※22巻軸設定
※ねつ造している設定が多々ありますので注意
ラストステップは鮮やかに 前編
寒さを感じて目が覚めた。熱が離れて行く感覚があったような気もする。目を開けると、眼前の景色でアトリエにいるのだとすぐにわかった。被っていたのは仮眠用に常備している少し薄めの毛布で、寒さの理由に納得する。直後に腰にだるさもあって、アトリエのソファに横になっていることをはっきりと自覚した。
何物かが静かに動く気配を感じたのは、目覚めたのとほぼ同時だった。ほとんど音はしないのに、人のいる気配がする。確かめないわけにもいかず、頭だけ動かして気配のする方向を見た。
思っていた通り、アトリエにはオレの他にもう一人いた。気配の主は後ろを向いていてこの角度から顔は見えない。ただ、明らかに女性だ。彼女はこっちに背を向ける格好で、スカートを身に着けている最中だった。
ぎょっとして被っている毛布を捲る。自分はパンツ一枚の姿で、寒さの理由が毛布の薄さだけではなかったことにようやく気付いた。視線を女性に戻すと、彼女は床からストッキングを拾い上げたところだった。
徐々に意識が覚醒してきて、昨日あった出来事が写真を見せられているかのように、脳内に飛び込んでくる。断片的に思い出すのはソファに彼女を組み敷き、服を脱がせていく過程だった。
ソファの側のテーブルを横目で見ると、アトリエに常備されているはずのないゴムの箱が無造作に転がっている。中身が散らばっていて、封の開いている袋も何個か一緒にテーブルの上に投げ捨てられていた。腰のだるさはソファで眠ったことだけが原因ではないようだ。
「……さん」
名前を呼んでから、昨晩、アトリエの中でだけは彼女ことをと呼んでいたのを思い出した。酒や諸々の勢いの恐ろしさを思い知る。もうそんなものはとっくに抜けているので、何も考えずに口にした名前は、彼女の名字だった。
さんはオレが声をかけると動きを止めた。ゆっくりと振り返って目を伏せがちにしたまま、ソファの側に腰を下ろす。
「ごめんなさい、起こしましたか?」
「起こされたって言うより、勝手に目が覚めただけだよ」
そのまま上体だけでも起こすべきかどうか迷った。オレがパンツ以外何も身に着けていないのはさんも理解しているはずだ。
元々仮眠することを想定して買った、小さすぎないサイズのソファ。オレの隣の、一人分程空いたスペースに先程まで彼女が横になっていたのは明白だった。
* * *
中学の手芸部の面子で集まる飲み会が開かれるようになったのは、みんながそれぞれ仕事に就き始めた頃だったように思う。不定期開催の飲み会は、仕事やプライベートの予定がなければ参加していたし、それ自体は楽しみだった。ただ唯一毎回心残りだったのは、さんに会えないことだった。
飲み会に参加するときはいつも、さんが参加するのを期待していた。聞いたところによると彼女はそれなりに有名なデザイナーの下で働いて、忙しくしているらしい。忙しいとは言えたまに飲み会にも顔を出しているようだけれど、彼女が参加するときに限ってオレが不参加で、すれ違い状態だと言うことは他の子達からそれとなく聞いていた。
集まる面々は手芸部出身とは言え、服飾関係の仕事に就いた人、全く違う仕事をしている人、様々だ。さんは学生時代から裁縫好きなお母さんの影響もあってか、服飾関係の仕事に就きたいと言っていたので、人づてにでも夢を叶えたのを知ったときは素直に嬉しかった。できることならその話も、彼女本人の口から聞きたい。
さんに執着しているとか、彼女との間に特別な出来事があったわけではない。よくある中学生時代の淡い恋だった。今思い出してみても、情けないくらいに当時は何も行動しなかった。一つ学年が下の彼女とは2年間先輩と後輩、部長と部員としてやってきて、決して仲は悪くなかったはずだ。むしろもしかして?と思うことも多々あったけれど、よくある「今の関係が壊れるのが嫌だ」というありがちな理由から、気持ちを確かめるようなこともしなかった。
そんなさんと中学を卒業して以来、一度も会っていなかった。彼女の仕事の話はとても興味があるし、当時の思い出話だってしたい。あの時の気持ちも、軽く冗談っぽく話題にしてみるのも悪くはないだろう。
彼氏がいるかもしれないし、結婚していたっておかしくはないのは理解しているつもりだ。でも会えなければ会えないほど、さんの顔を一目見たいという気持ちは高まる一方だった。
最低でも半年以上ぶりの、久しぶりの飲み会の待ち合わせ場所に、オレは一人で立っていた。気を抜くと途中参加になるどころか最悪参加できなくなることもあるので、ある程度のところで仕事に見切りをつけてアトリエを出た。張り切って待ち合わせ場所に来たはいいものの、集合時間の20分前は早すぎたようだ。
待っていればすぐに一人や二人来るだろう。スマホを取り出したところで、誰かが目の前で立ち止まる気配がした。
