エキセントリック 5
*月曜日*
5限目の授業が始まって20分程経った頃、今吉は教室の窓から目視で確認することのできない、今現在の桐皇学園、校門付近の様子に思いを馳せていた。こんな時間から授業を抜け出してまで既にスタンバイされているのはそれはそれで困るので、がまだ到着していないことを祈るばかりだ。
世界史の授業を半分聞き流しながら妙に時計を気にしている自分に気付いて、彼はクラスメイトが誰も聞き取れないくらい、小さな溜め息を吐いた。
今日がとの約束の一週間、最終日。今吉は逃げも隠れもせず堂々と、の前に現れてやろうと決めていた。この感情に恋だとか恋愛だとか大それた肩書きをつける気はないものの、彼女のことは気になる人以上の存在にはなっている。一緒に過ごす時間が心地よいことに偽りはなかった。こういう些細な気持ちの変化から発展していくものなのだろうなと、友人の恋愛に口を出すような気持ちでここ数日間を過ごしていたのは、にも他の誰にも告げることはないだろう。
今日の授業が全て終われば、月に一度の部長会議がある。まだ授業も終えていないのに部長会議とその後の流れについて考えながら、今吉は世界史の教科書を捲った。
月に一度、運動部の部長が全員集められて行われる部長会議を楽しみにしている生徒などいない。今吉も例外ではなく、練習をしていたほうが有意義だと思っているのが本音だった。しかし今日だけはいつも憂鬱な気分で迎える部長会議も、晴れやかな気持ちで臨める気がする。
会議は長くても部活動終了時刻の30分前には終わる。1時間程時間があれば着替えて練習に参加するし、時間が短ければ会議の内容を日誌に書くために部室へ行く。日誌の記入を終えた後は一度体育館に顔を出して、部員への遅い挨拶と先に帰宅する旨を伝える。それが部長会議の日の当たり前になっていたので、部員もその流れのことは理解していた。
会議はスムーズに始まり、スムーズに終わるかのように見えた。形だけの会議でもやたらと運動部の数があるので、時間がかかっても報告内容は代わり映えしないようなことばかりだ。
教室の時計を横目で確認した今吉は、時計の針が17時45分を指しているのを確認して、静かに筆箱を鞄の中に収めた。会議が終われば部室に行き簡単に日誌を記入し、その後一瞬だけ体育館に顔を出してから校門に向かえばいい。今いる教室は校門が見える位置になかったが、彼にはが待っているという確信があった。
最後の運動部が報告を終え教室の中が解散ムードに包まれた中、かけ声と共に不意に立ち上がったのは生徒指導担当の教師だった。いつも会議に立ち会う教師だったのでその場にいることに違和感はなかったものの、突然のことに室内は静まり返る。
「先程の報告の場では伏せておいてもらったが、ここ2週間程いくつかの部で盗難が相次いでいる」
教師の言葉に教室が急にざわつき始めた。立ち上がって帰り支度をしていた生徒ももう一度席に着き、不安そうに辺りを窺う。被害状況を説明する教師の声のトーンが低くなると、教室内は時間が止まったかのように誰も身動きしなかった。
嫌な予感がする。椅子に深く座りなおしながら、今吉が時間を確認した。
* * *
はここ一週間続けていたのと同じように、放課後桐皇学園に向かった。今吉の今日のスケジュールは桃井には確認していないし、もちろん本人からも聞いていない。出来る限り早く駆けつけて、校門前で待ち伏せしようと決めていた。
今吉の考えていることは未だに全くわからない。何の意図があって昨日デートに誘ってくれたのか、ただの暇潰しだったと言われればそれまでだ。彼の場合、そんな理由を口にしても何も不思議ではなかった。
だとしても、デートに誘われた時点での中で期待値が僅かばかり上を向いたのは事実だ。顔も見たくない、会いに来られるのも迷惑だと思われているとは考えにくい。期待してダメになるのが一番辛いのは百も承知だけれど、出会った頃のことを考えると、会話をしてお互い名前を呼び合っていることが奇跡に近かった。にとって最高の結末を期待するなという方が難しい。
