※夢主の姉(名無し)が出てきます

唇に棲む悪魔


 理由も行先もなくこの街を歩くのは、オレらにとっての日常だ。
 目的は途中で見つける。知り合いに声を掛けられることもあれば店に入ることもあるし、喧嘩を売られれば相手を殴る。人を殴った日はツイてない日だとか、そんなネガティブな感情もない。何も起こらないのならそれはそれでよし、気にすることもない。
 そうやってほとんどの日を楽しく、行き当たりばったりに過ごしてきた。最悪の日に分類される日はほとんどない。
 にも関わらず、今日は珍しく最悪の日になりそうな予感がした。目の前に迫る女が全ての原因だ。

 「あれー?六本木ってこんなに狭かったっけ?なぁ、灰谷?」
 「……げっ」 
 「兄ちゃんそれ聞こえるよ」

 明らかに面倒くさそうな顔で兄貴が溜め息を吐いた。夜とは言え明るい街なので、兄貴の反応は向こうにバレているかもしれない。
 この辺りでオレらを探してうろついていたのか、別の目的地に向かう途中だったのかは知らない。どちらにせよ、普段ここいらを生活圏にしている奴らではないのは確かだ。

 「偶然だからな?」
 「まだ何も言ってねぇし」
 「お前が言いそうなことくらい察しがついてんだよ。とりあえずちょっと顔貸せや、蘭」
 「えー……」

 兄貴を指名したは、少し離れた路地裏に兄貴を連れて行く。見た目はどう見ても女なのに、口を開くとあんな感じなのは通常運転だ。兄貴もよく毎回あれに付き合ってやるなぁと感心する。
 その場に残されたのはオレと、の連れていた奴の妹だった。姉がオレらに声を掛けた瞬間、兄貴よりも深く溜め息を吐いたのが妹のだ。

 「今日もオレら居残りだな」
 「ごめんね竜胆くん。お姉ちゃんちょっとピリついてるんだよね」

 申し訳なさそうな表情でオレを見上げるが僅かに姉を振り返った。
 彼女とは一応顔見知りの仲で、こっちは姉よりかなりまともだと言うことは既にわかっている。噛みつかれたり暴言を吐かれることはまずない。そういう意味では安心して話しかけることができた。
 聞けば向こうの兵隊が数人殴られたらしく、チームの頭である姉はちょっとどころではなくかなりキレているようだった。何が原因かは知らないけれど、普通のチームなら一大事だ。
 そんな事情を語ったが溜め息を吐きながら言葉にして「面倒くさいよねぇ」とこぼす。相変わらずな彼女の反応に、昔の事を思い出した。



* * *



 初めてオレが二人と顔を合わせたのは1、2年前くらいの祭りの日だった。先頭きって歩くオレと兄貴、その目の前に現れたのが兵隊を連れて歩く姉とだった。
 兄貴と姉は元々顔見知りだったようで、屋台が並ぶ道の真ん中に立ち止まって軽く挨拶を交わしていた。向こうの集団は登場の仕方から受ける印象よりも、意外にも友好的だった。もっとバチバチに殺りあうのかと思っていたのに、それどころか姉は横にいたを前に突き出すと、自分の妹なのだと嬉しそうに紹介し始めたのだ。

 「蘭には話したことあったよなぁ?妹のだよ」 
 「……はじめまして」
 「いずれうちの副総長にするから覚えとけ」
 「やめてよお姉ちゃん。私やらないし」
 「今はこう言ってるけどまぁ、そういうことだからさ」

 照れだとか謙遜だとかそういう雰囲気は微塵も感じられず、この場にいる誰もが本気でにその気がないのだとわかった。空気が読めていないのも笑顔なのも姉だけで、その他の人間はどう返すべきなのか、正直反応に困っていた。
 
 「あ、言っとくけど手ぇ出すなよ?」
 「えー?どうしよっかなぁー」
 「どうしよっかなーじゃねンだよ、マジ殺すぞ?」

 やめときゃいいのに兄貴が茶化すと、夏なのにその場の空気が冷たくなった気がした。姉の目が笑っていない。
 一触即発かと思えば意外にもそのまま向こうが道を空け、オレらと後ろの数人が何事もなく横を通り過ぎて行く。通る時にチラ見したの顔は控えめに言っても死んでいて、不思議な姉妹だという印象だけが残った。

