*夢主が猫というありがちなやつです
*猫故に夢主ほぼ喋りません

猫につままれる


 漫画を読むのをやめてうんと背伸びした。今日は天気がいい。だからと言って外に出る気にはなれず、飽きもせずに自室で漫画を読み漁る。飽きるどころか、新しく買った漫画が面白くて読むのが止まらない。場地さんに勧めたら読むだろうか。

 再び漫画に手を伸ばそうとしたところで、窓から黒い塊が入ってきた。ペケJだ。
 「おかえり」と声を掛けると一瞬オレの方を見た。その後ペケJが窓に向かって鳴くと、もう一つ同じような黒い塊がするりと侵入してくる。
 ペケJに似てはいるけど額に傷はない。元々小柄なのかそれとも痩せているのか、ペケJよりも小さな黒い猫だ。綺麗に床に着地してからじっとこちらを見つめる。

 「ダチ連れてきたのか?」

 もちろん猫相手なので返事はない。でもそうだよと言われたような気がした。
 ペケJのフードを持ってきて餌皿に出してやると、ペケJが餌を食べ始めた。ペケJのダチはそれを少し離れたところから見つめているだけで、食べようとはしない。途中ペケJが視線をやるものの、相変わらず眺めているだけだった。
 フードを少しだけ手に取ってダチのそばまで持っていく。

 「食う?腹減ってねぇの?」

 声を掛けると静かに近寄ってきてから、遠慮がちに手から餌を食べた。一口食べてはこっちを窺い、口に含んでは顔を上げ、を繰り返す。

 「遠慮すんなよ」

 数回繰り返しても、それでもちまちました食べ方は変わらない。ペケJの餌皿から食べるのを遠慮しているのかと思って、試しにフードを数粒だけ床に置いてみる。暫く待ってみたものの、フードを見つめるだけで、全く口をつけようとしなかった。今度は一粒摘まんで口元に持って行ってみる。その一粒は食べた。

 「甘えてんの?」

 餌皿のフードを全部食べ終わったペケJが近寄ってきて、オレとダチのやり取りを眺めていた。見守られるようにしながら、ちびちびとダチはフードを食べた。



 ペケJのダチはオレの部屋でペケJと戯れたり、床の上で丸まって眠ったりしていた。いつも遊ぶ時はオレとペケJの一対一だから、一対二になるのは新鮮で楽しかった。気まぐれだからおもちゃに飽きたり別の物に興味を示したりするものの、どちらか一匹は起きていて、オレと何かしら遊んでいた。

 結局夜になってもペケJのダチが帰る気配はなく、気が付いたら時間は23時を過ぎていた。追い出す選択肢はないけれど、こんなに長い間ペケJ以外の猫が家にいたのは初めてだ。

 「オマエ帰んねぇの?一泊コースか?」

 話しかけるとそいつは真っ直ぐにこっちを見る。頷いたり返事が返ってくることはなくても、今晩は出て行かないような気がした。

 「オレのベッドで寝るんだったら、風呂には入ってもらうぞ」

 風呂という単語に反応したのか、ペケJが足早に部屋から出て行った。「オマエじゃねーよ」と笑っても、勘違いしたペケJはもうここにはいない。
 代わりにペケJのダチを抱き上げる。風呂の意味をわかっていないからか、嫌がる素振りも見せない。それどころか期待がこもったような瞳で見つめられているような気がして、若干の罪悪感さえ芽生える。ペケJのダチはそのまま簡単に風呂場まで連行できた。

 風呂場でもダチを洗うのは楽だった。動画なんかで水を怖がらない猫だとか、風呂に入るのを楽しみにしている猫、みたいなのを見たことはあったあけれど、こいつはその類の猫だ。ペケJも大暴れする程ではないにせよ、ここまで大人しくはない。
 もしかして誰かが飼っている猫なのかと思いもした。それくらい人に慣れているというか、警戒心が薄いと感じる。この人懐こさを利用して餌なんかもらって、野良の世界を生き抜いているタイプの猫なのかもしれない。だとしたら相当頭のキレる猫だし、現にオレも今その人懐こさにノックアウトされかけていた。
 風呂よりは若干逃げ腰になりながらも、ドライヤーすらもすんなり終わらせてくれた。心配になったのか、ペケJが廊下から顔半分でこっちを覗いていたのを見つけたときは笑うしかなかった。ペケJもこれくらい簡単にドライヤーさせてくれたら苦労しねぇんだけどな。