もしかしたら今吉は既に校門前で待ち構えているかもしれない。そんなの淡い願いは、早々に打ち砕かれた。他校の制服姿の彼女は相変わらず珍しさから視線を浴びていたものの、校門周辺に彼の姿はない。
いくらなんでも期待しすぎたと恥ずかしさすら感じつつ、彼女はいつも今吉を待ち伏せする場所よりもわかりやすい場所を陣取った。今日ばかりは自分の知らない彼の女友達や、その他の存在に怯える必要はない。19時までに彼に会うことができるか、できないかが勝負だ。こそこそせずに、堂々と彼のことを待ちたかった。
この1週間で待つのにはすっかり慣れた。約束をしているような、していないような相手を待ち続けてきて、の精神力は鍛えられていた。泣いても笑っても今日が最後になる。最後だとしても、することはこれまでと変わらない。
まだ時刻は17時にもなっていなかった。タイムリミットまではあと2時間ある。にも関わらず、は妙な胸騒ぎを感じた。いつもなら焦るような時間でもない。約束の最終日で、緊張したり過敏になるのは当たり前だと自分に言い聞かせる。
そのまま時間は流れ、気が付けば18時45分になろうとしていた。残り15分、この1週間でここまでギリギリになった日はない。
自分が気付かないうちに今吉とすれ違ってしまったのか?それともまだ彼は校内に残っているのか?理由は全くわからないし、何が起こっているのかもわからない。しかし残り時間のことを考えると、このままずっと校門前にいてもいいのかという不安にも襲われる。
散々迷った挙句、は駅に向かうことに決めた。先程から校内から出てくる生徒の数が少なく、ほとんどの生徒はもう下校してしまったようだ。自分が今吉を見逃すことはないとは思いながらも、何も行動せずに19時を迎えるのが彼女には耐えられなかった。
辺りを見回しながら速足で駅へと向かう。駅に着いてしまえば、桐皇学園に引き返す頃にはタイムリミットは過ぎている。まだ校内に今吉が残っている可能性も捨てきれなかったものの、こうなってはどう行動するのが正しいのか見当もつかない。
桃井に連絡することも頭を過った。同時に彼女の言葉も思い出す。「今吉に会うことができるかどうかは、全て彼の仕組んだ必然」彼女に助けを求めたところでそれは今吉の思いとは違うし、彼が大人しく彼女に捕まるとも思えない。
自分の努力で結果が変わることはない。それはわかっているけれど、諦めきれなかった。改札を通り抜け、息を切らしながら今吉が電車に乗る方のホームへと階段を駆け上がる。電車が出た直後なのか、ほとんどの生徒が帰ってしまったホームに人影はなかった。
「……時間」
思わず独り言を呟きながらが顔を上げると、ホームに設置されている時計が19時3分を指していた。心臓の鼓動がどんどん大きくなっていく。目を閉じてからもう一度時計を確認しても、長い針は12と1の間に位置していた。
滲む視界のせいでだんだんと時間がわからなくなっていくのを感じながら、はゆっくりと瞬きした。上を向いていても勝手に流れてくる涙を拭い、ふらふらとベンチへ移動する。
何も実感がなかった。今吉本人が現れて改めてフラれたわけでもなく、自分がどうしてここにいるのかもわからない。19時までに会えなければ付き合わないという約束だったけれど、無言のままに結論が出てしまう空しさを今ほど感じたことはなかった。先程から心臓の音だけしか聞こえないくらい、辺りは静まり返っていたし彼女自身混乱していた。
あれから幾度となく時間を確認するものの時が戻るはずもなく、少しずつ確実に時計の針は進み続けていた。既に時刻は19時25分になろうとしている。反対側のホームから電車に乗らなければならないのに、はベンチから立ち上がる気にはなれなかった。
全て終わってしまった。何もかも。1週間の思い出だけを残して、まるで今吉が自分の手の届かない所に行ってしまったような、そんな感覚だった。こんな結論を迎えてしまえば、もう彼に会う事もない。
最終的に今吉に会うことは叶わず、現在彼がどこにいるのかには見当もつかなかった。彼女の目を盗んで既に下校したのかもしれないし、諦めるか痺れを切らして帰るのを校内で窺っていた可能性もある。前者なら本当にもう、彼に会うことはないだろう。しかし、まだ校舎に残っていたのだとすれば。
