カウンターフォース
離れていく唇が名残惜しい。数秒前まで自分の唇とくっついていたのが嘘のようだ。キスしている時間が永遠に続くように思えるなんて言わないけれど、ずっと続いてもいいのに、とは思う。だからこそ、唇が離れる時はいつも自分の体温も一緒に奪われるような、そんな感覚になる。
オレの部屋、ベッドの上、もちろん部屋には二人しかいない。の唇はオレの所為で濡れていて、もう彼女を家に送らなければいけない時間だったけれど、もう一回だけと腕を伸ばした。
身を引いたの表情は少し不満げだ。距離を取られた事に関して今度はオレが拗ねて、先程よりも素早く動いて彼女の腕を掴む。
「逃げんな」
「そういうつもりじゃなくて」
「じゃあ何?」
「……今日本当はずっと言おうと思ってたんだけど」
腕を掴まれたまま、視線を迷わせたがゆっくりと息を吐いた。もう帰ると告げられてから数分、帰り際に切り出すくらいだから、今から本当に言いにくい話をされるに違いない。何の話なのか見当もつかず、黙って彼女の言葉を待った。そんな重要な話だとは思っていなかったのに、なかなか次の言葉を発さないのが気がかりだ。
「何?」
「えっと」
「まだ?もうするよ」
「わかった!言うから……」
身を乗り出そうとするのをが止める。一切目を逸らすことなく、ゆっくりと距離を詰めていった。すると彼女の片方の手が同じようにゆっくりと、オレの顔へと伸びてくる。
終着点はオレの唇だったようで、の指でゆっくりとなぞられていくのがわかった。こんなことは今までされたことがなかったし、何がしたいのかもわからない。それでも嫌な気にはならなかった。むしろ少し興奮する。
「……言いにくいんだけど」
「だけど何?」
「マイキーの唇が」
「オレの唇が?」
「とても、荒れてます……」
唇が荒れている。に言われて自分の唇に指を這わしてみた。確かにざらざらと言うのか、がさがさと言うのか、そんな気がしなくもない。でも自分の唇の状態に関心がなさ過ぎて、いつもこんな感じだったのか今が特別こんな状態なのかがよくわからなかった。オレのに比べて彼女の唇はすべすべぷるぷるなので、それを基準にするとオレのは荒れていると言うのかもしれない。
「そんなに荒れてる?」
「すごく荒れてる」
「マジで?」
「渇くとかヒリヒリするとかない?」
「全然」
「嘘だぁ」
言われてもわからないものはわからない。舌で唇を探るように舐めると、が「それ!」と言って困ったように笑った。
「マイキー唇舐める癖ない?」
「多分ないよ」
「本当に?たまーに舐めてるの見るよ?」
「たまーにだったら癖って言わねぇじゃん」
「それは……んむっ」
いい加減我慢ができなくなって、が油断している隙に唇に吸い付いた。このタイミングでされると思っていなかったらしく、準備ができていなかった彼女に弱い力で胸を押される。あんまり長いことこうしていると別の意味でも我慢できなくなりそうだ。彼女も怒り出しそうなので、最後に唇を舐めてから仕方なく彼女を解放した。
「で、何だっけ?オレの唇が荒れてる話?」
「……そう」
「何ともないし気にすんなよ」
いい加減動かないといけない。けじめをつけるためにもベッドから下りて上着を羽織る。後ろから控えめに身体を突かれて振り向くと、帰り支度を終えたが何か差し出してきた。
「私も最近唇が気になり始めて使いだしたんだけど、マイキーの方が酷いからあげる」
「それ何?」
「リップクリーム。何回か使っちゃったやつでごめんね」
「使いかけなのは気にしねぇけど、そんなにヤバい?」
「そのままにしておくと最悪切れちゃうかも。それに……」
「それに?」
「キスするとき、ちょっと痛い」
見覚えのあるような色の、すぐ失くしてしまいそうな大きさをしたリップクリームが手渡される。は使いかけなのを気にしていたようだけれど、ついさっきまであれだけキスしまくってたんだから今更そんなことを気にするはずもない。更に言うなら、唇が切れるのもどうでもよかった。一番気になったのは、キスするときに痛いという最後の一言だ。
さっきのもその前も、痛いなー、ざらざらしてんなーと思われていたんだろうか。今日だけじゃない、昨日も一昨日も?いつから?そんな負の感情を抱かれていたのが地味にショックだ。
「これ塗ったら治んの?」
「よくなるはずだよ。気になる時とか、寝る前に塗ったらいいと思う」
「気になる時がねぇんだけど」
「……唇触ってガサガサしてるなーって思った時、かな」
「ふーん」
自分の唇に関心がない以上、オレには続かないような気がした。塗るのを忘れるよりも先にこれを失くしてしまいそうで、そっちの方が気がかりだ。せっかくがくれた物だから、大切にしたい。
エマがたまに似たような物を使っているような気がするけれど自分では触ったこともないので、試しにどんな物か蓋を取ってみた。言われるがまま、底の部分をぐりぐり回すとどんどん中身が伸びてくる。そのまま使おうとしたら、にリップを奪われた。