「……部長、ですよね?」
「お、おう」
「わぁ!お久しぶりです!覚えてます?私のこと」
「覚えているも何も、さんのことずっと考えてたよ」なんて言えるはずもなく、と言うよりもあまりにも突然の彼女の登場に面食らって、一言目でまともな反応すら返せなかった。
仕事帰りと思われる雰囲気のさんは、当たり前だけれど当時に比べて何もかもが大人びていた。髪型も、服装も、メイクした顔も初めて見るさんだ。それでも、一目見て彼女だとすぐにわかった。
待ちに待ったさんとの再会は、嬉しいやら何だか恥ずかしいやらでいつもの自分ではないみたいだ。彼女との再会はまるで中学時代に戻ったかのように、オレの気持ちを高ぶらせた。
「覚えてるに決まってんだろ。さん、変わったけど変わらないね」
「どういう意味ですかそれ?でも、部長も全然変わらないですよ」
「そっかなぁ」
「部長は昔から派手だったから」
当時と変わらない笑い方でさんが微笑んだ。女子部員の中に男子部員が一人というだけでも目立つのに、あんな見た目だったから余計に目立っていただろうことは検討がつく。
さんに指摘されながら当時のことを思い出していたところで、二人目、三人目と飲み会の面子が集まってきた。他の子たちと話し始める彼女を独占するわけにもいかず、入店するまでしばしの時間を過ごした。
集合時間ほぼぴったりに集まった面子で居酒屋に入店後、店の中で席が決められていないのもあって、オレはちゃっかりさんの隣の席をキープすることに成功した。入れ替わり立ち代わり、オレや彼女に挨拶をしに来る元部員の子たちとも話しながら、まずは仕事の話を振る。
「さん、大手のデザイン事務所に就職したんだって?」
「やめてくださいよ部長、そんな『大手の』なんて」
「でも実際大きいとこだろ?」
「そうかもしれないですけど、やっとそれなりに仕事が出来るようになってきたかなぁって程度で、私はまだまだ下っ端ですし」
「最初は誰でも下っ端だろ。就職できたのはさんが努力したからだよ」
「タイミングが良かったんですよ。あんまり持ち上げないでください、慣れてないんで!」
本当に恥ずかしいのか、まだほとんど酒も飲んでいないのに既にさんの顔は赤かった。同じテーブルの子たちも一緒になって褒めると、何か言われる度に彼女はちびちびと酒を口にする。照れ隠しのつもりのようだ。
「持ち上げてるつもりなんかないって。中学時代から、さんが手がかからなかったのは事実だし」
「部長ってば、親みたいなこと言いますね」
さんは入部してきた時から何でもこなせてしまって、オレの助けなんかほとんど必要なかったくらい、優秀な部員だった。家でお母さんにいろいろ教わっていた彼女から、オレが勉強させてもらうこともあった。懐かしみながら話していると彼女は目を細めて笑いながら「そんなこともありましたね」と相槌を打つ。
「私のことよりも、部長の方がすごいじゃないですか!」
「別に何もすごいことなんかしてねぇよ」
「よく言いますよ、独立したって聞いてびっくりしました」
「でもまだ雑用みたいな仕事ばっかだからなぁ」
「そうやって謙遜するところ、変わらないですね」
オレの仕事関係の話も誰かから聞いていたようで、今度はさんがオレに話を振る。どういう経緯でオレの話を知ったのかはわからないとしても、それを覚えていてくれて、こうして二人で話すときに話題にしてくれたのは嬉しかった。
事実しか話していないし、今も昔も謙遜したつもりは全くなかったので、返す言葉には困った。でもとにかく、彼女に悪印象を与えていないのならそれでいい。
店内が賑やかになってきたので、テーブル単位で座っていても、この時間にはそれぞれ隣同士の人と話し始めていた。オレの目の前に座る二人もこちらの話が聞こえないのか興味がないのか、二人で何やら熱心に話している。相変わらずたまに他のテーブルから人が来て話しかけられはするものの、席が空いていないのでしばらくすれば元の席に戻って行った。次にいつさんと会えるかわからないオレにとっては、有難い状況だった。
この頃にはオレもさんもそれなりの量の酒を飲んでいて、ある程度出来上がり始めていた。周りも同じような雰囲気で、誰が何をしているかなんて気にしている人がいるようには見えない。みんな何か話しながら、笑いながら、この時間を楽しんでいた。
酒の力を借りて、オレは少しずつさんとの間合いを詰めて行った。流石に触れたりする距離までは行かない。それでも肩が触れるか、触れないかくらいの距離ではあった。彼女は距離を取るどころか、オレが話すときは上半身を寄せてくる。単純に、何を言っているか聞き取り辛いのだろう。
話が途切れたところで不意にさんが立ち上がった。咄嗟に彼女の手を掴む。彼女に、何処にも行って欲しくなかった。
