王様の仰せのままに 24
おやすみなさいと告げて静かに目を閉じた数十分後、持田さんに触れていた手を慎重に彼の身体から退ける。ゆっくりと身体をずらしていき、ベッドを下りた後も忍び足で寝室の扉を目指した。暗闇に目は慣れていたので物にぶつかったりはしなかったものの、持田さんが起きているのか寝ているのかは不明だ。
おやすみの挨拶までして何故私がこうして寝室を抜け出したのかと言うと、単純にお風呂に入るためだった。
持田さんはお風呂を済ませていたのであの流れで眠れるだろうし、何なら入浴がまだだったとしても彼の家なのだから好きにすればいい。でも私はこの家の住人ではないし、1日の汚れを落とさずに持田さんのベッドで眠るのには少々気が引けた。それにお風呂に入れないほど疲れ切っているわけでもない。とりあえずシャワーだけでも浴びて全身すっきりしてから1日を終えたいのが本音だった。
もう何度使用したかもわからない持田家の浴室。いつもの場所に着替えとタオルを準備してから、服を脱いで手早くシャワーを浴びた。20分程で全身洗い終えた後は持田家に常備してあるスキンケア用品で簡単に肌を整えて、髪の毛の水分を拭いながら脱衣所の扉を開ける。
「こんなとこにいたの」
「も……!」
扉を開けた瞬間、仁王立ちしていた持田さんとぶつかりそうになって変な声が出た。すっかり今頃は夢の中にいると思っていた人物が、半目状態で若干不機嫌そうなオーラを纏いながら廊下に立っているんだから、いろんな意味で心臓がものすごい速さで動いている。
「あと少しで眠れそうだったんだけど」
「あ……シャワーの音うるさかったですか?睡眠の邪魔してしまってすみません」
「……そういうんじゃないけどさー」
じゃあどうしたんですかとは突っ込める空気ではなく、とりあえずすみませんともう一度謝ると、扉を塞ぐ勢いで立ちはだかっていた持田さんがリビングの方へと身体の向きを変えた。水が飲みたかったので持田さんの横を通り抜けるような形でキッチンに行く。彼もそれに続いた。
特に何の会話もないまま水を注いだグラスを持って食卓へ。すると再び持田さんも私に続いて目の前の席に腰を下ろす。
「持田さんもお水飲みますか?」
「いらない」
「何だかすごく眠たそうですね」
「眠いよそりゃ」
頬杖をつきながら持田さんはずっとこっちを見ているだけで、それ以上は何も言わなかった。
数分でグラスの中は空の状態になり、手でグラスをもて遊ぶくらいしかすることのなくなった私は髪の毛を乾かそうと席を立つ。ドライヤーの音で持田さんの睡眠の邪魔をしてしまう可能性もあるし、それが嫌で彼がわざわざ起きているのだとすれば早く髪の毛を乾かしたほうがいい。
持田さんを食卓に残し洗面所で髪の毛を乾かす準備をしていると、リビングの電気が消えて暗闇から持田さんが姿を現した。
程なくしていつも通り髪の毛を乾かし始めた私のすぐ側、廊下からひしひしと視線を感じる。視線の主はもちろん持田さんで、廊下の壁にもたれながら腕を組んだ状態でこちらを見ていた。私が露骨に彼のほうを振り向いてみても視線が揺らぐことはない。
原因不明の気まずさの中で髪の毛を乾かし終えると、持田さんが洗面所に入ってきて私の髪の毛に触れた。
「ちゃんと乾かした?」
「乾かしました。濡れたまま寝たら風邪引きますよ」
「わかってるから聞いたんじゃん」
片付けようとしていたドライヤーが持田さんに奪われ、少々乱暴にコードがまとめられる様子を私は黙って見ていた。定位置にドライヤーを片付けた持田さんは私の手を取り、そのまま寝室へと一直線に歩いて行く。
今日から私がリビングのソファで一夜を明かすことはなくなるんだろう。そんなことをぼんやりと考えながら、布団に潜り込む持田さんの背中を見つめた。私もあの後に続くべきかな。持田さん眠たそうだったし、お風呂から髪の毛を乾かすまで結局それなりに時間がかかってしまったので、これ以上もたもたしているのはよくないだろうと、黙って彼の隣にお邪魔した。
