※『幸福論の喪失』の後の話ですが、前作を読まなくても問題ないと思います

シャッフルビート 前編


 目が覚めてからまず風呂場へ直行し、シャワーを浴びた。朝には強くも弱くもない。目が覚めたら起きる、それだけだ。ベッドでごろごろしているのが嫌いなわけでもないけれど、特別そうしているのが好きなわけでもない。兄貴とオレとの性格の違いだ。
 兄貴はまだ起きていないだろう。昨日の夜からが泊まっていても、そういうところは変わらない。彼女が家にいようがいまいが、お構いなしだ。これでもまだには優しくしているほうなのが怖い。本人には絶対に言えないけれど、兄貴のどういうところがいいのか、歴代の彼女に尋ねてみたいものだ。
 シャワーから出てリビングへと向かう途中、兄貴の部屋のドアにこっそり耳を近付ける。この時間に起きている事はまずないとわかっているけれど、一応確認だ。何の物音もしないのを確認してから冷蔵庫へ水を取りに行き、テレビをつけた。念のため音量は小さめにしておく。

 物騒な内容のニュースを他人事のように聞き流しながら、シャワーで温まったついでに柔軟体操として開脚する。そのまま上半身を前に倒して床につけ、頬杖をついた状態で顔だけ持ち上げながらテレビを眺めた。ニュースの内容はいつの間にか新宿に出来た新店情報に変わっている。通り魔事件の後によくこんな内容を放送できるよななんて考えながらも、こっちの内容のほうが興味が湧くのが本音だった。が休みの日にこういうところに出かけてみればいいのに、あの二人は兄貴が夕方まで寝ているせいで、ありふれたデートとは無縁の生活をしている。彼女が不満に思うことはないのか疑問だ。

 「わっ!り、竜胆くん……?」
 「?」

 丁度のことを考えているときに彼女の声がした。仰け反るようにして声のした方向を見ると、眉間に皺を寄せた彼女が恐る恐るといった様子でこっちを窺っている。

 「何してるの?」
 「テレビ見てるけど?」
 「そんな格好で?」
 「柔軟のこと?」

 お互いに疑問をぶつけあうようなおかしな会話だった。すぐ隣にしゃがんだは、じろじろと遠慮なくオレの観察を始める。

 「竜胆くん、こんなに身体柔らかかったんだね」
 「まぁ」
 「小学生のころ体操やってるとかで身体の柔らかい友達はいたけど、こういうの久々に見たなぁ」
 「そんなに珍しい?」
 「出来ない人間から見ればすごいことだよ」

 全く起きてこない兄貴の代わりに、だけ部屋から出てくることはよくあった。彼女もどちらかと言うとオレ側の人間らしい。今朝の逆で、オレが起きたときに既に彼女がリビングでテレビを見ている、なんてこともあった。そうなると当然兄貴抜きで話すことになるので、彼女と二人で会話する機会は自然と増える。彼女が寝ている兄貴を無理矢理起こすなんてことがあるわけもなく、昼食をオレと二人で食べるのも珍しくなかった。たまに、は兄貴の彼女だよな?と思うことがある。
 そんなことの繰り返しで、柔軟しているところも見られたことがあるような気がしていた。実際には話したことすらなかったようで、風呂上りのオレがテレビの前のフローリングに寝そべっているのを見て、一瞬倒れていると思ったらしい。それを聞いて、左足のつま先を両手で掴みながら笑ってしまった。

 「何でそんなに柔らかいの?」
 「知らねぇよ」
 「蘭ちゃんも柔らかい?」
 「兄貴は多分硬い」
 「あははっ、ぽいかも」

 は兄貴が開脚しているところを想像しているようだ。男は柔らかくなくてもあまり困らないのではと言いかけて、やめた。兄貴の生々しい話はあまり聞きたくない。

 「いいなぁ、柔らかいの。羨ましい」
 「羨ましいか?まぁオレは喧嘩で有利だから便利だけど」
 「理由もないのに何故か憧れるんだよね」
 「柔らかいのに?」

 頷いてからが足を揃えて床に座った。そのまま足先を掴もうと両手を伸ばす。長座体前屈ってやつだ。何とかつま先に触れはしているものの「痛い痛い!」と彼女自身は悲鳴を上げている。