 姉の仕切るチームについて当時は何も知らなかったので、その後兄貴にあれこれ聞いた。兄貴に対して「殺す」なんて物騒な言葉を使う人間は男でも少ないし、それに対して兄貴が寛容な態度なのも疑問だった。
 あそこはオレらとは別のコネや人脈を使っているチームで、彼女はなかなかやり手だと言う。オレらみたいなの相手だと流石に殴り合って手も足も出ないとしても、そこらの不良くらいなら余裕でボコれると兄貴が言うくらいだから、喧嘩の腕もそれなりなんだろう。
 女の割に口が悪いだけで、何もしなければオレらに害はないので好きにさせていると兄貴は溜め息を吐いた。逆に言えば、オレらが何か仕掛ければ向こうも本気でやり返してくる準備があると言う事だ。関わることはないだろうと判断したオレは、それ以上考えるのをやめた。
 こうして、一度会えば忘れられない強烈なインパクトを残して去って行ったのが姉妹だった。それから何度か顔を合わせたことはある。オレはほとんど話さないけれど、いつ会っても姉妹一緒だった。毎回は浮かない表情で、強烈すぎる姉よりも別の意味で気になっていた。



* * *



 相変わらず姉と兄貴は何やら話し込んでいる。残されたオレとはガードレールにもたれかかりながら、二人の話が終わるのを待つしかないらしい。

 「なぁ、もしかしての姉貴、兄貴に気でもあんの?」
 「何で?」
 「毎回絡んでくんだろ?あれ、わざとだろって思ってんだけど」

 沈黙が嫌なわけではなかったけれど、丁度いいので前々から疑問に思っていたことを正直に聞いてみる。それだけのことなのに、が隣で小さく噴出した。

 「お姉ちゃんが蘭くんを?」
 「そう」
 「絶対にないから安心して。むしろお姉ちゃんは蘭くんのこと嫌ってる」
 「マジかよ」
 「お姉ちゃん彼氏がいるんだけど、昔蘭くんに殴られて前歯2本折られてるんだよね」
 「……それが兄貴のこと嫌ってる理由?」
 「お姉ちゃんあんなだけど彼氏のこと大好きなの。お金ない彼氏の代わりに前歯治してあげたりして大変だったんだよ?」

 あれが将来オレの義姉になることがあったら嫌だなと思っていたので、その未来が絶たれたことには安心した。でも姉が意外と一途で、男に尽くすタイプだったという情報は知りたくなかったかもしれない。

 「お姉ちゃん粘着質なところあるから、治療費分は蘭に働いてもらうって言ってた。だからこうやって困ったことがあると、相談してるみたい。この話蘭くんには秘密ね?」 
 「兄貴、面倒な奴相手にしちまったな」
 「本当にね。同情する」

 こんなにと話したのは今までで初めてだった。夜で顔色が分かりにくいのもあるかもしれないけれど、心なしか表情は明るく感じる。少なくとも初見が今くらいのテンションだったら、顔が死んでるとは思わなかっただろう。

 「面倒だけど、姉貴なりに大事にしてんだろ。彼氏のことも、のことも」
 「……私は迷惑してるけどね」
 「初めて会った時、将来オマエを副総長にするって言ってたよな」
 「そんなこともあったね。私にはそんな気ないんだけど」

 相変わらずの考えは変わらないらしい。何が彼女をこうさせるんだろう。
 オレも兄貴も同じ環境で育って、なんとなくこういうことになった。兄貴に合せるっていう考え方をしているわけじゃなくても、自然と思考が同じ方向を向いている気がする。小さな食い違いとか生まれ持った上下関係、好みの違いなんかはあれど、この姉妹程正反対の考えを持ったことはないかもしれない。

 「何がそんな嫌?喧嘩が嫌いとか?」
 「喧嘩は嫌い。お姉ちゃんみたいに強くないし、痛いのも嫌」
 「ハハ、じゃあ向いてねぇな」
 「でしょ?独特の人間関係も苦手だし。でも……」

