ぐらりと体が揺れた瞬間、咄嗟に腕が出たのは褒めてもらいたい。
隣で歩いていた伊作が道の出っ張りに足を取られたのが視界の端に映った。頭で考えるより先に動けたし、ちゃんと伊作の体も抱きとめられた。
そこまではよかったのに。

「ぐっ・・・・・・!」

ごつんと骨の当たる音が脳に響く。慌てふためいた伊作の肘が食満の額に直撃したのだった。仰け反りかけたが何とか踏ん張る。
頑張れ俺。不運なんか吹き飛ばせ。

「うわっ、ご、ごめん」
「・・・・・・いや、いい。それよりも・・・」

腕にしがみついてきた伊作を放して痛む額を抑える。まだぐわんぐわん揺れているが歩けないほどではない。数秒閉ざしていた目蓋を開ければ心配そうに覗き込む伊作の顔が飛び込んできた。近い。
恐らくは赤くなってる箇所を調べようと更に寄せてくる顔を片手で押しのけ、食満は眉を吊り上げる。

「六年ともあろう者が転ぶな、慌てるな、受身ぐらい取れ」
「いやー、ついうっかり」
「うっかりで済ますんじゃない!」

きっと睨んでもどこ吹く風で、今度はまあまあと宥めてくる。誰のせいだ、誰の。
別な意味で痛くなってきた頭に気付かない振りをして食満は歩くのを再開した。伊作の不運に付き合っていたら日が暮れても街まで辿り着かない。せっかく学園長からのお使いという大義名分があるというのに!
分かっているのかいないのか、相変わらずへらへら笑う伊作が大人しく後ろに続くのを気配で感じてこっそり胸を撫で下ろす。昔からちょっとでも目を離すと必ず何かしら不運に見舞われていたのを思い出した。そう、酷いときは肥溜めに片足を突っ込んでいたのだった。ふと思い出して振り返る。

「おい、伊作。お前は俺の横を・・・・・・」
「留三郎―」

横を歩けと言いたかった。遅かった。
流石に肥溜めではないが、用水路に落ちた伊作が溝からひょっこり顔を出している。流水音がささやかに聞こえてくるのが哀しい。

「落ちちゃった」
「お前というヤツは・・・・・・」

てへっと笑う伊作は当たり前のように手を伸ばしてくる。食満は一つ息を吐いてその手を掴んだ。疑問に思う余地などない。
道に引き上げてやると、膝から下がぐっしょり濡れて伊作の足に布が張り付いているのが分かる。夏を少し過ぎたこの季節ならば風邪を引く心配はないだろうが今日は風が冷たい、火を起こして乾かしてやった方がいいだろう。なにせ相手はあの伊作だ。どこで何がどう転ぶか予想ができない。

「あっちの林に入るぞ。服を乾かそう」
「え、平気だよ。これくらい裾を捲くれば何とか・・・」
「なった試しがあるか?」
「・・・・・・・・・ないです」





ようやく町に辿り着いたのは太陽が真ん中から下り始めた頃で、丁度お昼時だったようだ。食事を求める人達でどこも露店は賑わっている。良い匂いに誘われて食満の腹が空腹を訴える。隣の伊作も興味深そうに露店の品を目で追っていた。

「伊作、少しここで待ってろよ。何か食べ物を買ってくる」
「僕も行くよー」
「いいから大人しくしてろって。また溝に落ちられちゃあ困る」
「うわ酷っ。いくら僕でもそこまで酷くは・・・ないと思うんだけど・・・・・・」

伊作が自信なさ気に語尾を小さくしていくその隙に食満は少しずつ後ずさっていく。慎重にいったつもりが砂利が音を立てた。

「あっ、ちょっと留三郎! 置いてかないでよ」
「伊作はそこの腰掛けで場所取っとけよ。立ち食いなんてご免だからな」

後ろでまだ喚いている伊作に背を向け、食満は人混みの中に体を滑り込ませた。握り飯や煎餅などの香ばしさが漂う道を歩くだけで自然と喉が鳴る。
腹に溜まるもので尚且つ温まるものがいい。火で暖を取っただけでは充分じゃなかったかもしれない。汁物がないかと幟をくまなく探した。
やっと見つけた屋台で掛け蕎麦を二つ買った食満は足早に来た道を戻った。早く食べさせたかったのもあるし自分がいない間にまた何か不運に見舞われてるんじゃないかと心配でもあった。文次郎あたりが聞いたら過保護だと鼻の一つも鳴らしただろう。生憎、伊作にはこれくらいで丁度良い。
ふ、と視線の先にちいさな露店があるのに気付く。何気なく足を止めて冷やかしてみるとどうやら装飾品の類らしく、煌びやかな小物が並べられていた。学園のくの一達が好きそうな髪留めや手鏡が揃っている。
そういえばいつだったか、中在家が彼女に贈り物をしたと聞いたことがあったか。その時は六年生総動員で囃したてたものだ。