 「見てろよ」
 「わぁ……」

 同じようにして長座体前屈してみる。両手は余裕でつま先に触れるし、何なら顔も上半身もぴったり脚についた。

 「ちょっと怖いかも」
 「オイ!」
 「ごめんごめん。やっぱり竜胆くんすごく柔らかいんだね」
 「まぁな」
 「練習したら私も柔らかくなれるかなぁ?」

 先程と同じようにしてが長座体前屈し始めたので、後ろに回って背中を軽く押した。少し押すだけで再び彼女が悲鳴を上げる。これは先が思いやられそうだ。

 「徐々に慣らしていけば柔らかくなるだろ」
 「本当に?」
 「オレは元々柔らかいから練習してねぇし、言い切れねぇけど」
 「だよね」
 「風呂上りとか、身体が温まってるときにでもストレッチすれば?」

 オレがテレビの前でしていたのを真似て、が開脚する。180度どころか120度にも満たないくらいしか脚は開かず、身体を前に倒しても両手が床につくだけだ。

 「無理したら痛めるから、まずは肘が床につくのが目標だな」
 「……肘が床につく日なんて来るのかな」
 「続けてればまぁ……いつか?」
 「いつかかぁ。竜胆くんは他にどんなストレッチしてるの?」

 決まったメニューがあるわけでもないので、とりあえずよくあるようなストレッチを一緒にしてみることにした。ストレッチをしながら、のどこの部分がどれくらい硬いのかを観察する。

 「これ出来る?」
 「んー……ここまでなら!」
 「じゃあこれは?」
 「……これくらい!」

 オレがしているのに続いてが同じように身体を伸ばす。誰かと一緒にストレッチするような機会がないので、こうして向き合っているのが新鮮だ。
 
 「だいたいわかった」
 「たったこれだけで!?」
 「これだけっても結構あれこれやっただろ。ちょっと乗ってもいい?」
 「どうぞ」

 ほとんどの人間がそうであるように、ネックなのは股関節だ。ここの可動域が広がれば開脚もできるようになるわけだけど、可動域と言っても方向は様々なので、を寝かせて脚を曲げたまま少しずつ体重をかける。

 「これ痛い?」
 「痛くない」
 「じゃあこれは?」
 「ちょっと痛いかも?」
 「だったら」
 「オマエら何やってんの?」

 いつも聞いているよりもずっと低い声が背後からした。声の主は兄貴以外にはあり得ない。でも、単純にこっちの物音で目が覚めた時みたいな、そういう場合の機嫌の悪さとは何かが違う。寝起きの所為だとは思えない。
 つけっぱなしのテレビに視線をやって時間を確認した。まだ11時にもなっていない。と話してはいたけれど、人を集めて飲んでいる時ほど騒いでいたわけでもないし、何故こんな時間に起きてきたのかわからなかった。
 混乱しているもののスルーするわけにもいかず、仕方なく兄貴を振り返った。オレたち二人を見下ろす細められた冷たい目から、ひしひしと怒りのオーラを感じる。

 兄ちゃん、落ち着いてくれ。確かに誤解を招くようなことをしているかもしれない。オレがの足を掴んで、少し開かせるようにしながら体重をかけているのを見れば驚くのも仕方ないと思う。兄ちゃんの立ってる角度からだと正常位にしか見えなくて、何やってんのって言いたくもなるだろう。けど、本当にそれは誤解だ。よく見てくれ、はちゃんとズボン履いてるだろ。オレが上半身裸なのは風呂上りだからだ。それはいつものことで……。
 今、この場でこの台詞を全て言えたらどれだけ楽か。例え誤解でも兄貴にとってそれは言い訳にしかならない。



 * * *



 今日もベッドが僅かに揺れた振動で目が覚めた。が泊まりに来ているときはいつもこうだ。彼女が起きて、静かにベッドを抜け出すときに気付いてしまう。竜胆が連中を連れて来てリビングで騒いでいるときは気付いたり、気付かなかったりするのに、のときは必ず目が覚める。
 二度寝しようと目を閉じると、遠くからの声がした。高いのはで、低いのは竜胆だろう。何を話しているのか、内容までは聞き取れないものの会話しているのだけはわかった。これもよくあることで、オレが起きるまで二人がリビングで過ごしているのは珍しくない。この状態でも目を閉じているといつの間にか眠ってしまう。次に目が覚めるのは数時間後だ。

