夜と犬を抱く


 家に誰もいないことをいいことに、普段なら絶対に出歩かない時間に外に出てみた。特別に治安が悪い地域でもないけれど、不良や変質者がいないとは言い切れない。ましてや、こんなに夜遅くなら尚更だ。
 自分への言い訳として、これは犬の散歩ということにしておいた。門限を無視してファミレスで過ごしてから帰宅すれば、当然帰宅時間も遅くなる。だからと言って、犬を散歩に連れて行かないのは可哀想だ。だから、こんな時間にも関わらず犬と一緒に家を出た。
 犬は散歩に行ければいいので、時間を気にしている様子はない。少し小柄な中型犬の彼は、たまに私のことを振り返りながら、千切れんばかりに尻尾を振って、いつもの散歩コースを堪能していた。私も普段とは違う景色が新鮮で、人がほとんどいない夜道は空気が澄んでいるような気さえして、気分がよかった。

 武蔵神社の近くまで来ると、大型のバイクがたくさん並んでいるのが見えた。そう言えば回覧板で、地域の不良が夜遅くに武蔵神社周辺にたむろしていると見たことがあった。母が物騒だとこぼしていたのはこれのことかと納得する。昼間はこんなことになっていないので、珍しくてまじまじと見てしまった。
 人気のなかったバイク置き場に、急にけたたましいエンジン音が響いた。驚いたのは私だけではなかったようで、一瞬力の緩んだ手元からリードがすり抜ける。気付いたときには遅く、犬は勢いよく走り出していた。人を噛むことはないけれど、車やバイクに轢かれてしまうかもしれない。急いで追いかけるものの、私の脚力でそう簡単に追いつけるはずもなかった。
 道路に飛び出さなかったのは一安心だとして、彼が向かったのはよりによって武蔵神社の方向だった。大声で呼ぶ声も空しく、階段に侵入した後ろ姿が見えた。犬が神社に入るのはマズすぎる。すぐに捕まえなければ。ほとんど電灯もない暗闇の中、ひたすらに彼を追いかけて階段を駆け上った。

 こんな時間なのに途中からぽつぽつと人影が見え始めた。あれだけのバイクが停まっていればそれに乗って来た人間がいるわけで、階段を上りながら冷や汗が伝うのがわかった。回覧板に書かれていた「たむろしている不良たち」が、よりによって階段を上った先にいるのだと薄々気付きはじめる。道中誰も私に声をかけてこなかったけれど、上に上るにつれて人が増えているのは明白だった。
 必死の思いで階段を上りきった先には、一目で何人いるのかわからないくらいの人数が集まっていた。暗くてよく見えないけれど、全員お揃いの服を着ているようだ。息を整えていると可愛い犬のお尻が人ごみの中に消えるのが見えて、私は泣き出したくなった。



* * *



 「集会始めっぞー」

 ドラケンが声を上げて、集まった全員が総長と副総長のいる方を向いた時だった。

 「ワン!」

 明らかに人の声ではない音に、その場は騒然とする。ドラケンの声掛けにふざけて返す奴がいるとは到底思えない。何事かと全員が辺りを見渡していると「三ツ谷君!」と叫ぶ声が聞こえて、声のした方を振り返った。
 振り向いたと同時に飛び掛かって来たのは、人間ではなく犬だった。あまり大きな犬でなくても、急に来られれば驚かないはずがない。体勢を崩しつつ何とかして受け止めはしたものの、相変わらず周りは騒然としていた。状況が飲み込めていない奴らは若干ピリついている。オレに抱かれている犬だけが楽しそうにしているように見えた。

 「オイ、どーした?」
 「いやドラケン、それが……」
 「こらー!たかしー!」

 状況を確認しに来たドラケンに説明しようとすると、遠くから名前を呼ばれて焦った。これだけの人数が集まっているのに、何故かオレだけが名指しで怒られていることも謎だ。お袋か?いや、そんなはずはない。
 犬の乱入に加えオレの名前が呼ばれたことで、周りは更に騒がしくなった。「は?」「何が起こってんだ?」「三ツ谷君?」と口ぐちに囁く声が聞こえる。
 呆気にとられていると「すみません、通ります、ごめんなさい」と女の声がした。言い返したり楯突く奴はいないようで、人ごみが静かに割れていく。暫くして肩で息をしながら現れた女子が、オレの方を見て「いた!たかし!」と叫んだ。

 「すみません!大丈夫ですか?」
 「あ、いや……」
 「もうダメでしょたかし!本当にすみません、お洋服汚したりしてませんか?」
 「は、はぁ」
 「噛んだりする子じゃないんですけど、お怪我とかは?」
 「大丈夫……」
 「よかったぁ。捕まえてくれてありがとうございます。音にびっくりしたみたいで、急に走り出しちゃって……」

