誰も知らない
教室の隅っこの席で黒子とは向かい合って座っていた。二人で会話を楽しんでいるわけでもなく、黒子は一人文庫本を読んでいる。
そんな黒子を頬杖をつきながらはじっと見つめていて、視線に気づいた黒子が首を傾げながら顔を上げた。
「そんなに見つめられると照れます」
「普段見つめられることがないからですか」
「そうかもしれません」
の問いに少し考えてから黒子が頷く。
黒子は文庫本の読みかけのページに指を挟んで閉じてから、ぐるりと教室を見渡した。
「どうして今本なんて読んでるんですか。私のほうを見てください」
「本に嫉妬してるんですか?可愛いです」
「だって、テツヤくん以外は私のことを見てくれないじゃないですか」
「そんなことないですよ」
「本当にそう思ってますか」
「すみません、思っていませんでした」
やっぱり、と言ってからが拗ねたような顔をしたので黒子は本にしおりを挟んで机の上に置く。小さく溜め息を吐いた黒子だったが表情は穏やかだ。
黒子ももこのクラスの一員である。クラスメイトと同じように学び、活動し、時間を過ごす。
「私のことを見てくれない」と零すだって、決して誰かにいじめられて無視されているだとか、もしくは本当は幽霊で黒子にしか姿が見えないだとか、そういう類の存在ではない。立派な人間である。しかし存在感が薄いという人間は探せばこの世界にはいくらでもいるらしい。
黒子はその類の人間だった。授業中に寝ていても気付かれない、みんなと同じように行動しているのに忘れられてしまう。彼もまたクラスメイトにいじめられているわけではないのに。
そしてもう一人。このクラスには黒子と、男女1名ずつ異常に存在感の薄い人間が在籍している。
今まで生きてきて不意に誰かと目線が合うだとか、声をかけられるだとか、ほとんどそういう経験がなかったのにも関わらず不思議なことに存在感の薄い二人だけは始めからお互いの存在を認識していた。黒子がを、が黒子を見つめお互いの視線が重なって、その視線が自分に向けられているのだということを知った時には驚いた。自分の存在が認識されている、と。
そんな二人はゆっくりと確実に歩み寄った。クラスメイトは誰も二人が視線を絡ませているだなんて思いもしない。
そこに恋が生れたことなんて、誰も知らない。
「もしかしてテツヤくんは鏡なんじゃないかって時々考えてしまいます」
「ボクとは背格好が全然違いますよ」
「知っています」
「だからボクは鏡なんかじゃないです」
「わかっています。あなたは黒子テツヤくん。存在感が薄いバスケ部男子です」
「そうですよ。存在感の薄いさん、帰宅部女子」
二人は小さく笑みを零した。
黒子は読みかけの文庫本を再び開こうとするものの文庫本に集中したの視線によって動きを止める。
「懲りませんね」
「懲りませんよ」
「誰も私の相手をしてくれないのでテツヤくん、何かしてください」
「無茶苦茶言いますね」
二人は存在感が薄いということに関して悲観視していない。今までそれで苦労してきたとか、何かに巻き込まれてしまったこともなかったからだ。むしろその能力によって様々な面倒事を回避してこれた。の放った自虐発言も、黒子にとってはありふれた日常会話に過ぎない。
自虐発言をスルーして黒子はどんな話をすれば二人で盛り上がることができるかを考えていた。
「ボクたち、付き合ってどれくらいになりますか」
「どれくらいでしょう。いつから付き合い始めたかテツヤくんはわかりますか」
「わかりません。いつからにしますか」
「とりあえず半年ということにしておきますか」
「そうしましょう」
二人がお互いの気持ちに気付くまでそう時間はかからなかった。付き合うだとか好きだとかそのようなやりとりがないままに、いつの間にか二人はそういう関係になって現在に至る。
だからいつから恋人同士になったかなんていう正確な時期はわからない。
「では、付き合って半年経つボクたちですが、周囲はそれに気付いていると思いますか」
「気付いているとは思いません。気付いているわけがありません」
「ですよね」
二人はぐるりと教室を見回してみた。いつもと変わらない休み時間のざわめきに二人が混ざることはない。黒子とは再度視線を合わせると、これでいいのだと確認するかのように二人して小さく頷いた。
「ボクたちは恋人としてどんなことをしてきたと思いますか」
「手を繋ぎました」
「他には?」
「デートに行きました。水族館に」
「次のデートはどこがいいですか」
「次は動物園がいいです」
「検討します。では、他には何か恋人らしいことをしましたか?」
「一緒に帰宅しました」
「しましたね。今日も一緒に帰れますか?」
「待っています。いつもの場所で」
黒子が嬉しそうに微笑んだのを見ては少し恥ずかしそうに微笑み返す。黒子の手がの頭上に伸びてきて優しく頭を撫でたときには恥ずかしくて下を向いてしまった。
「では話を戻します。他にはなにかしましたか?」
「……本の貸し借りをしました」
「それは恋人じゃなくてもします。もうないですか」
「ないですね」
が指を折りながらぶつぶつつぶやいている間、黒子も視線を斜め右上に泳がせながら考えている。
「ボクたちまだキスしていません」
「……確かにしていませんね。テツヤくんはキスしたいですか?」
「したいです、したくてしたくてたまらないです」
「本当に?」