 何の話をしているのか、の笑い声が聞こえた。相変わらず会話の内容は全くわからないまま、楽しそうな二人の声が徐々に遠のいていくのを感じていると、突然「痛い痛い!」と声色の違う音が飛び込んできた。痛い?机に脚でもぶつけたか?リビングでの痛いシチュエーションが思いつかず、暗闇の中、音だけが意識を繋ぐ。
 その後も二人の会話は続いていた。いつもなら話の内容なんて気にもならずいつのまにか眠ってしまっているのに、目が冴えてしまったのか、眠気が全く襲ってこない。無意識のうちに耳が会話を拾おうとしているようだ。音の断片を解読しようと、知らず知らずの間に息を殺していた。
 こうなってしまったら一度起きてリビングに行こう。二人のやりとりを聞きながら水分補給でもして、また部屋に戻って眠ればいい。モヤモヤの原因を潰してしまえばいいだけのことだ。

 起き上がるのに時間はかからなかった。扉を開ければすぐにリビングだ。ドアノブを掴もうとしたとき、先程まで音の塊でしかなかった二人の声が、はっきりと形になって耳に届いた。「……出来る?」竜胆の声だ。「ここまでなら」と答えるのは。何をしているのか見当もつかないのに、ドアの側で聞き耳を立てたまま外に出ることが出来ない。数秒後に聞こえた竜胆の「乗ってもいいか」という問いかけに、増々混乱した。何に乗る話をしているのか。
 その後「痛い」とか「痛くない」という単語が聞こえてきて、とうとう我慢できなくなったオレは静かにドアを開いた。そんなはずはないと確信はあるのに、自分の目で確かめずにはいられない。まさかこんな昼間から、扉一枚隔てただけの場所で竜胆とが馬鹿なことをするとは思えないけれど、頭の中は二人がそういうことをしているという想像が占めていた。自室から出るのと「オマエら何やってんの?」と問いかけるのがほとんど同時になる。

 カーテンが開けられた窓から日が差し込み眩しさを感じながらも、二人の姿をすぐに捉えた。床に寝そべったと、彼女の脚を掴みながら体重をかけている竜胆が振り向く。「おはよう」といつもと変わらない様子で挨拶するに反して、竜胆は目を見開いてから視線を逸らした。に対して如何わしいことをしていたのが見つかったから焦っているのではなく、如何わしいことをしようとしていると誤解されることに対する焦りなのだと、二人の様子からすぐに察しがついた。

 「今日は起きるの早いんだね」
 「偶然目ぇ覚めただけ。またすぐ寝る」
 「……」
 「竜胆くんすっごく身体柔らかいんだよ!って、蘭ちゃんは知ってるか」
 「当たり前だろ」
 「それでね、私の身体が硬いからってストレッチ教えてもらってたところだったの」
 「そ、そーいうこと」
 「へぇ」
 「竜胆くんが柔らかすぎて全然真似できないんだよね」

 に何かを誤魔化しているような雰囲気はない。「見て!」と言いながら無邪気に長座体前屈をして見せる彼女が嘘をついているとしたら、女優だ。いつも通りの彼女に反して、竜胆は必要以上にオレを刺激しないようにしているのか様子を見ているだけなのか、相槌を打っていただけだった。多くを語ろうとはしなかった竜胆の代わりにが諸々説明したので、竜胆も誤解は解けたと考えているだろう。
 弟と自分の彼女が仲良くやっているのは悪いことではない。二人にそういう感情がないからこそ、先程みたいなことにも抵抗がないと言えるのかもしれない。……けれども。
 キレたり殴ったりしたくなるほど、頭にきたわけではなかった。ただ、オレはそこまで出来た人間でもないので、何事もなかったように振る舞うほど優しくもない。何となくスッキリとしないこのモヤモヤは、当事者二人にぶつけるしかなさそうだ。

 「じゃ、オレ寝るから二人は仲良くやってろよ」

 あえて少し嫌味な言い方をして二人をその場に置き去りにした。竜胆はもちろん無言だし、も何か異変を察知したのか返事が曖昧だ。
 そのまま自室に入ってドアを閉める。ベッドには直行せず、静かにもたれかかるようにしてドアに耳をくっつけた。完璧にとまではいかなくても、これで二人の会話はある程度理解できるはずだ。
 オレがリビングを去っても二人は無言を貫いていた。聴覚のみの情報なので、二人の表情なんかはもちろんわからないけれど、それなりに効いているようだ。
 ここで再びドアを開け、二人の前に躍り出て「実は二人が思っているほど怒っていない」なんてタネ明かしする気はない。ワクワクしてきて笑いが漏れそうになったのを、片手で塞いだ。お楽しみはこれからだ。




























2023/02/05