動く気力を失くしていたが弾かれたように立ち上がった。ここにいてはいけない。こちら側は今吉の利用しているホームだ。偶然鉢合わせるのも嫌だけれど、自分のせいで彼が帰宅できなくなるのはもっと困る。
側に置いていた鞄を掴んで、素早く身体の向き変えようとしたところで、思いがけずは人にぶつかった。先程涙を流したせいで顔がぐちゃぐちゃなのはわかっていたので、下を向いたまま小さな声で謝罪する。
相手は桐皇の男子生徒のようで、見慣れた足元が視界に飛び込んできた。桐皇学園の制服を着た男子学生を目の当たりにするだけで、嫌でも今吉のことを思い出す。胸が締め付けられるようだった。これ以上この場に留まることに耐えられず、もう一度会釈してぶつかってしまった彼の隣を通り過ぎようとした。
「何でこんなところにおるねん」
何度も聞いてきた声と、この辺りでは珍しい関西弁。の心臓が今日一番の速さで脈打つ。ぶつかってしまった相手が誰だかわかって、嬉しさよりも羞恥心が込み上げてきた。約束の時間を過ぎて、普段利用しない方のホームのベンチで未練がましく時間を潰す姿を見られたと思うと、引っ込んでいた涙がじわりと顔を覗かせ始める。
「……言い訳、聞いてくれるか」
その場を去ろうとしたものの、腕を優しく掴まれが顔を上げる。そこには普段と変わらない様子の今吉が立っていた。尋ねられているはずなのに威圧感を感じた彼女は、首を縦に振ることしかできなかった。
それを見た今吉は大きな溜め息と共に微笑む。状況が把握できず、不安気な表情のを再びベンチへと座らせ、彼自身も隣に腰を下ろした。
「ホンマ大変やってんで。月イチの部長会議が予想外の内容で、めっちゃ長引いてしもーた」
「……」
「それにや。ギリギリ19時前に会議終わって、急いで校門向かってもだーれもおらん」
「……」
「誰もやで。本来そこにおるはずの人間もおらん。何かあったんか思てそこら中探してもやっぱりおらん」
「……」
「しゃーないからダメ元で駅まで来てみたらこれや」
雑にの頭を撫でる今吉は、そこで言葉を切った。
は今吉の言い訳を聞きながら、自分が何の話をされているのかよくわからなかった。部長会議の所為で彼の予定が狂ったのは理解出来たものの、その後の話を聞いていると今回の結果を招いたのは自分の所為だと思えてならない。
「私、今吉先輩が移動しちゃったのかと思って、それで……」
「校門通らんとどうやって外出るねん」
「だって……」
呆れた表情で言いきった今吉に「先輩ならそれくらいのことをしそう」だとは言えなかった。言われてみればその通りだけれど、時間が迫っていて焦っていたし、相手が相手なので何が起こってもおかしくないと思ったのだ。
しかし今吉は19時前には校門に向かったと言い張る。彼の気持ちはわからないままだったとしても、ここに来ては絶望の底に突き落とされたような気持ちになった。
「私、わたし……」
「?」
「先輩のこと信じて待っていればよかったんですね。なのに待てなかった」
「……」
「今吉先輩に会えないかもって思うと居ても立ってもいられなくて。……何もわかってなかった。私、やっぱり先輩と付き合う資格ないですね」
のこの台詞に、今度は今吉が言葉を詰まらせた。てっきり彼女なら「急いで校門に向かったって、私に会いに来てくれるためですか!?」と目を輝かせ、笑顔になるだろうと思っていたのに、そうはならなかった。それどころか彼の言葉は裏目に出てしまう。
どこまでも素直な気持ちを吐き出すは、寂しそうな表情で足元を見つめた。ここで「その通りだ」と酷い冗談を言えるほど、今の彼に余裕はない。
「……こっち向いてみ」
「……」
が今吉の方を向くのを渋る。彼は両手で彼女のこめかみの辺りを挟み、無理矢理に自分の方を向かせた。
「あんま顔に出てへんかもしれんけど、ワシホンマに焦ったんやで。駅にさんおらんかったらどないしよって、そればっか考えながら走っとった」
「今吉先輩が?」
「勘違いさせたまま帰したくないやろ」
