ホルスの目
彼氏と別れた。
彼ははっきりとした理由も告げずただ「別れたい」とだけ、平日の夜24時前に電話で言って寄越してきた。仮に嫌だと返したところで向こうに気持ちがないのは明白なので、私には受け入れるという選択肢しか残されていなかった。ずるいと思った。1時間くらい涙が止まらなかった。涙が引っ込むと、今度は電話で終わらせる程度のことだと思われていたことに嫌気が差した。
翌日、明らかに寝不足の顔で出社した私を見て、周りのデスクの人が心配してくれた。寝不足なうえに目元が腫れているので、相当酷い顔をしている自覚はある。メイクでそれなりに誤魔化せていると自分に言い聞かせて家を出たけれど、表情だけでなく纏っているオーラが死んでいると言われてしまえば、その通りだと何も言い返せなかった。そっとしておいて欲しい気持ち半分、昨夜のことを愚痴ってしまいたい気持ち半分で、愛想笑いだけしておいた。
こうなるとわかってはいたけれど、結局昼休みには事情を話すことになった。内心どう思われているかは別として、女性ばかりの面子では、みんな当たり前のように味方をしてくれるし慰めてくれる。私も一緒になって、昨晩元彼に言えなかったことをたくさん愚痴った。反論してくる人は誰もいなかった。
そろそろ昼休みも終わりに差し掛かった頃、一人が今晩飲みに行こうと私を誘った。気分転換に誘ってくれているのはわかっているし悪くないとは思ったけれど、問題はこの子の指す「飲みに行こう」が「クラブに行こう」と同義だということだ。
よくそういう話をしているし、実際に誘われて何度か一緒に行ったことはある。その子は絶対に一人ではクラブに行きたがらないから、いつも誰かしら誘って連れて行っていた。今日は週末ではないけれど、その子にとっては曜日なんて関係ないのだ。もっと言えば、私が既に現在進行形で寝不足だと言う事も彼女には関係ないらしい。「陰鬱な気分は別の事で忘れるのが一番」だと言う。
何かが劇的に変わったりしないのはわかっている。あれこれ考えることなく、疲れきって泥のように眠る準備だと、私はその誘いに乗ることにした。平日の夜、しかも仕事終わりにクラブに行くなんて、元彼と付き合っていた私なら確実に断っていただろう。どうか、帰宅した瞬間に寂しさが倍になって襲って来ませんように。
* * *
わかってはいたけれど、クラブは前に行った時と何も変わらなかった。大騒ぎして飲んで、たまに知らない人とお喋りしたりする。
同僚はクラブ好きなだけあってそういうのには慣れていたし、一緒にいるのは最初だけで途中から様々な場所に顔を出していた。ただ、彼女との間にはクラブを出るときだけは必ず一緒に、というルールが存在している。若い頃にやらかした事があるらしく、それが苦い思い出になっていると言っていた。彼女が一人でクラブに来ないのはそれが理由だ。それでもクラブ通いをやめないのは、余程この場所が好きなんだろう。
自然と別行動になるのはいつものことなので、彼女が姿を消しても不安にはならなかった。探せばフロアのどこかにはいる。自分が騒ぎたければ集団に混ざるし、疲れたのならばお酒を飲めばいい。ある意味、彼女のスタンスは一緒にいて楽なのかもしれない。
一通り騒いで、同僚の姿が見えなくなったところで集団から身を引いた。体力は無限ではない。一応仕事終わりなので、ずっと騒いでいられる元気もない。喉も渇いていた。
集団から離れてお酒を口にしていると、先程まで忘れていたことを途端に思い出した。昨夜の出来事やもっと前の元彼との思い出、経費精算からプロジェクトの締め切りまで、忘れたいと思っていたこと全てだ。楽しむための場で現実逃避に失敗した私は、徐々に目の前が歪んでいくのを感じた。決して泣いているのではない。爆音とお酒がそうさせているのか、精神的に限界がきているのか、とにかくいつもの状態と違って、私が立っている場所と集団との間に暗い溝のようなものができ始める。
「なぁ」
「!?」
「そんなに驚くなよ」
急に覗き込まれるように声をかけられて、我に返った。黒く底の見えない溝は消えて、視界の歪みがなくなった代わりに、声をかけてきた人の綺麗な額に視線が向いた。ここで声をかけられることは珍しい事でもないし、驚くようなことではない。ただ、完全におかしくなりかけていたので、自分でも驚くくらいオーバーリアクションをしてしまった。
男性は顔を覗きこんだ角度のまま、薄く笑みを携えている。長い三つ編みが僅かに揺れていた。こんな特徴的な髪型の人は一度見れば忘れることはないので、初めて話す人だろう。
