青春みたい


 普段起きないような時間に目が覚めた。当然のように二度寝をしようと試みたものの、目を閉じても布団に潜ってみても意識は薄れるどころかどんどん覚醒していった。
 二度寝は諦めて、身体を起こす。いつもよりも睡眠時間が短いはずなのに何故か頭の中はスッキリしていて、このまま家の中でじっとしているよりも外に出たくなった。外と言ってもこの時点で学校に行くという考えは全くなく、私服に袖を通す。

 携帯とバイクの鍵だけ持って家の外に出た。数年前、まだ学校にまともに通っていたころ感じていた、朝の空気に久々に触れたような気がする。まばらに歩いている通勤、通学目的の人々を横目に、バイクに跨った。
 よくよく考えてみれば、こんな時間だと道は混んでいるかもしれない。特に何の理由も目的もなく、適当に走るかくらいの勢いで外に出たはいいものの、この時間の道路状況は未知だった。通行人が多そうなうちはスピードも出せないだろう。海か山か、どこへ向かうにしても、途中までは快適とは言えなさそうだ。
 家に引き返すことも考えたけれど、それも面倒だった。人と車の多いエリアさえ抜ければどうにでもなるだろうと行先を考え始めた時、歩道を全力疾走している女の後姿が見えた。制服を着た女は徐々に失速し、やがて肩を大きく上下させながらその場で立ち止まった。「遅刻」という文字が頭に浮かぶ。
 バイクでとろとろ走っていてもすぐに追いついて、そのまま女を抜き去った。追い抜いた瞬間、バックミラー越しに見た女の顔が知り合いと似ていて、思わずブレーキをかける。振り向いて確認した顔は、思っていた通りココのダチ、と言うか幼馴染だった。
 頻繁に会っていたわけではないし、二人きりで会ったことも話したこともない。彼女と会うのはいつもココと一緒だ。そうなると次は声をかけるかどうか迷ったものの、一人でとぼとぼと歩く彼女を放っておくのは可哀想に思えた。

 「おい」

 数メートル離れた場所から声をかける。彼女は自分のことだとは気付いていないようで、オレのほうを見向きもしなかった。

 「おい、

 ココがいつも呼んでいるのを聞いていたのだから、彼女の名前くらいは知っている。でも、実際に自分で呼んだことはなかったし、そんな場面に遭遇したこともなかった。
 これで気付かれなかったらオレは何も見なかったことにしようと決めて、少し緊張しながら彼女の名前を口にする。名前を呼ばれてさすがにこちらに気付いたようで、驚いた表情のと目が合った。

 「イヌピーくん!おはよう」
 「久しぶりだな」
 「うん、久しぶり」

 覚えられていたことに安堵しつつ、バイクを押して歩道まで歩く。息が整ったのか、そこには前に会ったときと変わらない、寂しげな背中とは無縁な様子の彼女がいた。

 「歩きながらでもいい?」
 「あぁ。もう息は整ったか?」
 「え?」
 「さっき走ってるところ見た」

 歩きながらと言ったのはの方なのに、一瞬だけ彼女が動きを止める。マズいことでも言ったのかと彼女の顔を見下ろすと、気まずそうに視線を逸らされた。

 「見られてたんだ……」
 「偶然横を通りかかっただけだ」
 「今日に限ってってやつだね。実は今日寝坊したの」
 「寝坊?」
 「そう、寝坊。乗らなきゃいけないバスが行っちゃって、遅刻確定したところ」

 視線を前に向けてもバスの後姿すら見えなかった。追いかけていたくらいだから、ギリギリのところで間に合わなかったのだろう。に同情したものの、寝坊した上に乗らなければいけないバスにも乗り遅れたと言うのに、彼女に焦る様子はない。

 「遅刻するなら学校行く必要もねぇな」
 「学校には行くよ?」
 「……」

 このまま学校はサボるのだと思っていたら当然のように学校に向かうと言われ、返す言葉が見つからなかった。これが普通なのだと再確認すると共に、平日のこんな時間からバイクを走らせようとしていたとはに言いにくくなる。きっと話が通じないだろう。