 約束通り風呂に入ってくれたので、部屋に戻ってからペケJのダチをベッドの上に開放する。後ろから走ってきたペケJも合流して、結局1人と2匹でベッドに寝転がった。ベッドがいつもより狭い。
 ベッドに入る前、部屋の窓は猫一匹が通れるくらいの隙間を開けておいた。こいつが帰りたくなったら、いつでも外に出られるようにするためだ。でもなんとなく、オレが目覚めてもまだどこにも行っていないような気はしている。このまま居ついちゃったらどうしようか。そんな事を考えていたらいつの間にか眠っていた。



 夜中に一度、ペケJが上に乗ってきてその重みで目が覚めた。次に目が覚めた時にはもう朝になっていて、上にも隣にもペケJの姿はなかった。

 「……なんか、狭っ」

 若干の寝苦しさはペケJが足元で丸まって場所を取っているからか。そう言えば、ペケJのダチもいるんだった。
 思い出してから起き上がる。目を擦りながら足元を見ると、猫2匹分とは思えないくらい足元の布団が膨らんでいた。声が出せないまま、咄嗟にめいっぱい後ろまで下がって距離を取る。
 何が起こってる?ペケJは?あそこにいるのか?布団を少しずつ引っ張ってオレの反対側に何があるのか、何がいるのか確認しようとした。

 !?!?!?!?

 ずらした布団からのぞいたもの。信じられない気持ちのまま、そっと近寄ったオレは驚きのあまり叫びそうになる自分の口を瞬時に塞いだ。
 すぐに携帯を掴んで場地さんに電話をかける。今オレが見ているものは夢なのか?現実なのか?わけがわからない。とにかく誰かに確認してもらう必要がある。

 『オイ、こんな時間から何の用だよ?』
 「場地さんっ!今すぐオレん家来てもらえないっスか!?」
 『用があんならテメーが来い』
 「オレが行ければいいんスけど、そういう訳にいかなくて」
 『は?意味わかんねぇ』
 「今、オレも意味わかんねぇことになってるって言うか……」
 『……わかったよ、行きゃいいんだろ行きゃあ。ちょっと待ってろ』

 最初は渋っていた場地さんも、オレの焦り用に気付いたらしい。理由も聞かずにとりあえず行くと言ってくれたので、そのまま家に入って来てもらうよう伝えて電話を切った。

 場地さんを呼んで安心したのも束の間、背後で物音がした。恐る恐る振り向く。例の謎の……具体的に言うと、オレの足元で眠っていた、知らない女子(に見える)が起き上がって、不思議そうにこっちを見ていた。
 何が怖いって服を着ている様子がない。一瞬で顔を背けた時に見えたのは、どう見ても男らしくはない華奢な肩だった。

 「お、オマエ誰だよ!?」
 
 後ろを向いたまま声を掛けてみるものの返答はない。場地さんはまだ来ない。
 仕方がないので下を向きながら近付いて、布団を引っ掴んで乱暴に頭の上から被せた。被せた瞬間は正確には確認していないので、多分被せられたんだと思う。

 そうこうしているうちに玄関が開く音がした。場地さんだ。状況を説明する前に部屋の中に入られるとマズイので、急いで玄関に向かう。慌てていた所為で、昨日読みかけのまま積んでいた漫画が崩れて床に拡がったけれど、元に戻している場合じゃない。

 「場地さんっ!」
 「マジ朝からなんだよ」
 「あの、最初に言っとくっスけど、マジでオレにも意味がわかんねぇっス!」
 「はぁ?」
 「とりあえずオレの部屋にいるんで、確かめてもらっていいっスか?」
 「いるって何が?ゴキとかだったらぶっ殺すぞテメー」
 「そういうんじゃないんで!」

 面倒くさそうに一度こっちを見てから、場地さんがオレの部屋の扉を開けた。少し離れた場所からその様子を見守る。本当にそこにいるよな?夢じゃねぇよな?
 扉を開けて数秒経ってから、部屋に入ることなく静かに場地さんが扉を閉めた。頭を掻きながら何か言い淀む。

 「千冬ぅ……オマエ……」
 「い、いましたよね!?」
 「いましたよね、じゃねぇ。実家に女連れ込んでんじゃねぇぞ!」
 「は!?そういうのじゃないっス!」
 「ワンナイした相手オレに追い出せって?そーゆー後始末をオレに頼ってくんなよ!」
 「いや、それも違うっス!」
 「じゃあ何だよ、避妊失敗したってか!?」
 「はぁ!?何でそうなるんスか!」
 「部屋に全裸っぽい女いたら疑うのはそこしかねぇだろ!?」