「ごめんなさい、ぼーっとしてた」
「だろうな。心ここに在らず、って目してた」
図星を突かれて心臓が大きく脈打った。事情を知らない人にすら自分の今の心境を見透かされて、狼狽える。お兄さんに悪意はないだろうから、曖昧に笑うしかなかった。
綺麗な顔の三つ編みのお兄さんが私の隣に移動する。覗き込む姿勢をやめると、彼の身長はそれなりに高かった。
「何か飲む?」と聞かれたので、先程と同じお酒を頼む。すぐに新しいお酒が手渡された。細身の身体にオーバーサイズの服を着た彼の左手には刺青が入っている。普通の会社勤めをしている私は、その左手でお酒を渡されるのに少し緊張した。
「よく来んの?」
「たまーにかな。同僚がクラブ好きで、誘われたら稀に」
「へぇ。オレも弟が好きで来てるから、似たようなもんか」
「兄弟仲良しなんだね」
「普通だろ」
「あの子が同僚だよ」と言おうと思ったのに、彼女の姿は見当たらなかった。見えないところにいるのはよくあることなので、気にせずにお酒を口に含む。
「その『稀に』が今日?」
「そう、いろいろあってね。明日も普通に仕事なのに、誘われて来ちゃった」
「明日仕事かよ。元気だな」
「それを言うならお兄さんもでしょ?」
勝手にアパレル関係か美容師か、その辺りの職業だという前提で聞き返す。お兄さんは「まぁな」とだけ返して言及しなかった。この場限りの関係であれこれ探るのは野暮なので、とりあえず相槌を打つ。
彼は少しだけ身体を屈めた。三つ編みの先端が私の肩に触れるくらいには距離が近い。
「もしかしてフラれた?」
「……何で?」
「こんなとこ稀にしか来ねぇんだろ?だとしたら仕事で失敗したか男絡みか。仕事で失敗してんのに、明日も仕事って言いながら飲んでたらただのバカだろ」
お兄さんが鋭いのか私が馬鹿なのか、とにかく彼の推理に感心した。私がわかりやすい反応を返してしまったのも一因にはあるだろうけれど、彼の言っていることは正しい。
お兄さんに昨夜の話を聞いてもらうつもりはなかった。昼間既に愚痴ったのもあるし、男の人にこの手の話は好まれないだろうと思ったからだ。彼だって楽しく飲みたくて来ているのに、知らない女の恋愛話に付き合わされるのは迷惑だろう。少なくとも私が反対の立場だったら、無難な答えしか返せない。
「当たり?」
「……まぁね」
「へー。可哀想になぁ」
これ以上話を広げるつもりもないので曖昧な返事をしておいた。それをものすごく落ち込んでいると捉えられたのか、直後に頭を撫でられる。この際だから距離の近さには目を瞑るとして、優しくされて悪い気はしなかった。こんな場なのであまり調子に乗ったり油断するのがよくないとはわかってはいても、辛いときに慰められると素直に受け取ってしまう。
「彼氏?」
「……うん」
「別れた理由は?」
「わからない。理由も聞かなかった。向こうは結論出てるし、聞くだけ無駄な気がして」
「さっぱりしてんな」
自分ではさっぱりしているとは到底思えなかった。悲しくて腹が立ってそれでほとんど来ないクラブにまで来ているのに、一人になると頭の中がそのことばかりに支配される。軽い幻覚みたいなものまで見えてくる始末だ。昨夜涙は流しきったつもりでいたけれど、お兄さんに声をかけられなかったら私はこの場でしゃがみこんで泣いていたかもしれない。
価値観のすれ違いや他に気になる人ができたとか、何かしら理由を聞いていれば今頃納得できていたんだろうか。どうしようもないとか聞くだけ無駄だとかは自分にとって都合のいい言い訳でしかなくて、何を言われても自分が否定された気になるのは変わりない。別れるということは全てを放棄することだと思う。関係の再構築や言動の反省、改善、そんなことを求める気がなくなるくらいには、どうでもよくなってしまったということだ。積み重ねてきた時間や関係性が壊れるのは一瞬だった。
「なぁ」
「ん?」
「じゃあ付き合って」
「……どこに?」
「そういうくだらねぇ返しすんなよ」
気にするなとか前を向けとか、そういう慰めの言葉を言われると思っていた。唐突すぎて、そういう意味での「付き合って」だと受け取れと言う方が無理がある。
でもお兄さんの反応を見るに、男女のお付き合いを指す意味での「付き合って」だということは間違いないらしい。
「……冗談だよね?」
「冗談じゃねぇよ?」
「もしかして前に会ったことあるとか?」
「ねぇな」
「だったら何で?」
「顔と雰囲気と直感」
「それだけ?」
「それ以外に何かいる?」