 「戻るのも面倒だし、次のバス停でバスに乗ろうかと思って」
 「だったら送ってやろうか?」

 ようやく見えてきた次のバス停を指差したに向かって、自然と「送ってやる」という言葉が出ていた。自分でも驚いたけれど、特に予定もないわけだし彼女を送ってからのツーリングでも何も問題はない。勢いで言った台詞だとしても、後悔もなければ撤回する気も起きなかった。

 「大丈夫だよ、もうバス停見えてるし」
 「バス停までなわけねぇだろ。駅に行くんじゃねぇのか?」

 目の前に見えているバス停まで送るだなんて、そんなバカげた提案する奴がこの世にいるのかと笑いそうになるのを堪えながら言い返した。は口を半開きにさせた状態で、不思議そうにオレの話を聞いている。

 「そうだけど……」
 「学校はどこだ?ココと同じとこか?」
 「同じ学校だよ」
 「駅まで行ってから電車?」
 「うん」
 「じゃあコイツで行くほうが速ぇよ。学校、間に合うぞ」

 ここからバスに乗り、その後電車に乗り換えて、最寄駅から徒歩で学校へと向かうルートは簡単に想像できた。それと同時に、バイクだとココの通う中学へ最短ルートでどれくらいかかるのかも計算する。電車と違って比較的直線距離で行けるのと、最寄駅から学校まで歩くことを考えれば、かなり時短になるはずだ。
 握っていたハンドルをポンと軽く叩いて見せる。二人して視線をバイクに移した後、また顔を見合わせた。何も難しい話はしていないのに、頭のいいはずのは瞬きを繰り返したまま首を縦に振ろうとしない。

 「でも、イヌピーくんの予定は?」
 「ねぇよ」
 「学校は?」
 「……気にしなくていい。とにかく、オレには急ぐ様な予定はねぇ」

 時間に間に合うとは言え、ゆっくりしていられる暇はない。遠慮している様子のにヘルメットを投げた。なんとかしてヘルメットを受け取った彼女は、先程バイクにしたのと同じようにオレとヘルメットを交互に見る。

 「本当にいいの?」
 「いいから言ってんだろ。ヘルメットしろ」
 「……ヘルメットって被るだけでいいの?」
 「……」

 ヘルメットの被り方がわからないらしいのために、バイクを停めて彼女の手からヘルメットを奪った。頭に被せてから簡単に紐を調節して装着させる。至近距離でオレを見上げる視線に言い様のない何かを感じながら、再びバイクのハンドルを握った。

 「ほら、後ろ乗れよ」
 「イヌピーくんありがとう。よろしくお願いします」
 「振り落とされねぇようにしっかり捕まっとけよ」
 「えっと、このへん捕まってたらいいのかな?危なかったら教えてね」

 ヘルメットの被り方を知らない時点で察してはいたけれど、は本当にバイクの後ろに乗ったことがないようだった。ココはバイクに乗らないし、彼女の知り合いにバイクを乗り回しているような奴もいないのだろう。当然と言えば当然だ。
 恐る恐るバイクに跨り、よくわからない部分を掴んで準備した気になっているの手を掴んで引っ張った。そのまま、両手をオレの腹の前の辺りでクロスさせるようにして重ねさせる。驚きの声と共に、背中に僅かな重みがのしかかった。

 「掴む場所はここだ。死にたくなかったら思いっきりしがみ付いてろ」
 「ふぁい!」

 元気よく返事したの声は、思いきり上ずっていた。



* * *



 聞き慣れない排気音と頬を撫でる風。幼馴染の親友であるイヌピーくんの体温を感じながらの登校は特別だ。
 決してお喋りとは言えないイヌピーくんの静かな背中を、こんなに至近距離で感じたことはない。重たいと思われないか心配な気持ちを抱えつつ、彼の背中にしがみ付くのに幸せを感じずにはいられなかった。