 深呼吸してから、オレは事の経緯を場地さんに説明することにした。
 朝、目が覚めたら知らない人間が足元で寝ていたこと。昨日家に入れたのは猫で、女は家には入れていないこと。そもそも勝手に女だってことにしているけれど、性別を確認したわけではないということ。なので、ワンチャンかなり女顔の全裸の男説も捨てきれないということ。
 そこまで話すと場地さんは頭を抱えた。オレも隣で一緒に頭を抱えた。
 とりあえず仕方がないので部屋に戻ると、ベッドの上にやっぱり誰かはいるし、布団がほとんど元の状態になって顔も肩も見えていた。
 場地さんと2人で女?の前に立つ。向こうはこっちを見つめているだけで声を発することもない。こっちから声をかけても黙ったまま、言葉が通じているのかも怪しい。

 座る場所を確保しようと、場地さんの足元に散らばった漫画を数冊拾った。昨日夢中になっていて読んでいた漫画だ。正直今は漫画のことを考えている場合ではないけれど、表紙を見ていると内容が頭の中で蘇ってきた。まさか、そんなはず。

 「……場地さん」
 「あ?」
 「まさかこの子、ペケJってことは……」

 そう切り出した途端、窓から猫が入ってきた。額に傷のある黒い猫。ペケJだ。
 場地さんがそのままペケJを抱き上げて背中やお腹、顔などをチェックする。やはりどこからどう見てもペケJらしい。

 「オマエ漫画の読みすぎだろ」
 「ペケJじゃないとしたら……」
 「オイ、まだそんな漫画みたいな話」
 「でも昨日、ペケJの他にもう1匹いたんスよ!」

 そう言えば起きてからペケJのダチの姿を見ていない。窓は開けたままにしてあったから、オレが眠っている間に家を出た可能性だってあるけれど、そうじゃないとしたら。
 もちろん目の前の謎の人物に面影はない。元々ペケJみたいに特徴的な目印がある猫ではなかったし、少し小柄などこにでもいそうな黒猫だった。ペケJのダチとの共通点と言えば、毛の色くらいだろう。目の前の奴の髪の毛は恐らく黒い。だとしても、日本人の髪色なんて何もしなければほとんどが黒だ。
 少なくともオレの記憶のない間に知らない誰かを招き入れたとか、外から勝手に人が侵入してきたとか、それよりもまだ可能性はある……のか?
 漫画を手に取ってペラペラと捲る。主人公の女子が学校の窓から落ちた瞬間何故か猫になってしまって、必死に周りに助けを求めて回るストーリーだ。昨日読んだのは、彼女が思いを寄せる男子が主人公のことに気付き始めるところまでだった。いや、まさか。

 「いって!」
 「こんな時に漫画読んでんじゃねぇよ」
 「いや、これ昨日読んでた漫画なんスけど、内容がなんか似てて……」

 漫画のストーリーを説明すると場地さんは呆れた様子だった。信じられないと思うしオレだって信じられない。

 「じゃあ何だぁ?コイツが千冬のこと好きな女で?オマエに助け求めてるっつーの?」
 「オレのことどう思ってるかとかじゃなくて……!重要なのはコイツの正体が、昨日ペケJが連れてきた猫なんじゃないかってことっスよ!」

 コイツが実は知り合いの誰かだとかいう、少女漫画的展開は別に求めていない。いや、見た目は人間、中身は猫だなんて漫画的展開でしかないけれども。重要なのはコイツが何者なのか、ということだ。

 場地さんは部屋を見渡してから、置いてあった猫用フードを手に取った。数粒掌に出して、先程から瞬きしかしていないコイツの目の前に差し出す。

 「ホレ」
 「?」
 「昨日ペケJのダチはこれ食ってたんだろ?」
 「え、は、はい……」
 「もしコイツが人間だったら猫の餌なんか食わねぇだろ。でもマジで猫だっつーなら……」

 カリッ

 「「!?」」
 「く、食ったぞ……」

 顔を近付けて匂いを嗅ぐ様な素振りをした後、そいつは何の躊躇いもなく猫用フードを口にした。しかも、自分の指で摘まんで食べるとかそういうことではなく、場地さんの手から直接食べたのだ。人間のすることとは思えない。
 場地さんと顔を見合わせる。問題は解決したようで何も解決していなかった。