彼氏にフラれた女がクラブで男を引っかけて、寂しさを紛らわそうとしているとでも思われているのか。その線も頭を過った。でもその場合だともっとわかりやすく、直接的に誘うはずだ。曖昧な言葉で濁すのはトラブルになりかねない。割り切った後腐れのない関係を望むなら「付き合って」という誘い文句は適切とは言えないと思った。
「……私達、出会って何分?」
「5分くらい」
「5分でこんなこと決めちゃっていいの?」
「時間かけりゃいいってもんじゃねぇだろ」
元彼のことを思い出して言葉に詰まる。彼とは学生時代に知り合って、友人だった頃から数えれば知り合って4年だ。友人だった期間が3年、その後1年付き合って、最終的に電話で3分でフラれた。4年かけて築き上げた関係だってあんなにあっけなく消え去ってしまう。お兄さんの言う通りだ。
それでも、じゃあよろしくお願いしますと簡単には首を縦に振れない。昨日の今日でこんなことになるのが予想外なのはもちろん、好きになっていない相手と付き合う感覚がよくわからなかった。お兄さんとは違って、よく知らない相手と付き合う勇気が私にはない。
「……お互いに名前も知らないのに?」
「名前?蘭だよ。灰谷蘭」
「すごくぽい名前だなぁ」
「ぽいて何だよ」
「蘭ちゃんって呼んでもいい?」
「付き合ってくれんならいいぜ?」
交換条件の内容がどう考えても噛みあってないと感じるのは、私だけなんだろうか。どうして初対面の私に対してそこまで食い下がれるのか不思議だ。
ここで、じゃあお友達からとかもう少し仲良くなったらと提案したくなるけれど、それだと結局元彼の時と変わらない。時間をかけて蘭ちゃん(とりあえずこう呼んでおく)と関係を築いた先に何が待っているのか、それは私にも彼にもわからないのだから、5分で2人の方向性を決めるのは効率的ではある。
だとしても、それでもまだ決めきれない小心者の私は、別の心配を蘭ちゃんに突き付けてみることにした。
「不特定多数の女になるつもりはないよ?」
「オマエと付き合ってる間は他の女と遊びでもヤらねぇし、浮気もしねぇ。それでいいんだろ?」
「まぁ、そういうことなんだけど……」
「その代り、長続きさせる保障とかはねぇよ?嫌になったら別れるだけ」
真っ当なことを言われてぐうの音も出なかった。無理に付き合う気はさらさらないけれど、彼氏でいる間は誠実でいるという宣言は当たり前のことなのに新鮮だった。
昨日別れたばかりなのに。心の中でそれは引っかかっている。でも彼氏もいなくてフリーだし、いい感じの人だっていない。蘭ちゃんに慰めてもらおうとか上書きしようとかそういうつもりはなくても、新しい一歩になるのは確かだ。彼を知っていくのと付き合うのと順番が反対になってしまうけれど、蘭ちゃん本人はそれを良しとしている。
心の中で蘭ちゃんと付き合うという方向に大きく傾いていた。ぐいぐい来られることに慣れていないのに加えて、正直今の私の心は弱り切っている。今のメンタルで言えば、元彼に「不要」の札をつけられ、捨てられた直後に蘭ちゃんによって拾われた猫のようだ。捨てられた、拾われたという表現が適切かは別として、自分が必要とされたことが嬉しかったのは事実だった。
気持ちが揺れる中、最後の一押しと言わんばかりに蘭ちゃんがまっすぐに見つめてくる。
「どうする?」
「……蘭ちゃんって呼ぶ」
「じゃあ付き合う?」
黙って頷くと蘭ちゃんが満足そうに笑った。自分がまさか、クラブで知り合って数分の、刺青をしているタイプの人と付き合うことになるとは未だに信じられない。フリーだった期間は24時間もなかった。初カレを除いて、間違いなく今までの最短記録更新だ。付き合う期間も、最短記録を更新しなければいいけれど。
ここにきて名前を聞かれて、自分がまだ名乗ってすらいなかったことを思い出した。そんな相手と付き合える蘭ちゃんは特殊なんじゃないだろうか。名前を知るより先にお付き合いを決めるカップルの話なんて聞いたことがない。
「もう出るか」
「どこ行くの?」
「えー、ん家?オレ弟と一緒に住んでっから」
「本当に言ってる?」
「誰かさんがちゃんと寝られるように、一緒にいてやらねぇとなぁ?」
家の中の状態や一緒にここを出るはずの予定だった同僚のことなど、頭の中にいくつか心配事が浮かんだ。でも、蘭ちゃんに頭をぽん、と一撫でされるだけで全部頭の中から吹っ飛んでしまった。
恐らく、私はこの人のことをもう好きになり始めている。
ぐいぐい行く蘭がテーマでした。
2022/09/24