「たくさん出すと折れちゃうから、出すのは数ミリでいいよ」
「そんなちょっと?」
「そう。こうやって使うの」
出し過ぎた中身を引っ込めてから、リップの先端がオレの唇にあてられる。片手は頬に添えられて、もう片方の手でリップを優しく塗り伸ばしていく。逆のようなことはあっても、がオレの頬に手を添えてキスするようなことはまずない。キスされているわけではないけれど、新鮮な気持ちになった。
「スースーする」
「メントール入ってるからね。男の子はメントール好きなんでしょ?」
「誰が言ってたんだよ」
「雑誌に載ってた」
知ってる誰かから聞いたのならまだしも、情報源が雑誌。そんな適当な雑誌の情報を信じるなよと思いつつ、スースーすることで何か塗っている感覚があるのは悪くなかった。心なしか、リップが荒れた唇に効いてきている気がする。
「これ塗るのダサくねぇ?」
「全然!唇の荒れ防止だし」
「男も?」
「女の子は色とか匂いつきの使ったりしてテンションあげたりするけど、それは色もつかないし男の子が使ってても変じゃないよ」
が小さなポーチを取り出して中身を見せてくれた。リップが2本入っていて、色も匂いも違うのだと説明する。1本ずつ蓋を取って見せられたものの、色は違っても匂いの違いはそこまでわからなかった。
「また私もマイキーと同じやつ買わないと」
「2本持ってんのにまた買うの?」
「用途が違うもん。ああいうシンプルなやつのほうが荒れには効くからね」
「ふーん」
甘い匂いの色つきリップに、荒れを治す効果がなくてよかったと思った。危うくオレの唇が女子みたいになるところだった。
* * *
リップを使っているのをエマに見られた時は驚かれた。簡単に事情を話すと、じろじろ唇を観察されてから「確かに荒れ気味かもね」と言われた。エマから見ても荒れてると判断されて、改めてオレの唇の現状を思い知った。
常にリップを持ち歩いて、思い出した時には塗るようにした。それでも1日に数回、たまにあのスースー感のことを思い出した時限定だ。リップを塗る時、同時にリップを失くしていないことも確かめられるので、それも続ける理由になっていた。
日に日に唇の状態はマシになっていっているはずだ。マシになっていると言い切れないのは、やっぱり自分の唇への関心が薄いからだった。に聞くのが一番早いとは思うけれど、リップを渡された日以来彼女には会えていない。だからと言って、エマに聞くのは嫌だった。初めてオレがリップを使っていたときエマはいつもと違う表情で笑っていて、これ以上触れないほうがいい気がした。
東卍の小規模な集会を終えて、この後に会うことになっていた。数日間のオレの頑張りが報われるか否か、今日で決まるわけだ。数日ぶりにオレの唇を見た彼女に褒められるのか、それともがっかりされるのか、そこを考えるとなんだかそわそわする。
気持ちが落ち着かないせいか、無意識のうちに舌で唇を舐めた自分に気付いて、に癖なのではと指摘されたことを思い出した。もしかしてこれのことを言っていたのかもしれない。今までも同じようなことを無意識にしていたんだろうか。
曰く、唾液で渇いた唇を湿らせると一時凌ぎにはなっても、最終的に乾燥が悪化するらしい。それを防止するためにリップでの保湿が有効で、とりあえず唇を舐めたりするのは絶対によくない、とのことだった。
せっかく数日間頑張っていたのに、その頑張りを無駄にはしたくない。まずいと思って咄嗟にリップを取り出した。慣れた手つきで数ミリだけ繰り出して塗ってすぐに片付けたものの、その場に残っていたケンチンやその他数人は不思議そうにオレを見た。
「マイキーリップ使ってんの?」
「うん」
「へー、なんか意外」
「に使ってくれって渡された」
「なんだそれ」
「オレの唇が荒れてたら、キスするときに痛いんだって」
「うっわ」
「ハイ出たー、マイキーの惚気」
「さらっとそういうこと言うなよ」
「これだから彼女持ちはよぉ、しね!」
正直に話しただけなのに全て暴言で返ってくるのはいつものことだった。特にの事に関しては、みんな容赦ない。惚気ているつもりも自慢しているつもりもないけれど、こんな反応をされるのならいっそ、開き直って思い切り自慢してやろう。片付けたリップをもう一度取り出すと、何だかリップが誇らしげに輝いているように見えた。
「ちっさ」
「マイキーよくそれ失くさねぇな」
「失くしたらが悲しむだろ」
「何言っても惚気で返ってくるこの感じよ」
「シンプルに辛ぇわ」
惚気だの自慢だのと同じく、最近よく「何を話しても惚気」だとも言われる。オレの機嫌がいいだけでの話題に繋がるし、休日の話なんてしたら溜め息しか返ってこない。前に一度、ケンチンと二人で過ごした日の話をしたら「オレらに嘘吐いてまで気を遣うな」と言われた。四六時中と一緒にいると勘違いされているらしい。
