグナルってばお風呂の途中で逃げ出さないでよー」
「だあああ! 僕をお風呂にいれるなー!」
「だってちびが汚れてたんだもん」
「だったらせめてクシャミ禁止!」
「どうして?」
「どうしてって・・・・・・」

説明しようと口を開くものの、なんていったらいいか言葉が出てこない。散々意味をなさない呻き声を挙げた挙句、シグナルはしどろもどろに訴える。

「あのな、昔はともかく信乃はもう中学生なんだから僕と一緒に入っちゃいけないの」
「兄妹なんだからいいじゃん」
「それはそうだけど・・・・・・。と、とにかく駄目なものは駄目!」
「えー」

口をへの字に曲げる信乃はまだシグナルの腕を離さない。唇を尖らせて拗ねる信乃は下手なことじゃ納得してくれないことは分かっている。見かねたコードがシグナルの頭の上に止まって説得を始めた。

「いいか信乃。いくらシグナルが兄でロボットとはいえ男の前では慎みを持て」
「家族なんだから別に気にしないのに」
「駄目だ」

ばっさり切り捨てられて信乃は益々頬を膨らませる。コードの言うことは今まで間違ったことがないが、こうも駄目の一点張りが続くと不満だけが募る。

「まーまー、師匠もシグナルも。そこまで目くじら立てなくてもいいじゃないですか」

それまで傍観していたオラトリオがつつつっと近づいてきて信乃の華奢な肩に腕を回す。やっと賛同者が出てきた嬉しさに信乃の顔がぱっと明るくなった。

「こういうのは段々自覚してくもんですって。本人がまだいいって言うんなら、もうちょい一緒に入ってやりましょうよ」
「さっすがオラトリオ! 話わかるー」
「はっはっは、任せなさーい」

ビシっとVサインを決めた後、オラトリオは腕を下ろして信乃の腰に回していく。くびれを撫ぜるとくすぐったいのか信乃は笑いながら身を捩った。

「んじゃあシグナルは入りたくないそうだからお兄さんと・・・・・・」
「オーラートーリーオー?」

シグナルを始め、コードに正信、パルスからまで冷たい視線を送られてオラトリオは両手を挙げて離れていく。折角手に入れた賛成もなかったことにされてしまい、信乃は肩を落とした。

「ったく、どうしようもない男共ねー」
「クリスねーちゃんも反対派?」
「あったりまえじゃない。男はみんな狼なんだから!」

信乃の鼻先に指を突きつけてクリスは叫ぶ。ぱちぱちと信乃は目を丸くするが、意味が分からない訳ではない。

「狼って・・・・・・シグナルはロボットだよ」
「ロボットでも男は男でしょ」
「えー、じゃあコードも?」
「そーよ」
「んな?!」

否定しようとコードが翼を広げた瞬間、オラトリオがその体を抱え込んだ。空を切れなかった翼がばさりと音を立てる。

「離せオラトリオ!」
「師匠、ここは信乃のためにぐっと堪えて!」
「ぐっ・・・・・・!」

信乃のためと言われれば引かない訳にはいかないコードであるが、はいそうですと素直に認められるほど彼のプライドは低くない。可愛い姪っ子と己の自尊心を秤にかけるそのジレンマをオラトリオはひっそり笑った。

「じゃあ一人で入ってくる」

その甲斐あってかようやく納得した信乃は立ち上がった。離れていく腕にほっとする反面、妙に残念な気持ちもシグナルの中に残る。
これでまた一つ信乃の情操教育が終わったことに一同が胸を撫で下ろしかけたところ、風呂場に戻ろうとしていた信乃の足がぴたりと止まる。長いことタオル一枚でいたせいだろう、すっかり湯冷めしてしまった体がぶるりと大きく震えた。

「っくしゅん!」

ぼふんとお馴染みの変身を遂げたシグナルは、一目散に信乃の足元に駆け寄る。

「わーい、お風呂の続きですー」
「ちびならいいかなー」
「大きい君はだめなんですか?」
「駄目なんだって」
「可哀想ですねー」

腕の中に抱き上げられたちびは鼻歌交じりに廊下の奥へ消えていった。パタンと閉まった扉の音がやけに大きく響く。



「だから僕のせいじゃないのに!!」
「どっちもお前だ! 覚悟せんか!」

恐らくちびに他意はなかったのだろう。しかし最後の一言のせいで暫くの間コードには執拗に蹴られ、オラトリオにからかわれ、パルスから冷たい視線を投げかけられ、正信がメンテを担当することになったという。