そのまま電気が消され、目が慣れるまでの間再び暗闇に包まれる。
「眠れそう?」
「……多分。持田さんは眠れそうですか?」
「さぁ。一回目覚めちゃったし」
「す、すみません……」
持田さんは私の方を向いて話しているようで、ものすごく至近距離から声が聞こえた。まだ目は慣れていないので薄らと彼の輪郭のようなものが見えるけれど、それを確かめられるほどの度胸は私にはない。持田さんと同じように横向きになって、彼の方を向くので精いっぱいだ。
「消えたのかと思ったじゃん」
ぽつりと小さく呟いた声は恐らく、私がシャワーのために寝室を抜け出したことを指していた。
「こんな時間に私がどこに行くっていうんですか」
「そういう返しする?」
「私はどこにも行かないし、どこにも行けないですよ」
「……何それ」
「『消えたのかと思った』なんて、可愛いこと言われたら尚更行けないです」
「はぁ?ふざけんなよ」
小声で溜め息混じりの「ふざけんなよ」はいつもの100倍優しかった。くすくす笑っているから本当に怒っていないらしい。目が覚めたなんて言いながら、持田さんも眠たさの所為でテンションがおかしいのかもしれない。
「明日休みじゃないんでしょ?」
「もちろん仕事です」
「じゃあさっさと寝なよ」
持田さんに鼻で笑われて言い返そうとした時、背中に何か温かい物が触れた。それが持田さんの手だと気付いた時には緊張感よりも安心感が勝ったのか、言い返そうとしていた言葉は飲み込んでしまう。
持田さんの腕の重さと体温がじわじわ全身に拡がっていくような心地よい気分の中、私は瞼を閉じた。
目が覚めて感じたのは柔らかなマットレスの感触と違和感だった。見慣れない壁紙に自分の物とは違う寝具の匂い。でもこの匂いは知っていて、徐々に覚醒していく意識の中で昨日の出来事と結びついていった。
「もちださ……ん」
声は掠れて上手く発声できなかったけれど、寝返りを打ってから部屋の主の名前を呼ぶ。
掠れた声は持田さんに届くことはなかった。大きな大きなベッドの上には私しかおらず、恐らく持田さんが横になっていたであろう場所はほんのりとだけ温かい。確かに彼がここで眠っていたのだと確信すると同時に別の考えが脳裏を過った。
今日は何曜日?今何時?
考えること数秒、遮光カーテンの隙間から覗く日光は早朝の時のような優しいものとは違う。持田さんのことを考えながら微睡んでいる場合ではないと勢いよく上体を起こした。
枕元を探ってみるもののスマホは見つからない。眼鏡をかけてベッドから飛び降りてリビングへ走ると、いつも持田さんの家に泊まる時に使っている充電器に私のスマホが繋がっていた。自分で充電した記憶は全くないので持田さんだろう。慌てて時間を確認すると何と始業時間の30分前だった。
大慌てで歯を磨きながら家中を確認して回ってみても持田さんの姿はどこにも見当たらない。優しさなのか意地悪なのか、同じ職場へと向かうのに持田さん一人で出勤した事実を飲み込みながら、死にもの狂いで身支度を整えた。
* * *
電車に揺られている以外の時間は常に走った。持田さんの家から駅へ、駅からヴィクトリーのクラブハウスへ、とにかく走る。
今何時かなんて確認している時間すら惜しくて、間に合いますようにと祈りながらパンプスを履いた運動不足の身体に鞭打った。
「お、おは、おはよ……ご……」
「大丈夫……?」
ふらふらになりながら事務室の扉を開けて中に滑り込むと始業時間2分前で、安堵の溜め息は走り続けたせいで乱れた荒い呼吸に上書きされる。同僚の声掛けには手を軽く上げることでしか答えられなかったけれど、時計を振り返った彼は「セーフだね」と告げてから私の肩を軽く叩いた。
呼吸が徐々に落ち着いてくると今度は喉がカラカラな事に気付いて、自分の席に鞄を置いて職員専用のジャンパーを羽織ってから特に誰宛でもなく給湯室に行くことを告げる。数人が「いってらっしゃい」や「はーい」とかけてくれた声を背中に、速足で給湯室を目指した。