「オレの唇荒れてる?」
「わかんねーよそんなん」
「オレらに聞くの間違ってんだろ」
「この後に会うし、気になんじゃん」
「まだその話すんのかよ」
「荒れてたらに舐めてもらえって!」
「それでもいいけど、舐めたら余計に悪化するって言われた」
「……いや、今の冗談だったんだけど」
「ぺーやんやめとけって、こっちは冗談のつもりでもカウンター食らうぞ」
三ツ谷の言葉はその場を沸かせた。周りは腹を抱えて笑う中、オレは何が面白いのかわからず笑えなかった。
広い屋根付きの元倉庫にみんなの笑い声が響く。自分が話の輪の中に入れているのか入れていないのか、微妙な心境でその場にいると、倉庫の入り口の辺りに揺れる人影を見つけた。入り口から顔だけ覗かせたが、控えめに手を振る。
「マイキー、お待たせ」
「今行く!」
の声は笑い声に掻き消されてほとんど聞こえなかった。何となく彼女の口の形で、そう言っているんだろうなと思っただけだ。
もちろん周りで盛り上がってる奴らにの声は聞こえておらず、オレの返事で初めて彼女の存在に気付いたようだった。笑い声が消えて、全員が入り口の方を向く。彼女が小さく手を振った。オレにではなく、この場の全員に向かってだ。
もう何度も会っていて話したこともあるのに、彼女はいつもオレたちの輪の中には入ろうとしない。オレらから近付けば逃げることはないけれど、自分からこっちに近付くことは一度もなかった。みんなもそれをわかっているのであえて何も言わず、静かに見送られる形で入り口へと向かう。
合流したはもう一度残った奴らに手を振った。オレも隣で手を振って、二人並んで倉庫を後にした。
「リップちゃんと使った?」
「……何で?」
「マイキー使わなさそうだなーって思ってたから」
「……」
会って早々にリップの話を振られて、先程のそわそわが急に蘇ってきた。同時に舌先で唇を少しだけ舐めかける。
なんとか舐めるのを抑えて、そのままの顔を覗きこんだ。一番最初に目が行くのはもちろん唇で、瞬きする彼女は薄く口を開いている。
数日間触れていなかったのと、彼女に痛い思いをさせないための努力のご褒美が今すぐにでも欲しくなって、少々がっつき気味にキスした。少し唇を舐めるだけで舌を受け入れる体勢を整える彼女は、すっかり訓練されてしまっている。
「どう?まだ痛い?」
「だいじょうぶだった」
「だったらいーや」
流れのままにオレの唇の状態も確認した。合格ラインは超えていたようなので一安心だ。は恥ずかしそうにしていたけれど、こうする他にどうやって判断するつもりだったんだろう。
「リップくれたとき、も自分の唇気になるって言ってたじゃん?」
「うん」
「それっていつくらいから?」
「えー、いつだろう?」
「オレ今まで何ともなかったのに、何で唇荒れだしたんだろうって考えたんだよ」
この数日間、唇の荒れた原因はなんだろうとあれこれ考えた結果、恐らく原因はだという結論に辿り着いた。
舐めたり吸ったり甘噛みしたり、とにかくと一緒にいると、お互いの唇にとって刺激になることしかしていない。去年はなんともなかった(と自分では思っている)のに今年は何が変わったかと言われると、彼女の存在くらいしか思いつかなかった。今回は偶然数日空いたけれど、時間が合えば数分だろうと、ほぼ毎日のように会っている。短い時間でも積み重ねればそれなりの時間になるし、それだけ唇には負担になっているのかもしれない。
バカみたいな話だけどオレは大真面目だった。それでも隣で黙って話を聞いていたにも心当たりがあったようで、俯き加減で歩く彼女の顔は耳まで赤い。
「多分、キスしすぎた」
「……そう」
「困ったなぁ、一生治んねぇじゃん」
わざとらしく言ってみる。照れ隠しなのか、無言のまま手を握られた。
と一緒にいたらオレ、きっと一生このままだし、一生このままでも仕方ないって思ってるんだけど。もっと歳を取って落ち着いたら、こんなことしなくなる日が来るんだろうか。だとしても、そんな未来が今は想像もできなかった。
言葉にはせず手を握り返す。「リップ手放せないね」なんて言いながら笑われた。オレの言いたい意味が伝わっていないのか、それともはぐらかされているのか。答えを聞くのは当分先になるだろう。
「も同じリップ買った?」
「買ったよ」
「やっぱり」
「?」
「さっき同じ味したから」
「……その話、みんなにはしないでね」
この話をあいつ等にしたらまた大ブーイングが飛んでくるに決まってる。こういうのを正に惚気と言うんだと思った。
が話して欲しくないと言うからには黙っていたほうがいいんだろうけど、でもやっぱり誰かに話してしまいたい。ケンチンにだけなら話してもいいかな。ケンチン一人なら「みんな」にはならないから、話してもいいことにしよう。
ぐいぐい系マイキー
2022/12/17