 寝坊した瞬間から、既に絶望は始まっていた。走ればギリギリバスの時間に間に合うかどうかという瀬戸際で、必死に準備をして家を出た。走るのに何よりも邪魔な鞄を抱えて精いっぱい走ったにも関わらず、無情にもバスは私の視界から消えて行った。寝坊し、バスに乗り遅れ、学校に遅刻、そして最終的に先生から叱られる未来。絶望の連鎖を覚悟する。
 そんな負の連鎖を断ち切ってくれたのはイヌピーくんだった。久しぶりに顔を合わせた彼は、前と変わらず表情の薄い、儚い印象の少年だった。それでいて強い意志を感じさせる鋭い眼光に、心臓の鼓動は速まる。
 イヌピーくんから声をかけてくれたことだけでも嬉しかったのに、更に彼は私を学校まで送ってくれると言う。学校に間に合うのならそんなに有難い申し出はないけれど、一番思いがけなかったのは彼とバイクに二人乗りすることだった。
 こうして最低な朝は、一瞬にして色を変えた。

 「イヌピーくん、一くんも送ったことあるの?」
 「いや、ねぇよ。でも用があってココに会いに学校まで行ったことは何回かある」
 「それで知ってるんだね、道」

 返事はなかった。先程から車が一台くらいしか通れなさそうな幅の道を走っている。電車とバイクではルートが異なるので、普段は通ることのない道だ。私よりイヌピーくんの方が道に詳しいだろうし、迷いなくバイクを走らせている彼のことを信用しきっているのもあって、ルートについてそれ以上は追及しないことにした。
 今どのあたりを走っていて、あとどれくらいで学校に着いてしまうんだろう。学校には遅刻したくないけれど、まだこうしてイヌピーくんの背中にくっついていたい。彼は信号で止まる度に「大丈夫か」と声をかけてくれたり「生きてるか」なんて、冗談を言ってくれたりする。何も言わなくても、そっと後ろを振り返って様子を伺ってくれているのにも気付いていた。そんな何気ない優しさを知るのが嬉しくて、回す腕の力が強まってしまうのは彼には秘密にしておきたい。

 「何か言ったか?」
 「ううん、なんにも!」
 「そうか」

 突然イヌピーくんに尋ねられて、思っていたことを口に出してしまっていたのかとヒヤリとした。すぐに否定すると彼は何故か小さく微笑む。返事が不自然だったのか、それとも無自覚のうちに聞かれると恥ずかしい思いの数々を本当に外に漏らしてしまっていたのか、微笑みの理由が気になる。

 「今日、あそこを通りかかったのは偶然だった」

 話し相手は私以外にはいないはずだけれど、他の誰かか、或いはまるで自分に言い聞かせるかのような、そんな様子でイヌピーくんが話し始めた。

 「さっきも言ってたよね。てっきりよく通る道なのかと思ってた」
 「そもそも普段ならこんな時間に走らねぇ」
 「朝だもんね」

 イヌピーくんは同い年のはずだ。本来なら私と同じように学校に向かうはずの時間、あの道をバイクで走っているとは考えにくい。
 学校のことは……言及しないほうがいいことなのだろう。一くんにも本人にも根掘り葉掘り聞いたわけではいけれど、少年院に入っていたことは薄らと聞いていた。
 
 「なんとなく目ぇ覚めて外出たけど、こういう日も悪くねぇな」
 「私を学校に送ることになっちゃったのに?」
 「嫌でやってるんじゃねぇよ」

 イヌピーくんの時間を奪ってしまったというのに、彼はとても爽やかだった。彼の性格的に、頼まれてもいないのにやりたくないことをするような人ではないとは思う。だとしても、言葉で伝えられると安心する。
 バイクはいつの間にか細い道を抜け、信号待ちをしていた。先程まで前を向いて話していたイヌピーくんが私を振り返る。

 「に呼ばれて目ぇ覚めたのかもな」

 イヌピーくんが小さく笑った直後、信号が青に変わりバイクがゆっくりと前進し始めた。もちろん彼はもう真っ直ぐ前を見据えている。
 リップサービスでも嬉しかった。イヌピーくんの後ろにいる手前大声で叫ぶこともはしゃぐこともできず、静かに彼の後ろで喜びを噛みしめるに留まったものの、顔は絶対にニヤけているだろう。こんな顔をしているのを見られると恥ずかしいので、思い切り下を向いて無駄な抵抗だけしておいた。それでも彼の服を握りしめる手に力が入っているのには、気付かれているかもしれない。一くんを通してでしかイヌピーくんと接点のない私が、こうして彼の日常に入り込む日が来るなんて夢にも思わなかった。