 小さな鞄だけ持った女子がこちらに近付いてくると、嬉しいのか犬が暴れはじめた。どうやら彼女が飼い主のようだ。

 「たかし!暴れないで!」
 「その犬、たかしっつーの?」
 「あ、はい。そうです」
 「へー。たかしねぇ」

 隣にいるドラケンがにやにやしているのが声だけ聞いていてもわかる。オレじゃねぇ、犬のたかしだよ。言い返したい気持ちはあるけれど、この場でこれ以上笑い者にはされたくない。
 飼い主はニヤつくドラケンに不穏なものを感じたのか、オレからたかしを受け取ると一歩後ろに下がった。こんな数の不良に囲まれて、怖がるなと言う方が無理がある。
  
 「ケンチーン?何事?」
 「それがさマイキー、たかしが乱入してきてよぉ」
 「は?たかし?三ツ谷がどうし」
 「もういいだろ!あー……散歩の邪魔してゴメンな!」
 「い、いえ、こちらこそお邪魔してすみませんでした」

 後ろから登場したマイキーの口を塞ぐと、別の意味で場がまたざわついた。まだ集会始まってないんだ、今だけは許せ。
 正確に言えばオレらが散歩の邪魔をしたわけではない。でも勘違いだとは言え怖い思いをさせてしまっただろうし、マイキーまで出て来たら更にややこしいことになる。さっさと彼女を返してしまう方が賢明だろう。
 たかしを抱きかかえた飼い主は、オレ達に頭を下げてから小走りでその場を後にした。兵隊の横を通り過ぎるときも、何度も頭を下げているのが見える。
 ドラケンが「襲ったりしねぇからゆっくり下りろよー!」と彼女の背中に向かって叫んだ。道は暗いし階段が続くので彼は優しさで言っただけだろうけど、正直今の彼女にとっては「襲いに行くから速く逃げろよ」なんて、さながら狩りの開始を知らせる号令に聞こえていてもおかしくはない。

 「『ダメでしょたかし』はウケんだろ」
 「たかし暴れないで!」 
 「……掘り返すなって」
 「三ツ谷の彼女が殴り込みに来たのかと思ったけど違ぇの?」
 「そんな彼女怖すぎんだろ」
 「つーか三ツ谷、テメェオレの口塞いだよな?」
 「あの状況は仕方ねぇだろ、マイキー!」

 突然の訪問者に、いつもの集会開始前よりも集団はざわついていた。この場にいる全員が状況を把握しているわけではないので、訳がわかっていない人間も多い。今の空気じゃ集会どころではない。
 マイキーは一人拗ねているけれど、ドラケンとぺーやんは大笑いしている。パーちんは相変わらずたかしの飼い主をオレの彼女だと勘違いしていた。どうせすぐ忘れるだろうし、お袋が突撃してきたと思われるよりはマシなので放っておいた。
 


 * * *



 たかし集会乱入事件から数日経って、オレは公園で運命的な再開を果たすことになった。犬のたかしの飼い主が正面から歩いて来たのだ。
 前と違って制服を着ているし、一人だった。たかしは一緒じゃない。絶対に彼女だとは言い切れないものの、顔が似ているのとここは武蔵神社の近くだから、あり得なくはない。
 横を通り過ぎて行くのを黙って目で追っていると、視線に気付いたのか彼女が振り返った。今はオレも制服だから気付いてもらえない可能性はある。とりあえず笑顔を作って軽く手を振ってみた。不思議そうな顔でこっちを見ていた彼女は、始めこそ固まっていたものの数秒後にこちらに近付いてきた。怖がられてはいないようだ。

 「あの、もしかしてこの前の……?」
 「そう。君はたかしの飼い主だよね?」
 「そうです。本当にこの前はすみませんでした。集会?してたんですよね?」
 「ハハ、まぁね」

 特に重要な集会ではなかったし、集会の開始が遅れたとか、若干場が混乱したとか、そんなことは問題ではなかった。みんなオレの名前を叫びながら女子が乱入してきたのを面白がっていただけに過ぎない。つまり、今目の前にいる彼女だ。

 「たかし元気してる?」
 「はい、元気ですよ」
 「そっか」
 「うちの子の名前、覚えてくれてたんですね」
 「んー……覚えてたって言うか、オレも隆だから」
 「え?」
 「オレの名前、君の飼ってる犬と同じ」
 「……本当に?」
 「嘘つく理由ないよ」
 「そうだったんですか!?うわぁ、恥ずかしい……」

 本気で恥ずかしがっているようで、彼女の顔はみるみるうちに赤くなった。偶然だったとは言え、知らない男の名前を呼び捨てで連呼していたとなれば、恥ずかしくもなるだろう。
 あの場でオレに恥をかかせたであろうことを謝り倒す彼女に顔を上げさせて、気にしないようにと宥める。言わないほうが良かったかと思いつつ、怒っているわけでも何か問題が起こったわけでもないので、笑い話なんだと説明した。恐らく歳もほとんど変わらないし敬語も必要ないと言うと、少し困ったような表情で彼女が苦笑した。

 「それにしても今時、犬の名前がたかしってなかなか古風だよな」
 「珍しいかな?」
 「食べ物の名前とか、そういうのが多くね?」
 「言われてみればそうかなぁ。あの子は元々おじいちゃんが飼ってた犬なの。今おじいちゃん入院してるから、うちで預かることになって」
 「なるほどね」