不思議そうに瞬きを繰り返すさんは、握った手に力を込めると素直に着席した。無言のまま手を握って、彼女を見つめる。
「……部長、あの」
「何処行くの?」
「お手洗い行くだけです」
「あー……ゴメン」
「えっと……」
「ちゃんと戻って来て」
さんが小さく頷くのを確認してから手を離した。ふらふらとした足取りで店内を歩く後ろ姿を見送る。
角を曲がり姿が見えなくなると全身の力が一気に抜けて、ずるずると後ろに倒れ込むような形で体勢を崩した。さんが席を外している間に誰かが座らないように、彼女が座っていた席の方に少しだけもたれかかるようにして目を閉じる。店内の喧騒は心地いいBGMとは言えないとしても、今は心を落ち着かせる必要があった。
久しぶりに会って話したさんは、オレの記憶の中の彼女と変わりなかった。そんな彼女のことを可愛いと思うし、魅力的だとも感じる。それどころか、中学の時には見せなかった新しい一面に触れて、彼女への思いは強まった。
根拠のない自信という言葉の意味が、今ならわかる気がする。核心に触れるような話をしたわけでもなく、さんから何かされたわけでもないのに、今日のオレは積極的だった。いい方向に転べばそれでよし。もし悪い方向に転んでも、中学時代と違って彼女に頻繁に会うわけでもない。次の飲み会で顔を会わすことがあっても、大人の対応をするだけだ。もし彼女が他の子たちに何か言いふらせば、オレがこの集まりに呼ばれることがなくなるだけだろう。そもそも、彼女はそういうことをするような人だとも最初から思っていない。
半ば開き直りのような感情があるのも否定はできないけれど、お互いに仕事が充実していると言える今、ある程度押して行かなければ関係は進展するどころか、途切れてしまう気がした。
「……部長?」
「おかえり」
「お疲れですか?」
「今のは寝たフリ」
「寝たフリ?」
「さんがいない間に、話しかけられないように」
「何でそんなこと。みんな部長と話したいんですよ」
「……まぁ嫌われてなかったのならよかったよ」
他の人のことを無視したいわけじゃない。でもこの限られた時間で、一番話したいのはさんだ。これをそのまま素直に伝えられたら、それが一番なのはわかっている。でも、いくら今日のオレが積極的だからと言っても、今この段階で言えることと言えないことがある。
「嫌われてるわけないですよ!部長目立ってたし、優しかったからかなりモテてましたよ」
「はぁ?聞いたことねぇよ」
「これ、言っちゃっていいのかなぁ」
椅子に深く座りなおしたさんは、オレが話しかけるときのように上半身を寄せた。何の話をされるのか全く予想がつかないまま、彼女と同じように腕を組んだ上半身を寄せてみる。まるで内緒の取引か、込み入った話でもしているかのような物々しい雰囲気で、オレと彼女は視線を合わせた。
「あの時はみんな部長には告白しないでおこう、みたいなのが暗黙の了解だったんですよね」
「何ソレ」
「みんなの部長、みんなの三ツ谷隆でいて欲しい的な?特に部内で誰かとくっついちゃうと、部の雰囲気も変わっちゃいそうじゃないですか」
「そんなもん?」
「そういうもんです」
至って真剣な表情のさんとは逆に、オレは恐らく拍子抜けした表情をしているだろう。言われていること自体はわからないでもない。でも、その対象がオレだったと聞かされても全くピンとこなかった。
当時は何も考えてなかったし、部内では大きな揉め事や問題もなく、平和に過ごした3年間だと思っていた。さんの話が部内に限った話だったのかどうかは別として、オレの彼女のいなかった中学生生活は、知らず知らずのうちにそうして守られてきたのだと思うと少々複雑ではあった。
「で、さんは?」
「え?」
「さんはオレのことどう思ってたの?」
あの時はみんなの部長だった。みんなの部長ということは、当然さんの部長でもあるわけだ。
さんは当時、どんな心境でそういう話を聞いていた?自分には関係ないことだと思っていた?それともさんも、その謎の同盟の一員として、オレのことを見てくれていた?
オレの問いかけで一瞬、さんの瞳が揺れたのがわかった。先程手を握ったときとはまた違う反応。彼女の顔はずっと前からほんのり赤くて、そこは何の判断基準にもならない。でも、悩ましげにこちらを見つめ返してくる表情は、酒の所為ではないと思いたい。
不思議なくらいに店内の喧騒が遠くに聞こえる反面、心臓の音が伝わりそうなくらいうるさい。至近距離で見つめ合うこと数秒、明らかに空気が変わった。そんな反応をされたら、期待してしまう。
さんが口を開いたと同時に、今日の幹事の声が周辺に響いた。飲み会の終わりを告げるその声は、オレたちにとっては始まりの合図だったのかもしれない。
ほとんど妄想とねつ造、そして弱気なのが強気なのかわからない22巻軸の三ツ谷。
2023/01/15