雨に気付いたのはみのるだった。
鼻の上に雨粒が落ちてきたのは洗濯物を取り込む最中のことで、空を見上げるといつの間にか黒い雲が一面を覆っていた。これはいけないと、全て家の中に慌てて避難させた直後に勢いを増してきた。みのるはベランダの窓を閉めてようやく一息つく。体にかかってしまった水滴を払いながら、朝に出かけていった娘のことを思い出した。

「みのるさん、大丈夫ですか」
「あらシグナル君。気が利くわねー」

タオルを差し出すシグナルに礼を言って受け取ると、みのるはじっとその顔を見つめた。正信の少年時代をモデルにしているだけあって、信乃と似てないこともない。人には有らざる瞳と髪の色を除けば、兄妹といっても通じるはずだ。
そうだ、あの子は持っていかなかった。

「あの・・・・・・? 僕の顔に何かついてます?」
「ううん、違うのよ。ごめんね」

ちらりとみのるが外に目を向けたのを見て、シグナルは合点がいく。

「ああ、信乃って傘持って行きませんでしたよね」
「そうなのよー。帰るまでに止めばいいんだけど、この調子じゃ当分無理そうだし」
「僕迎えに行ってきます。この時間ならまだ授業中でしょうし」
「本当? 助かるわ。シグナル君いい子ねー」

にこにことしたみのるに褒められると何だかこそばゆい想いに駆られる。照れ臭さだけではなく、信乃の顔とだぶって見えるからだということはとうに気付いていた。
恐らくみのるも分かっているのだろう。分かっていて尚、笑っていられるのだから恐ろしい。これが正信であったのならあらゆる手を使って妨害されていただろうか。
恥ずかしさから逃げ出すようにシグナルはリビングを出た。手早くアタッチメントを外して着替え、外行き用の靴に履き替えながら傘立てから二本抜き取る。自分用の大きい傘と、それより華奢な造りの傘。淡い色合いは信乃が気に入って揃いで買ったものだった。
天気の良い日が続いて中々使う機会に恵まれなかったが、漸く並んで歩けるのだと思うと梅雨の憂鬱さなど吹き飛んでしまう。

「やだー、シグナル君ってばニヤニヤ笑っちゃってエッチー」
「うわあ!」

後ろから耳元で囁かれ、シグナルの首筋がぶわっと粟立つ。耳を押さえて振り返りながら後ずさるという器用な芸当をすると、何が可笑しかったのかオラトリオがけたけた笑った。

「あれま、図星?」
「んな訳あるか! くそばかオラトリオ!!」
「まっ、お兄様に向かって」

わざとらしい口調は変に裏返っていて気持ち悪い。耳の奥にさっきのがまだ残っているのもあって鳥肌が立った。

「俺は悲しいぞー。こんな風に育てた覚えはない!」
「育てられた覚えもない!」
「いいからさっさと行ってこんか!」

オラトリオのからかいに本気で反論するシグナルの頭に、騒ぎを聞きつけて飛んできたコードの鉤爪がさくっと刺さる。途端に怒号は悲鳴に変わった。

「信乃が風邪を引いたら貴様のせいだからな!」
「そんな理不尽な!」

傘を差す暇もなく蹴り出されたシグナルの背にオラトリオが呼びかける。

「シグナル!」
「今度は何だよっ」

やけになったように振り返ったシグナルの目に、珍しく口元を引き結んだ厳しい表情のオラトリオが飛び込んでくる。オラクルを守る時のそれに似ていた。

「抜かるなよ」
「・・・・・・分かってる」

たった一言だけ交わして、シグナルは雨の中を歩いていった。開け放たれたままの扉を閉めに立ち上がったオラトリオは苦く笑う。多少過保護気味ではあるが、放っておけない心の狭さが可笑しくもあった。
普段とは違う様子のオラトリオを訝しげに思いながらもコードはその肩にとまる。

「一体何の話だ」
「いやいや。俺らも大概大人気ないなーって」
「・・・・・・信乃か。あのひよっこに任せて大丈夫なんだろうな」
「駄目だったらそれまでの奴ってことですよ」

一見すると冷たくも取れる言葉は、それだけ信乃がオラトリオの比重を占めていることに他ならない。彼は守ると決めたら使える手は使い切る。例えそれが同じ製作者の元に生まれた弟であろうと、近しい人間であろうとも。守るという目的を遂行するためならば、己がどう思われようと構わない、それがオラトリオだった。事実、Dr.クエーサーの件では信乃すらいいように利用した。
ただ、彼の誤算は信乃がそれを咎めなかったことだ。それどころかシグナルを助けられたと礼すら言ってきたのには、流石のオラトリオも言葉を失くした。

(あれは見物だった)

思えばそれからだろう、オラトリオが信乃を本当の意味で気に掛けるようになったのは。

「なーに笑ってんですか師匠」
「もし何かあったらお前も同罪だ、と思ってな」
「げっ、マジですか!」
「覚悟しておけ」