 どうやらたかしの名付け親は彼女の祖父らしい。ペットにつけるのにはあまり馴染みのない名前だと思うけれど、祖父の世代の人がつけたと言われれば納得だ。

 「でもたかしって名前、私は好きだよ」
 「……」
 「あー……今のはうちのたかしの話ね!隆くんのことじゃなくって!でも、隆くんの事じゃないって言うのも何か違う……?」
 「……言いたいことはわかるから」

 親くらいしかオレのことを隆と呼ばないので、何度も名前を連呼されると照れる。犬のことだとわかっていても、名前が全く同じなのだから仕方がない。
 もし彼女の祖父が「たかし」ではなく「たけし」と名付けていれば、こうして彼女と話すことも、どこかむず痒い感情になることもなかっただろう。偶然であり不思議な縁だと思った。

 「……そんなことよりさ、君はなんであの時間にあんなとこいたの?いや、犬の散歩っていうのはわかってんだけど」

 話題を変えようと、気になっていたことを尋ねてみた。
 深夜に近い時間に犬と一緒だとは言え、女が外をうろつくのは危険だ。説教をするつもりはないし、そもそもオレが説教できるような立場にないのは承知の上で、疑問として聞きたかった。もし妹が同じくらいの歳だとして彼女と同じことをしようとしたら、オレなら止めるだろう。

 「あの日家に一人の日でね、普段親に止められそうなことしてみたくなったんだ」

 話を聞いていると彼女の家庭はごく普通の、幸せそうな一般家庭といった感じだった。当然ながらそんな家庭で育てば深夜帯の外出など許されるはずがない。それでもダメだと言われれば余計にやってみたくなるのが人間と言うもので、彼女もその本能に従っただけの話だった。

 「あの日は門限過ぎまで友達とファミレスでお喋りして、その後散歩に出かけたの」
 「へー。門限って何時?」
 「塾のない日は8時」
 「8時かぁ」

 バカにしているとかそういう訳ではなく、微笑ましいと思った。彼女にすれば、親のいない日に8時過ぎまでファミレスで過ごしてから深夜に出かけるのが、精いっぱいの秘密の反抗なわけだ。
 そんな初々しい気持ちは、とうの昔にどこかに置いてきてしまったなと自分を振り返る。彼女の気持ちは理解しているつもりだし、自分の通って来た道と同じなのは確かだ。オレの場合は、それが突き抜けてしまっただけで。
 
 「オレが言うのも変な話だけど、夜中に出歩くのは危ねぇと思うよ?」
 「……そうだね」
 「襲われたりしても抵抗できねぇだろ?オレだったら殴り返すけどさ」
 「……」
 「でもさすがに8時はちょっと早いよなぁ」

 きっと彼女はそんなことわかってるとオレに言い返したい気持ちでいっぱいだろう。不良には言われたくないとも思っているかもしれない。
 だとしても、単純に心配だった。この前オレらに遭遇したことでもう怖い思いは経験済みかもしれないけれど、もっと危ない奴やヤバい奴なんてゴロゴロいる。男でも絡まれて怪我をするようなこともある。
 オレの主張が正論なのは間違いない。だからと言って頭ごなしに夜中に出歩くなとか、危ないだとかそんな当たり前のことを言うんじゃ、彼女の親と一緒だ。オレは彼女に対して説教をしたい訳ではない。

 「だからさ、こうしない?」
 「?」
 「これから夜遊びに行きたくなったら、オレのこと呼んでよ」
 「……隆くんを?」
 「家はこっそり出てきてもらわなきゃだけど、その後は一緒にいるし。バイクあっから、ケツ乗せてやるよ」
 「いいの?」
 「おう。めちゃくちゃ気持ちーぞ」

 彼女は最初、状況が上手く飲み込めていないようだった。夜遊びを咎めてきた相手が、まさか一緒に悪い事しようと誘ってくるなんて思わないだろう。こちらを窺う様な視線で見つめてきた彼女に笑顔を向けると、少し不貞腐れていたような表情が緩んでいくのがわかる。オレは彼女の敵ではなく、味方で在りたい。ただそれだけのことだった。

 「たかし」繋がりで親近感みたいなものがあったのかもしれない。たかが2回、偶然会って話しただけの相手なのに、何かしてあげたくなった。何かと言っても夜遊びに付き合うくらいのことで大したことはしてあげられないけれど、そんなことでも彼女が満たされるのならそれで構わない。
 呼んでくれと言ったからには連絡先を知る必要があると言う事で、早速連絡先を交換した。送られてきた連絡先にと表示されて、初めて彼女の名前を知る。

 「、な」
 「うん。すぐそこの武蔵高校通ってるの」
 「えっ、高校生?」 
 「そうだけど?」
 「マジか、年上だったんだ。オレ中3だから」
 「本当?隆くん、大人っぽいね」

 年上から「大人っぽい」なんて言われ慣れていないオレは、その一言で舞い上がったし照れた。単純脳かよ。




























集会に場地は不参加という設定です。場地がいたら「たかし」は場地に飛びついていたと思うので。
2022/09/10