事務室のみんなに迷惑をかけているので申し訳なさしかない。思い返せば昨日も寝坊してしまったし、時間を守るなんて社会人として当然のことができない自分が腹立たしかった。やるせない気持ちが表れているのか、給湯室に向かう足音が普段よりも大きく廊下に響いているような気がする。
給湯室に着いてから自分のマグカップに勢いよくウォーターサーバーの水を入れて思い切り飲み干した。ぐいっと普段はしないような仕草で口元を拭ってから腕時計で時間を確認しようとするといつも腕にあるはずのそれはなくて、家を出る準備の時に焦りすぎて、腕時計を身に着けて来たのかどうかすらも覚えていないことに今更気付く。現に今身に着けていないのだから時計は持田さんの家か、運が良ければ鞄の中だ。
遅刻しかけた上に腕時計も行方不明だなんて溜め息が出てしまったけれど、それを嘆いている時間がもったいない。朝のことはこれから挽回すると自分に言い聞かせながらマグカップにもう一度水を注いで零さないように、できるだけ急ぎ足で事務所へと向かった。
事務室の扉の前で深呼吸をして気合いを入れなおし、静かにドアを開けると部屋の中は怖いくらいに静まり返っていた。まだドアは半分程しか開けていないのに、いい意味で普段は賑やかな事務室が異様な雰囲気で、自分が遅刻しかけたのが原因だと確信した私は勢いよくドアを全開にする。
「戻りました。あの、今朝は」
「おかえりさん!お客さん!お客さん来てるよ!」
「え、あの……?」
「ねぇさん、遅刻しかけたってマジ?」
この部屋で聞いたことのない声だけれど確実にこの声はあの人の声だ。どうして?何で?本物?様々な疑問が頭の中を巡りながらも声のした方を向く。
ゆっくりと右側に首を向けると練習着姿の持田さんが壁にもたれながらこちらを見ていた。この部屋に全く馴染んでいないその姿はスーツだらけの中でかなり浮いているし、本人はいつも通り謎のプレッシャーみたいなオーラを放っていて、事務室の人は声を発することもなく私と持田さんを交互に観察している。
私の一番側にいた社員が「急に部屋に入ってきてさんどこって聞かれたんだけど……。持田さんと何かあったの?」と控えめな声量で教えてくれた後、そのまま部屋を出て行った。事務室の外に用があったのか、この空気から逃げたかっただけなのかはわからない。
「一応2分前でギリギリセーフでした」
「マジでギリギリじゃん!ウケるんだけど!」
「今朝のは全然ウケないです……!」
静まり返っている部屋に持田さんの笑い声が響いて、事務室の人達が控えめに顔を見合わせた。
ここは経理や一般事務を担当する部署だから監督や選手などが出入りすることはほとんどない。広報室は選手にサインをもらったり動画を録ったりして接触の機会も多いだろうけど、私の所属する事務室は選手との接触の機会は少なかった。ごくたまに副業をしている選手が税金関係の手続きについて質問しにくるくらいで、それすらも本当に稀なケースだ。領収書や備品の確認のためにこちらがグラウンドに出向くことはあっても選手がこの部屋に来ることは珍しいし、ましてや持田さんがこんな午前中から税金関連の相談に来たとは到底思えない。
だからこそみんなは半分怯えた様子で持田さんと私の様子を見守っていた。ほとんどの人は、私が何かやらかして持田さんを怒らせたと思っているかもしれない。
「もしかして今朝起こさなかったの怒ってる?」
「いえ、そんなことは……」
「でもスマホは充電しといてあげたし?」
「それは助かったんですけど……」
話の流れがおかしい。さも当たり前のように持田家での出来事を話しているけれど、そんなプライベートなことをこの場でおおっぴらにするのはどうかと思うし、しかも相手は私だ。その上今は仕事中で、まさか持田さんが世間話をしにここまでやってきたとは考えにくい。
今朝起こさなかったから遅刻したと思われた?それが心配でここまで?