「本当です。ボクがどんな思いでいるか、は知っていますか」
「ごめんなさい」
が謝ると黒子は一瞬腰を浮かせての右頬にキスを落とした。ゆっくりと顔が離れていった後、はキスされた方の頬にゆっくりと右手を伸ばす。
「いま、なに、しましたか」
「キスです。ほっぺにチューです」
「初めて、ですよね」
「多分」
は右頬に手を当てたままゆっくり周りを見渡した。こんな恥ずかしいことを教室で行ったのに周囲にいるクラスメイトが気付いたような様子はない。
「気付かれてないみたいです」
「ボクたちの特性もこういう時は役に立ちますね」
教室は何の変化もなく時間が流れていた。きっとこんなことをしたのがこの二人ではなかったら、今頃大騒動になっていただろう。
「もう一度、いいですか」
「えっ」
黒子の手がの顔に伸びてきてそのまま両頬が包まれた。は視線を逸らすことが許されず、頬を赤く染めて黒子を見つめる。黒子はもう一度と言ったものの、明らかに先程と様子が違うことに気が付かないほども馬鹿ではなかった。普段は冷たい黒子の手から伝わる体温は運動した後のように温かく、このまま溶けてくっついてしまうのではないかと錯覚しそうになる。
やめてほしい、とは思わなかった。どうせ今ここでこんなことをしても、気付かれないのはわかっている。
「本当にするんですか」
「します。目、閉じてください」
「無理です、死にます、恥ずかしいです」
「大丈夫です、死にません、ボクを信じてください」
思いとは裏腹にの口から出たのは拒絶の言葉だった。しかし本心から拒絶しているわけではないので黒子の手を振り払うことも逃げることもしない。あまりに黒子が真剣な顔で見つめるのでそんなにキスしたかったのかとは少し反省した。
みんな気付けばいい。窓際で黒子とがイチャついてるって思えばいい。リア充爆発しろって言ってくれればいい。
ゆっくりと黒子に唇を押し当てられたとき、は全く集中できずそんなことばかり考えていた。こうしてる今だって誰にもたちは見えていないし認識されてはいない。こんな恥ずかしいことをすればみんなは自分たちに気付いてくれるのだろうか。
でもやっぱり気付かれたくない。黒子はずっとだけに見つめられていたかったし、もまた同じだった。
「……どうでしたか」
「すごかったです。感動です」
「じゃあそろそろ……」
離れてくださいとが口にしようとすると黒子の顔がまた近づいてきては黒子に従うしかなくなった。2回程ちゅ、ちゅっと小さく耳に届くリップノイズ。でも実際にはもっと回数を重ねていたはずだ。いけないことをしているとわかっているのに、その感覚が更に二人をどきどきさせた。
「止まらなかったです、ボクはどうしたらよかったんですか」
「そんなの私が知るはずありません」
が黒子の頬をつねる。眉を下げながら痛いです、と黒子が苦笑した。それでもやっぱり教室はいつものままで誰もこっちを見たり指差したりしていない。
二人のいるところだけ切り取られて別の空間になってしまったんじゃないかと思うくらいの温度差があった。教室が日本なら二人のいる空間はどこかの砂漠だ。それくらい熱い。
「いつもの可愛いテツヤくんも好きですが、先程のテツヤくんのギャップにどきどきが止まりません」
「可愛い、は嬉しくないです」
可愛いという単語に反応した黒子の目つきが険しくなったのを察知しただったが彼女の視線は黒子を見た後、黒子の頭をしっかりと掴んでいる大きな手に釘付けになった。黒子は顔を上げたくてもあげられず、視線だけ上にして口を開く。
「火神君、痛いです」
「教室で真昼間からイチャつく奴への制裁だ」
「火神くん見てたんですか!やだ、嘘、そんな、破廉恥!」
「何が破廉恥だ、破廉恥はお前らだろ!」
火神が叫ぶとクラス中の視線が3人に向けられた。何が起こったんだ、という視線はすぐに元通りになる。異常ナシ、と誰もが思ったからだ。
火神が加わったことで黒子との存在感がじわり、と教室に溶けだした。どろどろと地面を伝い、空気を漂い、やがて二人の存在感は彼らに届くだろう。
「お前らな、場所を考えろ場所を!」
「誰も気付かないですよ」
「オレには見えてんだよ」
「火神くん悪趣味です」
じっと二人の目に見つめられ火神は言葉に詰まり二人を交互に見下ろした。火神が何か悪いことをしたとでも言いたいような4つの目に、被害者であるはずの火神は怯んでしまう。
「……わかったよ、オレが消えればいいんだろ」
「大丈夫ですよ火神くん、消えるのは私たちですから」
「火神君は消えません。ボクの前の席に座って前を向けば、いつもの火神君に戻れます」
どうしてこの二人はこんな風になってしまったんだろうと、席に着き黒子に言われた通りに前を向いた火神は考えた。
時々二人は自分にしか見えない幽霊なんじゃないかと思うことすらある。なのに出席簿には二人の名前がしっかりあって授業中に発言することも、他の友人たちと会話していることもある。しかし先程見てしまった強烈なキスシーンだけは自分しか見てなくて、クラスメイトは誰もそんなこと気にしていない。
「何でオレだけ……」
聞こえていたはずの黒子との楽しそうな会話は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
あとがき
大人しいのにぐいぐいくる黒子が好き
2012.11.22
2022.01.16 加筆修正