 「マジかよ」
 「マジでペケJのダチ?」

 数粒餌を食べたそいつは、ペロリと唇を舐めた。そういうことをされると、本当に猫なんじゃないかとしか思えなくなってくる。
 
 「とりあえずこのままにしておけねぇよな」
 「そ、そっスね……」
 「つーかこいつオス?メス?」

 場地さんの中でこいつは猫であるという結論に至ったらしい。男子、女子、という言い方をやめた場地さんは、そいつに詰め寄っていろんな角度から観察している。
 顔はメス……と言うか女子っぽい。でも確証はない。年齢はオレらと同じくらいか少し下に見えるけれど、それが何かの参考になるとも思えなかった。

 「千冬、何か服貸せ。オスでもメスでも流石に全裸のままはマズイ」
 「は、はい!」
 
 言われるがまま、押入れを漁って服を探す。オレが着てもオーバーサイズのパーカーを引っ張り出して、場地さんに渡そうとした。

 「いや、オレがやんのかよ」
 「……そっスね」

 てっきり場地さんに任せてもいいのだと思っていたら、そうではなかったらしい。言われてみればそうだよな、と考えながらもパーカーを持ってじりじりとそいつに近付く。

 「……ちょっとだけ、ゴメンな」

 相変わらずそいつは逃げも抵抗もしない。まだ一度も言葉を話すのを聞いていないけれど、猫なのだから人語を話せないのだとしたら、それはそれで納得だなと思った。
 とりあえずパーカーを被せてはみるものの、オレらが普通に服を着るように袖を通したりはしてくれない。仕方がないので袖の反対側から手を突っ込んで、そいつの腕を掴んでなんとか袖を通してくれるよう誘導する。相変わらず無抵抗なので、すんなり服を着せることはできた。

 「ド貧乳すぎてオスかメスかわかんねぇな」
 「……」

 後ろから視線を感じた理由はそこだったのか。
 あまり見ないように気をつけてはいたものの、着替えさせていれば嫌でもそれは見える。こんな状況なので興奮も反応も全くしなかったけれど、確かに性別の判断は無理そうだった。

 「しょうがねぇな」
 「ば、場地さんっ!?ちょ、場地さ……ま、マジか……」

 大股で場地さんが近付いてきて、勢いそのままに布団を捲って中を覗いた。パーカーを着せたのは上半身で、下半身は布団に覆われたままだ。恐らく何も身に着けていない。

 「んー……メス!」
 「そ、そっスか……」

 そのまま下半身が隠れるくらいパーカーを引っ張ってから、場地さんが布団を剥ぎ取る。顔つきのせいもあって、メスだと断言されればもうオーバーサイズのパーカーを着た女子にしか見えなくなった。自分の部屋に見知らぬ女子がいる。変な感じだ。

 とりあえず今はまだスタートラインに立ったところだろう。これからのことを考える必要がある。
 二人して女を見下ろしていたところで、不意にオレの腹が音を立てた。当たり前だけど、起きてからまだ何も食べていない。

 「とりあえず朝飯食えよ」
 「そうします」
 「あとさぁ、コイツなんか呼び方考えねぇ?不便だし」
 「確かに。じゃあ……」

 もう一度昨日読んでいた漫画を手に取る。最初に思い浮かんだのは、漫画の主人公のことだった。

 「例の漫画の主人公がって名前なんで、で」
 「……急に生々しいな」
 
 言われてみればモロに人間の名前がついて、存在を余計にリアルに感じる。でも便宜上こうするのがベストだと思うし仕方がなかった。他に呼び方の候補を出すのも難しい。
 初めて呼ばれた名前なのに、何故かという名前に反応するようにしてそいつが……が首を傾げた。普通の女子が同じことをすればあざとさを感じさせるその仕草が、やけに可愛く感じる。猫補正は恐ろしい。

 「さっき猫用の餌食ってたけど、この見た目であれ食わすのちょっと罪悪感あるよな」
 「それわかるっス。なんかいじめてるような気分になると言うか」
 「人間でも猫でも食えるやつ、なんか用意してやれよ」
 「っス……」