持田さんがここにいる理由も目的もわからず、だからと言って元気よく「ちゃんと起こしてくださいよ!」なんて言える雰囲気でもない。彼の放つ言葉を聞いた事務室の人達の顔が怯えや困惑から興味や驚愕に変わっていて、みんな手を止めて私達の話を聞いていた。
「それで、ご用件は何でしょう?」
これ以上今朝の話を続けられるといろいろとマズい気がする。ただでさえ危ない単語が飛び交っていたのだから今更遅いかもしれないけれど、とにかく持田さんの用件を聞いて早急に練習グラウンドに戻っていただこうと、何か続きを話そうとしていた彼に被せる形で用件を聞いた。
今私はどれくらい焦っているのか自分でもよくわからない。でも一瞬持田さんが出会った当初のような、あの何とも言えない恐ろしさを含んだ顔で笑ったような気がして、ほんの少しだけ胸がざわついた。良くない意味で。
「さんこれ探してない?」
「私の腕時計!」
「家に忘れてたって言うよりは俺が先に持ってきちゃったんだけどさー」
「先に持ってきた?」
「昨日のこと憶えてないの?まぁそりゃそうか、さんあの後爆睡して……」
「ちょ、ちょっと持田さん!こちらへ!」
持田さんの身体を押しながら事務室の外へと飛び出し、扉がきっちり閉まっているのを確認してから薄ら笑っている彼をできる限り睨みつけた。こんなことをしたのは恐らく初めてだ。
目の前に差し出された腕時計を受け取ったまではよかった。でもその後の所謂匂わせ発言には持田さん越しに見えていた事務室のみなさんが息を呑み、口を手で覆った。誰だってクラブの看板選手と地味な契約社員が職場で、しかも仕事中にいきなりそんな会話を始めたら驚きたくもなるだろう。最悪私は職を失うかもしれない。持田さんはそうなってしまってもいつものように笑い飛ばすんだろうか。
「練習行かなくていいんですか」
「あと15分あるから大丈夫」
「……」
「怒ってんの?」
「……ちょっと怒ってます」
「珍し。っていうか別に腕時計渡すためだけに来たわけじゃないんだけど?」
てっきり私のことをからかいに来たのだと思ったのにそうではなかったらしい。私の一方的な誤解で持田さんに怒りをぶつけていたのだとすれば謝らなければいけないけれども、それでもやっぱり先程のやり取りはいろいろな意味で心を乱された。
「要件が他にあったのなら謝ります。でも!あんなことみんなの前で言われたら困ります!誤解を生みます!」
「何で?全部真実じゃん」
「真実ですけど!いろいろ聞かれると困るし……それにこのことで私がクビになったらどうするんですか!」
「こんなことで職員クビにしないだろ。まぁでももしそうなったらちゃんと養ってやるって」
「そういう問題じゃないんです!私この職場が好きだし、持田さんとも知り合えた職場だから感謝してるんです。もっと役に立てたらと、思っ……」
ここまで話して声に詰まる。どうして自分が泣きそうになっているのかわからないし、職場で何をやっているんだと情けない気持ちを背負いながら、涙が零れないように唇を噛みしめた。目の前で困っているか呆れているであろう持田さんに対する申し訳なさと、涙を堪えてるのを見られたくない気持ちも相まって、勢いよく頭を下げてなんとか声を絞り出し謝罪する。
「……っごめんなさい」
「何で泣いてんの、俺が泣かせたみたいじゃん」
「泣いてないです!」
「はぁ?すごい顔して泣くの我慢してたくせに」
「が、我慢したので泣いてません!」
「……もうわかったよ。それよりさー、時間もあんまりないし、事務室で本題に入らせていただいてもよろしいですかね?」
「あ、はい、どうぞ!ご案内します」
部屋を出た時とテンションの違う持田さんと一緒に事務室に戻ると、席に着いて仕事をしていたみんなが一斉にこちらを見た。そうなるよね、と思いながらも気まずいので、さもプライベートな要件ではありません、公私混同していませんとアピールするかのように「ご用件は何でしょう?」と、部屋を出る前と同じ台詞で持田さんの言葉を促す。
「クラブに登録?届け?出してる住所を変更しに来たんだけど。そういうのは広報室じゃなくて事務室って聞いたから」
「……確かにここですね。担当の者、呼びますね」
クラブに提出している住所を変更したいという持田さんの謎の申し出に首を捻りながら、その辺の仕事を担当している人に目配せする。当然会話は筒抜けなので、担当者は書類を探すべく立ち上がるところだった。
持田さん引っ越しするんですかと聞きたくなる気持ちをぐっと押さえながら待っているとすぐに書類を集めたおじさん社員がやってきて、適当な席に持田さんを案内する。
「えーっと、今の持田さんの住所はこれで合ってますか?」
「うん、合ってる」
「じゃあこっちに新しい住所を……」
「あーすみません、住所変更するの俺じゃないんで」
「え?」
「この人です、住所変更するの」
持田さんが振り向きもせずに私の方を指差したのが横目で見えた。部屋の中の空気がまた一瞬にして変わったのを感じながら、私はPCから顔を上げられずにいる。何も聞かされていないし今から何が起こるのかもわからない。恐らくこの部屋の視線を集めているであろう状態で、私に言える台詞も見つからなかった。
「えーっと……さんの住所変更ですか?持田さんが?」
「そ。さんの住所を俺の住所に変更して欲しいんだけど」
「え?は、はぁ……えっと……?」
訳が分からないといった顔でおじさん社員が私の様子を伺っている。当然私も職員なので住所は提出しているけれど、住所変更を本人以外が言い出すなんて前例がないんだろう。だとしても私だって今初めて聞かされた話で、どんな反応をすればいいかわからない。
「本人の了承は得てるんですよね……?」
「本人の了承?……さん、別にいいよねー?」
「え?」
今ここでそんなこと聞くの!?