 下を向いて話していたが顔を上げて、姉の方を見た。同じようにしてオレも顔を上げる。オレたち2人の姉と兄は、道路を隔てた暗い路地裏で変わらず情報交換している。
 深呼吸したが浅く息を吐きだした。また少し顔を俯かせて、小さな声で続きを呟く。

 「一番嫌なのは、私じゃなくなっちゃうこと、かなぁ。お姉ちゃんと一緒だとあれが有名なの妹だよって言われる。みんなが求めてるのは私じゃなくて、の妹だから」
 「……上が有名だとお互い大変だな」

 特に気にしたことはなかったけど、オレらと似たようなものなんだろうか。でもだからどうしたって話だし、面倒事は兄貴に舞い込んでくるわけだから、その方が気楽だと考えているオレが能天気なだけなのかもしれない。

 「蘭くんも有名だけど、竜胆くんも同じくらい有名人だよ?」
 「そーかぁ?」
 「もしかして自覚ない?チームじゃないし上も下もない、灰谷兄弟で名前が通ってるのは個じゃなくて、二人に実力があるからだよ」

 こんな話、兄貴と話したこともなければ人に言われたこともない。同意する気にも否定する気にもなれず、今日一番気まずい気持ちになって、とりあえず眼鏡を触って誤魔化した。

 「同じ末っ子でも竜胆くんと私は全然違う。お姉ちゃんは何もできない私のことが心配なんだよ。だから側に置いておきたいって気持ちが強いんだと思う」

 「だとしてもとにかく、お姉ちゃんのチームに入るつもりはない」そう言ったの表情は寂しそうに見えた。
 兄弟と言っても歳もほとんど変わらず、価値観も近いオレら兄弟と、少し歳が離れていて明確な強弱関係のあるこの姉妹を比べてはいけないのかもしれない。一見似ているようで何もかもが違う。
 それでも、この場の勢いや思いつきでが話しているのではないということだけはわかった。内容が内容だけに、向こうのチームの人間に話せる内容でもない。だとすれば、このことを知っているのはごく限られた人間だろう。姉妹と言えど、二人の間のことはわからないものだ。

 「自分の中で結論が出てるならしょうがねぇな。あの様子だと簡単にはいかなそうだけど」
 「問題はそこだよね。多分お姉ちゃん、本気で取り合ってくれないし」
 「本気になられたらの負けだよ。物理的に」

 姉妹が殴り合うところを想像しても、が負けるビジョンしか見えなかった。実の妹を殴り倒してでも縛り付けておくような人間には見えないけれど、チームの頭なんて多少どっかのネジがぶっ飛んでるくらいじゃないと務まらない。姉は十分ぶっ飛んでるにしても、妹にそこまでの執着があるのなら想像の斜め上の行動をとってもおかしくない。

 「蘭くんは過保護なところある?」
 「あると思ってんのかよ?そんな兄貴、想像するだけでキモい」
 「えー、そうかなぁ?」
 「……うちの兄貴は論外として、の姉貴は間違いなく過保護だろうな」

 過保護という一言で済ませていいものなのか。でもそれ以外の言葉が見つからなかった。一旦それは頭の隅に排除して彼女の話に集中する。

 「お姉ちゃん本当に過保護でね、この前またチーム入れってしつこく言われて喧嘩したら『だったらアタシの代わりができるような奴連れてこい』って言うの」
 「どういう意味?」
 「お姉ちゃんより強い彼氏連れてこいってこと」
 「何だそれ、ラスボスかよ」
 「お姉ちゃんの彼氏は喧嘩弱いって言い返したら、お姉ちゃんが守るから関係ないんだって」
 「姉のイメージが崩れてってんだけど」

 自分の創ったチームに妹を引き入れたいだけならまだしも、ここまで来るとに同情する。自分のチームがダメなら他の男を、なんて聞いたことがない。そこまでする価値がにあるのかは別として、姉はそれを疑っていないわけだ。
 姉の存在を知っていて、妹を賭けて喧嘩を仕掛けに行く人間はいるんだろうか。兄貴の話を聞く限り普通の学生ではまず勝てる相手ではない。だからと言って、チーム事情を知るそこらへんの不良が姉に喧嘩を売るとも思えない。

 「……ねぇ、竜胆くん」
 「ん?」
 「竜胆くんはお姉ちゃんより強いよね?」
 「強いよ」

 間を開けずに返した。事実、負ける気がしない。好んで女を殴る趣味はないにせよ、相手がその気で来いと言うなら骨の1本や2本、折ってやる。
 だとしても、だ。……今これ、何の話をしていた?