 場地さんとペケJを部屋に残して、朝食を準備しに行く。料理らしいことはできないので、自分用の朝食と、白米に鰹節をかけただけのありがちなものを用に準備して部屋に戻る。
 部屋ではペケJがに近寄って匂いを嗅いでいた。姿が変わって驚いているのかもしれないけれど、匂いだけは変わっていないはずだ。見つめ合う二人の間には、何か通じ合うものがあるんだろうか。
 ペケJにはいつも通り餌皿にフードを、にはご飯の入った茶碗を目の前に置く。人間の女子が茶碗に顔を突っ込むところを見るのは嫌だったので、スプーンも一緒に持ってきた。ご飯を一口分くらいスプーンにすくって、先程場地さんがやったように目の前に差し出してみる。はずっとペケJが飯を食うのをガン見しているから、腹が減っているのだとは思う。

 「ほら、こっちも美味いぞ」

 匂いを確認して暫く見つめて、また匂いを嗅いでを繰り返してから、ようやく口を開けてくれた。咀嚼してから飲み込むまでを見守ってから、またもう一口差し出す。食べてくれて一安心だ。僅かに微笑んでくれたのは、猫の時と違ってわかりやすくていい。
 オレが飯を食う間は、場地さんが変わっての世話をしてくれた。見た目は人間だけれど中身は猫なので、猫の面倒を見ているのと同じだと思えば苦ではないのかもしれない。まるで猫と接するかのように「オマエいつもはどこに住んでんだ?」とか「たくさん食えよー」とか話しかけながら、次々に白米を口の中に放り込んでいく。

 朝食を食べ終わると、ベッドから下りてこようとしなかったがゆっくりと動き始めた。床に足をつけ、たどたどしく歩き始める。二足歩行に慣れないせいだろうか。
 少しだけ歩いてオレのそばまで来た後はオレの髪に触れた。何が起こるのか、場地さんと2人黙って見ていると、そのまま隣に座りこんで、匂いを嗅いだり観察するようにじっと見つめられる。一通りオレの観察を終えると、今度は場地さんの隣に行って同じことをし始めた。

 「、ペケJと同じ匂いすんな」
 「昨日風呂入れたんで。ペケJの猫用シャンプー使いました」
 「……ふーん」
 「……!?いやいや、場地さん何か変な事考えてません!?」
 「いや、別に……」
 「昨日は完全に猫だったっスよ!」

 冗談を言い合って2人で笑っていたはずが、いつの間にか部屋は沈黙に包まれた。
 自分で言っていて信じられないけれど、昨日までは猫だったのだ。何がどうなって人間の姿になったのかわからない。これからはずっとこの姿なのか、それとも一晩眠れば元の姿に戻るのか。
 今は仕事に行っていないものの、夜になれば母ちゃんも帰ってくる。追い出すことはできないとしても、こんな状況、どうやって説明する?いくらが大人しくても、隠し通すことなんてできないだろう。

 「どうなっちゃうんスかね、
 「……オレにもわかんねぇ」

 先程からはペケJと戯れている。手を使ってじゃれているように見えても、本人は猫パンチをしているつもりなんだろうか。
 オレと場地さんが二匹を見つめると、ペケJとは戯れるのをやめてこっちを見つめ返した。やがて顔を逸らして、何やら二匹は顔を近付ける。今は一匹の猫と一人の人間にしか見えないので、まるでペットとスキンシップを取っているみたいだ。

 短時間のうちにやりとりは終わったのか、ペケJがジャンプして窓枠へ跳び移った。にゃあと小さく鳴いてから、いつも外に遊びに出かけるように、そのまま何処かへ姿を消す。
 それを合図にするかのようにしても立ち上がった。たどたどしい歩みのまま、オレの目の前にやってくる。そのまま胡坐をかいたオレの足の上に着地して座り込んだと思えば、胸に手を当てて身体を支えながら膝立ちになった。
 ほぼ同じ目線の高さで視線が合わさる。急に至近距離で見つめられると、視線のやり場に困った。相手は猫で人間ではない。昨日あれだけじゃれ合った相手なのに、この姿で密着されると妙に緊張する。