もう一度持田さんを外に連れ出そうか迷ったもののもうこの状況に飽きてしまったのか、彼は心底面倒くさそうにボールペンを回していた。そうなってしまえば再び私に視線が集中するわけで、私が黙っていてはこの話は先に進まない。
「……だいじょうぶ、です」
「だって」
「で、ではさんの住所変更ということで……」
持田さんのファイルを持ったおじさん社員が私のファイルと交換するために席を立った。どういうことですかと持田さんに詰め寄りたい気持ちはあっても、先程公私混同していませんというアピールをしてしまった手前それは避けたい。
「……えっと、どちらが記入します?持田さん?さん?」
「俺が書くよ」
「では……」
住所変更用紙を手に持ち、曖昧な笑顔を浮かべるおじさん社員から紙を受け取った持田さんがすらすらと彼の現住所を私の用紙に記入した。私は持田さんの住所を憶えていないので彼が記入してくれたのは助かったけれども、そもそも今はそんなことを考えている場合なんだろうか。
「変更するのは住所だけでよかったですかね?」
「うん。名前はまだ今のままでいいから」
「まだって!」と声を上げたのは私ではなく、今まで一言も発さずに仕事をしていたパートさんだった。
持田さんは彼女に「ぶはっ!そー、まだなのよ」と大笑いした後、時計を見て「それじゃあ後よろしく」とおじさん社員の肩を軽く叩く。
これだけのことをしたのに何事もなかったかのように練習に戻る持田さんの背中を、事務室の全員で立ち上がって頭を下げて見送った。持田さんが去り、扉が閉まった瞬間からもう事務室が大混乱だったことは言うまでもない。
花壇で声を掛けられたときのことは今でも憶えている。持田さんはジャンパーを着ていなかった私を不審者扱いしてから大笑いして、後日私が水やりをしながら花に話しかけていたところを見て再び大笑いした。私はいつも笑われてばかりだったけれど不思議とそれが嫌じゃなくて、持田さんとの距離が近付いてからは彼が笑っていないと心配で…気付いた時には彼に心を奪われていたんだと思う。そんな自覚のなかった私の恋心は、持田さんのおかげでなんとか実を結んだ。
私達の心が通った夜も、急に事務室に持田さんが現れて同じ家に住むと言い出した時も、彼は少々強引だった。でもそんな持田さんの強引なところが嫌いになれないし、これから先彼に振り回される人生を歩むことになるとしてもそれも悪くないかもなんて考えてしまう。
持田さんは私にとっての王様。王様の仰せのままに、王様を幸せにする自信はあまりないけれど、あなたが求めてくれるのなら幸せにだってできるのかもしれない。
長かったですが無事に完結することができました。
書き始めたころは連続して更新することができたのですが、終わりに近づくにつれて慎重になったり、本当にこれでいいのかな?と考えてしまってなかなか完結に辿り着けず。
最後の終わり方も悩みつつ…この二人らしい終わりにできたかなと自分なりには満足しています。
今までで一番感想や反応をいただいた作品なので思い入れも一番強い長編になりました。
この作品を読んでくださった方々に感謝申し上げます。更新する度、サイトに訪問くださる度に感想くださった方々の後押しがあってここまで書ききることができました。本当にありがとうございました。
続きや番外編を書くかはわかりませんが、思いついたまま長編に入れなかった話もあるので何か増えるかもしれないし増えないかもしれません。もしなにか更新したくなったら、その時は…!
2022/04/10 完結