 それから5分も経たないうちに、無事にイヌピーくんと私は目的地である学校へと到着した。お世辞にも静かとはいえない彼のバイクがけたたましいエンジン音と共に校門の側に滑り込むと、通学途中の生徒が何人もこちらを振り向いた。車で保護者に送迎してもらっている生徒は見たことがあるけれど、バイクで送迎してもらっている生徒は私の知る限りはいない。それも、運転手が同世代くらいの髪の毛を染めた不良っぽい男子で、ヘルメットもしていないとなると視線を浴びるのは必然だった。

 「間に合ったみたいだな」
 「バスで来るよりも早く着いちゃったよ!イヌピーくん本当にありがとう!」
 「ならよかった」

 イヌピーくんは私の目の前で、眉尻を下げて安心したような表情で笑ってくれた。今ほど彼の儚げな笑みにきゅんときたことはない。
 毎日とは言わない。そんな贅沢なことは言わないから、こうしてイヌピーくんがいってらっしゃいと学校に送り出してくれたら、どんなに幸せだろうと思う。できれば彼にも学校には通って欲しいので、望むような望まないような不思議な気持ちではあるけれど、憧れることには変わりなかった。

 「また今度お礼させて」
 「これくらい、気にしないでいい」
 「無理にとは言わないし、イヌピーくんが嫌じゃなかったらでいいから」
 「……じゃあ、待ってる」

 今日のことに対する感謝は、イヌピーくんに対する感情は抜きにしたものだった。こんな時間から学校に送ってもらうなんて、彼の好意に甘えたにせよ「気にしないでいい」はずがない。
 イヌピーくんとは一くんを介して繋がっているだけだ。今朝のようにまた偶然彼に出会うか、私か彼が一くんに頼まなければ連絡を取ることはできない。お礼の件はもし彼に迷惑だと言われれば引き下がるしかなかったものの、最終的な返事が「待ってる」だったことに安堵した。
 不確かながらに、イヌピーくんにお礼をするというアポを取れたことに浮足立っていた。もう一度彼にお礼と、さよならの挨拶をして彼に手を振り、校舎へと向かおうとする。

 「おい、
 「?」
 「メット被ったまま学校行く気か?」
 「え……あぁ!」

 イヌピーくんに指摘されるまで、ヘルメットの存在をすっかり忘れていた。せっかく区切りよく、いい雰囲気で別れることができたのに締まらないなぁと内心溜め息を吐きながら、慣れない手つきでヘルメットを外す。
 再度お礼と共に、ヘルメットをイヌピーくんに返した。ヘルメットを受け取った彼は、未だに私の頭上の辺りを見つめていて視線が合わない。頭の悪い女だと呆れられているのだろうか。

 「髪の毛」
 「え?」
 「メットの所為で髪の毛が」

 ヘルメットを持ち替えたイヌピーくんの手が、こちらに伸びてくる。その直後、髪を手櫛でとかれたり、しっかりとした重みと共に頭を撫でつけられる感触に頭の中を支配された。
 無表情のまま私の髪の毛を触っていたイヌピーくんが、息を吐きだす。同時に彼は手を引っ込めながら、若干前かがみになっていた姿勢を正した。

 「こんなもんか」
 「……ありがとう」
 「じゃあ、またな」

 再び校門前に轟いたバイクのエンジン音が徐々に小さく、離れていく。イヌピーくんの後ろ姿が見えなくなるまでここにいたいけれど、時間よりも私の心の余裕的に、じっとしていられる状態ではなかった。まだ時間には間に合うのに、走り出さずにはいられない。
 あれこれ考えながら下駄箱を通り抜け、階段を一気に駆け上がった。今朝のことも私の気持ちも、一くんに話してしまおうか。……いや、やっぱり名前は伏せて友達に聞いてもらおう。まだ一方的に恋しているだけの段階なら、惚気話をしても許してもらえるはずだ。とにかく、誰かに聞いてもらいたくて仕方がない。



























イヌピーが出所して大寿と出会った後の設定です。
2023/01/28