 「……千冬」
 「喋れんのかよ!?」
 
 はオレの問いに答えなかった。一度だけ名前を呼ばれた後、頬と頬が合わさる。頬ずりされているようだ。

 「千冬」 
 「な、何!?」
 「……ありがとう」
 「え?何が?」

 耳元でお礼が囁かれる。肩を掴んで目線が合うようにすると、真っ直ぐ見つめ返された。

 「……ありがとう、あの時」
 「あの時?」
 「……怖かった」
 「?」
 「……助けてくれて、ありがとう」

 オレの言葉を理解しているのかはわからない。一方的にも感じる言葉の羅列を聞き返すことしかできなかった。
 は隣に座る場地さんにも同じように頬ずりし、場地さんは黙ってそれを受け入れていた。この頬ずりにはどんな意味があるのだろう。
 もう一度オレの所へ来ると、今度はゆっくりと顔を近付けてきた。反射的に目を閉じる。鼻に柔らかいものが当たる感覚がした。の鼻とオレの鼻が触れ合っているだけなのに、すごく切ない気持ちになる。
 まだ体温が残っているうちに窓際に向かったは、一度オレたちを振り返って小さく微笑んだ。何だか嫌な予感がする。
 立ち上がって窓際に走ろうとした瞬間、は窓に足をかけて、そのまま外へと飛び出した。落ちた、と言うよりも明らかに意思を持って自ら身を乗り出したようにしか見えなかった。少し遅れて場地さんも窓まで走り出す。

 「クッソ!」

 は先程の場地さんとオレの会話の意味を理解していたんだろうか。もしかして、自分がここにいることで迷惑をかけていると感じた?あんなこと、本人の目の前で話すんじゃなかった。
 後悔や不安、焦りが入り混じる中、窓の下を2人して見下ろす。窓までは大した距離じゃなかったのにまだ息が乱れていた。
 
 オレと場地さんが目にしたのは、1階の植え込みに引っかかるオレのパーカーだった。無言でオレたちは一度顔を見合わせてからまた下を向く。パーカーの数メートル先に黒猫が一匹佇んでいた。あれはじゃない、恐らくペケJだ。
 1階に下りようと窓から離れようとしたところで「オイ!あれ!」と場地さんが声を上げた。もう一度戻って、身を乗り出すようにして下を見下ろす。
 植え込みから一匹の黒猫が姿を現した。数メートル先にはペケJがいる。黒猫は軽い足取りでペケJの方に向かって行く。途中、一度だけ振り返って上を見上げた。にゃあと鳴く声が小さく聞こえる。またすぐに歩き始めた黒猫はペケJと合流し、二匹はそのまま見えなくなった。

 「あの黒猫、だよな」
 「多分」
 「じゃあ無事ってことでいいんだよな」
 「……多分」
 「はー……。あれはマジでビビったわ」

 大きく息を吐きだした場地さんは、ずるずるとベッドにもたれかかった。流石に最後のの行動には肝を冷やしたようだ。オレも隣に座りこんで天井を見上げる。
 ありがとうって。別にオレ何もしてねぇのに。

 「、最後喋ったスね」
 「一方的だったけどな。意思疎通してたっつーか、台詞言ってるみたいな感じしたな」
 「……言われてみれば」
 「助けてくれたって言ってたけど、前に何かしてやった?」
 「……」

 場地さんに言われるまでは、昨日家に入れて餌を食べさせたお礼だと思っていた。でもよくよく考えてみれば、「あの時」とか「怖かった」とか、微妙に内容が噛みあわない。

 もう数か月前のことになるけれど、学校帰りに猫を助けたことを思い出した。助けたと言っても、カラスが群がっていたのを追い払っただけだ。助けた猫は即行で茂みの中に走って逃げて、身体の状態も、どんな猫だったのかもほとんどわからなかった。怪我をしていないか心配で少しの間猫を探してみたけれど、結局その日見つけることはできなかった。
 暫くの間気にはなっていたものの、手掛かりも何もない状態ではどうしようもなかった。でも言われてみれば、あの時の猫も黒猫だったような気もする。

 「ハハ、じゃあ今回のは計画的犯行か?ペケJは共犯者だな」
 「最初からこのつもりでオレん家に?」
 「ただ礼が言いたかったんじゃねぇの?」
 「……それで猫が一時的に人間の姿になった?」
 「ブッ飛んでるけど、夢じゃねぇよ」

 夢じゃない。それは一番オレがわかっているつもりだった。頬ずりされた柔らかさも、鼻に触れた感触だって今でもはっきりと思い出せる。少しの間だけど言葉も話していた。あれは嘘でも幻でもない。
 猫の神様みたいなのがいるんだろうか。それとも魔法使いみたいな、不思議な力を持った猫が存在する?どれも人に話して聞かせられないような妄想みたいだ。でも、どれだけ考えたって答えは出ないし永遠にこの謎が解けることもない。これから先、場地さん以外の誰かに話すこともないと思う。
 窓の外を眺めても二匹の黒猫の姿は見えない。きっと今晩は何事もなかったかのように、ペケJ一匹が戻ってくるんだろう。





























「んー……メス!」を場地さんに言わせたかった
2022/09/03