今吉本人かと疑うくらい、捻くれていないストレートな物言いには少し戸惑った。同時に期待、不安、様々な感情が一気に押し寄せてくる。全身の毛穴が逆立ち、鳥肌が立った。
周囲は静かで人も少ないのに「先輩、近いです」と言いそうになるくらいには距離が近い。今日の今吉はいつもと違っている。これ以上彼の事を好きになってはいけないとわかっていても、感情をコントロールできそうになかった。
「さんが今日ワシに会いに来ることは確定事項や。それやのにさんに会えんかったとしたら、それはワシの落ち度でしかない」
「……?」
「一回しか言わんからよう聞きや」
「はい」
「ワシの負けや。付き合おか」
「!?……でも、今吉先輩との約束守れなかったですよ」
「何言うてんねん、これはさんへの返事ちゃう。ワシからさんへの告白や」
至近距離で告白するなんてずるいと、は胸を押さえたくなった。告白されて断るはずがないのに、これ以上彼のことを意識させてどうしようと言うのか。いくら自分がずっと彼のことを好きだと言い続けていても、こうなる前触れみたいなものを感じ取れなかった。「約束」を順調にクリアして仮に付き合えることになっても、今は相手がいないからとか、嫌いではないからという感情で、自分に気持ちが向くなんて思っていなかったのだ。それが一転して、今まで生きてきた中で一番ドラマチックな展開が訪れるとは、頭の片隅にもなかった。
今吉に促されては立ち上がる。そのまま彼は反対側の、彼女が普段利用している方のホームに向かって歩き始めた。
目的もわからないままに歩幅の違う今吉に付いて行きながら、は彼の顔を見上げる。やがて行先が反対側のホームだと気付いた。躓かないように慎重に階段を上る彼女は、視線だけは彼から逸らさなかった。
「先に今吉先輩の電車来ますよね?一本逃しちゃいますよ?」
「ええよ。毎日は無理やろけど、今日は予定してた時間よりも遅なったし、途中まで送るわ」
さらりと送ると宣言されては舞い上がった。今日の今吉はいつもより優しく感じる。それが関係が変わったせいなのか彼の気分なのかはわからないものの、嬉しいことに変わりはなかった。彼らしくないと言えばらしくないけれど、今吉の特別になれた実感があることは、何物にも代えがたい幸せだった。
「今日の今吉先輩、すごく優しいです」
「いつもは意地悪しとるみたいな言い方やな」
「い、いえ!」
「ハハ!でもホンマにさん、一週間よう頑張ったなぁ」
「一週間のご褒美だとしても、まだ信じられないです。夢みたい」
「夢か現実か確かめてみるか?」
ほとんど階段を上りきるところではぴたりと足を止めた。先に階段を上りきっていた今吉が振り返る。
この台詞にこの展開はもしかして。先のことを考え自然との顔には熱が集中する。普段の今吉なら絶対にやらないようなことでも、今日の今吉なら……。
「何期待した顔してんねん。ほんまにさんはわかりやすいなぁ」
「!?」
「残念やったなぁ。ほら、そんなとこでひっくり返ったら大怪我するやろ。夢とか現実とか言うてられんで」
手を握ってを引っ張り上げた今吉は、彼女の手にまともに触れるのはこれが初めてだと今更気付いた。一方的に頭を撫でつけたり軽く触れられたりした記憶はあっても、流石に手を繋いだことはないはずだ。彼女に触れる前の、あえての意味深な言葉選びの所為なのか、それとも手を繋いでいるこの状況がそうさせているのか、先程斜め下から彼を観察していたはずの視線は、今は行先なく彷徨い続けている。
元々真っ直ぐな子だと思っていた。自分に向けられた気持ちも、その気持ちの表現方法だってどこまでも純粋だ。そんな彼女は、他人から同じように気持ちを向けられることにはあまり慣れていないらしい。
には回りくどいからかい方をするよりも、ベタに褒めたり彼女扱いするほうが余程効果的そうだと、今吉はこっそり悪い笑みをこぼした。
全5話で無事に完結しました。
書き始めた当初は、これを1話で書ききれると思っていた自分がよくわからないです。
お付き合いいただきありがとうございました!
2022/12/03 完結