「ふむ」

食満は蕎麦の入った器をそっと地面に置くと、品物の一つを手にとって光にかざして見た。これくらいなら、いいだろう。





「・・・・・・何をしている」

出来るだけ抑えたつもりでも思ったより低い声が出た。食満は引きつる口元を無理矢理上げる。眼下では今まさに伊作が財布から銭を取り出そうとしたところだった。

「おかえり留三郎ー。今ね、凄いもの見つけたんだ」

これこれ!と嬉しそうに伊作が掲げたのは、いかにも胡散臭い湯呑みらしき物だった。歪な形状は果たして湯呑みと言い切っていいものか迷ったが、側面にでかでかと『茶』と書かれているからには違いあるまい。反対側には味のない下手糞な字で『幸運』と記されている。
果たして伊作はこの湯呑みのどこに惹かれたのだろうか。

「使った人は幸せになれるっていう湯呑みなんだよ! 凄くない?!」
「なれたら、な」

瞳を輝かせる伊作の頭を軽く叩いて湯飲みをその手から取り上げる。あっと非難を含んだ声をあげたものの、食満が露店主の男に向き直ったのでとりあえず伊作は成り行きを見守ることにした。経験上、食満に任せていれば間違いはない。

「で、どうなんだ。必ずなれるのか?」
「必ずというか、幸せになれるような気がするだけで、その・・・・・・」

無精髭を生やした男はどうもはっきりしない。業を煮やした食満が一際強く睨みつけると男はばっと湯飲みを奪い返した。敷き布で品物を全ていっしょくたに包むと慌ててその場から走り去っていく。その背中が人混みに消えていくのを見届けて、食満は脇に置いていた器を持ち上げる。

「あれ、あの人どうしたのかな」
「さあな。急用でも思い出したんだろ」

冷めてはいないが温くなった蕎麦の一つを伊作に押し付けて食満は腰掛けに座った。あと少しでも遅かったならばあの悪徳商人の餌食になっていたことを思えば大した事ではない。

「あーあ。あの湯呑み欲しかったのになあ」
「そんなに幸せになりたかったのか」
「少しでもこの不運体質が改善されるかなーって思ってさあ」
「そりゃ残念だったな」

笑う食満の隣に伊作も座り、二人して蕎麦をすする。流石に麺が伸びていたが文句は言わなかった。

「でも留三郎がいればいっか」
「ぶっ」

思わぬ言葉に食満が麺を気管にいれて咽る。

「だって留三郎がいれば割と不運じゃなくなるし」
「・・・・・・お前、今日は不運じゃなかったとでも?」
「うん。まあ用水路には落ちたけど」

日頃から不運なせいか、今日一日を振り返ってもたいして凹んでいないのが伊作だった。食満からしてもればこんな日は一月に一度あるかないかだ。のほほんと蕎麦をすする伊作が哀れに思えてきた。

「僕は留三郎と一緒なら幸せだなー」
「なら幸せついでにこれやるよ」

箸を置いた食満は懐から小さな紙袋を取り出すと伊作に放って投げた。首を傾げながら伊作が袋の中に指をいれると細いものが爪に当たる。

「わ、髪留め?」

摘み上げたものは朱色の紐だった。鮮やかなそれに伊作は頬を薄く染めてじっと見入る。

「高いモンじゃなくて悪いけど」
「ううん、嬉しい。ありがとう! 早速使わせてもらうね」
「あっ、馬鹿!」

制止の声虚しく、伊作は今使っている髪紐を取り払った。高い位置で結われていた栗色の髪が解放されると重力に従ってふわりと下へ落ちる。危うくそのまま汁の中へ入りそうだった一房を食満は見事に捕まえた。

「お前は自分の髪まで食べる気か・・・・・・!」
「わあ、危なかったねー」

まるで危機感のない伊作はいつもと使い勝手の違う髪留めに四苦八苦している。数分見ていたがその不器用さに脱力した。

「忍者が不器用でどうするんだ」

伊作の手から髪留めを奪い取ると食満は背後に回った。柔らかな伊作の髪を一つにまとめあげ、先ほどと同じように結わえてやる。ものの数秒で仕上がった。

「学園出たら真っ先に死にそうだよな、伊作」
「うーん、否定できない辺りが悲しい」
「いっそのこと嫁にくるか」
「えっ、いいの?」

冗談のつもりだったのに、思いの他期待の篭った目で見上げられて食満は言葉に詰まる。視線をあちこちに彷徨わせてみても、不思議なことに断る理由が見当たらない。

「まあ」

こほんと咳払いを一つ。

「その時は俺が幸せにしてやるよ」