 隣にいたはずのはいつの間にか正面にいた。ガードレールに軽く座っている足と足の間、下半身に触れそうなくらいに距離が近い。状況が飲み込めず、瞬きしながらの反応を待つことしかできなかった。

 「私がチームに入るのを拒否するにはお姉ちゃんの代わりが必要なの。それもお姉ちゃんを納得させられる人」
 「……さっき聞いた」
 「竜胆くんが強いのは知ってる。蘭くんもね。でも、蘭くんは絶対ダメ。どうしてかわかるよね?」

 兄貴は姉に嫌われてる。過去に自分の男を殴った前科があるからだ。どれだけ強くてもそんな男のことを姉が受け入れるはずはない。

 「竜胆くんは私のこと、として見てくれる?」

 少しだけ背筋を伸ばすと簡単に、吸い込まれるようにの唇に届いた。
 兄貴と姉貴はに被って全く見えないので、二人が今何をしているのかはわからない。それにしたってこんな場面見られたらオレらが何をしているか、向こうには丸わかりだろう。これは本気で姉が殺しに来るやつだ。

 「……見返りに何くれんの?」
 「何でもいいよ」
 「姉貴、どうなってもいいの?」
 「……お姉ちゃんがやめてって言うまでなら」

 絶対に面倒なことになる。しかもそこに自分から突っ込んでいくなんて完全に馬鹿のすることだ。だとしてももう止められそうにない。
 の手が伸びてきてオレの首の後ろで組まれた。そうなると密着するのは必然で、そのままオレも手を伸ばしての腰を抱いた。
 通行人はゼロではない。車や単車もたまに前を通り過ぎて行く。そんな状況で、路上で女とキスしまくっている。どう考えても頭がおかしい。見られることに興奮する性癖もないし、何なら道を隔てた先には兄貴がいる。身内にこんなところ見られるとか、普通なら考えたくもない。

 キスは止まらないし、何なら目の前にある服のボタンを外して肌に触れたい。ここが室内だったらとっくに押し倒して挿れてただろう。今いるのが路上だからなんとか理性が繋がっているだけだ。
 妹と男のこんな場面見せつけられたら、どこの誰でも男に殴りかかるに決まってる。オレは何やってんだ。
 これを見て姉が飛んできたら、ここで彼女を殴ることになる。それが今すぐでも、すぐじゃなくても、姉に勝ったその後は一体どうなるんだろう。責任取れとか言われるのか。責任を取って欲しいのはある意味オレの方だ。

 「もしかして私に利用されてるって思ってる?」

 まるで心の中を見透かしたような台詞に心臓が跳ねる。不安や焦りは顔にでていないはずなのに、の声を聞いていると考えていたことを何もかも話してしまいそうになる。
 唇を離したオレたちは至近距離で見つめ合った。すぐ後ろに通行人の気配。今のところラスボスはまだ現れていない。
 香水なのかシャンプーなのか、今になってから甘い匂いがすることに気付いた。

 「初めて会ったときから、竜胆くんのことは特別な男の子として見てたよ」

 こんな場面でもどうして女はまどろっこしい言い方をするんだろう。その疑問を口にできない代わりに、黙って唾を飲み込んだ。
 黙り込むオレに今度は向こうからキスしてくる。散々思っていたことだけど、特別なことをされているわけでもないのに何がこんな気持ちいいんだろう。キスが上手すぎないか。

 「お姉ちゃんにあの話されたときから、代わりは竜胆くんにお願いするって決めてた。でも私にとって竜胆くんは代わりなんかじゃないよ。竜胆くんがいいし、竜胆くんしか欲しくないの」

 その唇は真実を語っているのか?



























2022/09/17