この家に連れてこられてからはずっと彼が一緒で、私がここから逃げないために監視しているのだとすぐにわかった。それなのに、手錠をされているわけでもなければ紐で繋がれているわけでもない。この家の中で身動きは自由だ。試されているのか他に何か理由があるのか、拘束されているよりはるかにマシとは言え、彼のこの行動は更に私を混乱させた。
ホワイトアウト 03
家の中を歩き回るわけにもいかず、ソファの上でひたすら時間が過ぎるのを待った。彼もあれ以上話しかけてくることはなく、何も起こることのないまま夜を迎える。ソファのすぐ側にはベッドがあり、私を拉致した張本人はやがて布団の中に潜り込み部屋の電気を消した。
急に暗闇の中に放り出されて寝付ける程、私は図太くは出来ていなかった。初めての環境、それも軟禁されている状況で落ち着いて眠れるはずもない。これから先の不安と眠ることに対する緊張感、父親について……考えても考えても結論の出ない問題が、ぐるぐる頭の中を巡り続けた。頭と身体は疲れていても、疲労感より絶望のほうが大きすぎたのかもしれない。
* * *
目が覚めると大きなテレビが視界に飛び込んできた。テレビよりも手前にあるローテーブルにはコンビニの袋が置いてある。昨晩にはなかったので、今朝になって彼が置いたのだろう。恐らく私の食糧だ。
眠ったような眠っていないようなよくわからない感覚の中、自分以外誰もいない部屋を見渡した。今のところ彼の姿はなく、物音もしない。出掛けているようだ。
一番初めに頭を過ったのは「今なら逃げることができるかもしれない」という僅かな希望だった。バルコニーに近寄ってレースカーテン越しに外を眺める。飛び降りることができない高さなのは想定内だとして、誰かに助けを求めることくらいはできるかもしれない。
もっと簡単なのは、今すぐ玄関まで走って堂々と外に飛び出すことだろう。誰も家の中にいないのを確認しながら、足音を立てないように一歩一歩玄関へと近付いて行く。物音ひとつしない室内を何度も振り返って確認し、玄関に辿り着いてから慎重にドアスコープを覗いた。ここから見る限り玄関の外に人はいなさそうだ。深呼吸して二つあるうちの鍵の一つに手を伸ばす。ガチャンという音が思いの外大きく響いて緊張が走った。震える手で二つ目の鍵も開錠する。
二つの鍵を開錠し再びドアスコープを覗いてみても、人の気配は感じられなかった。ここから逃げ出せば殺すと言われているし、仮に外に出られても見つけ出して必ず始末すると言われている。脅しに屈するなと叫ぶ私と、言う事を聞かないと殺されると呟く私、二人が私の中でせめぎ合っていた。後はもうドアノブを握るだけ、それなのにどうしても勇気がでない。
彼本人が監視するのをやめた代わりに、部屋の中に監視カメラを仕掛けたのかもしれないと思い始めて、動悸が激しくなった。一度部屋の中に戻ってテレビの裏や家具の隙間などをチェックしてみる。それらしい物は何も見当たらず、益々怖くなってきた。
あれだけ忠告しているのだから、この部屋から出た瞬間彼は私のことを堂々と殺害できる。本当は私にここから逃げ出して欲しいのだろうか。それが真の目的だとしたら、私は誰かに命を狙われている?昨日の彼の話を何の疑いもなく飲み込んだものの、必ずしも真実だとは限らなかった。私しか後継者がいないと言っておいて、本当はまだ他の後継者候補が存在するのかもしれない。彼が別の候補者と手を組んでいる可能性は?
何か手掛かりになるようなものはないかと、監視されているのを覚悟で部屋の中を物色することにした。父親に関する情報がないのは承知でも、このマンションの住所や私を軟禁している彼の名前くらいは知ることができるかもしれない。ここから出られた後のことを考えるのは気が早すぎるかもしれないけれど、もし無事に脱出できたら警察に彼を捕まえてもらう必要がある。そのためには何でもいいから情報が欲しい。
まずはリビングの本棚やタンスを探った。本棚はほとんど車の雑誌のバックナンバーだし、タンスにも請求書や明細書などの紙類は保管されていない。小型冷蔵庫やキッチンの棚など物色できるところは全て漁ったものの、彼の個人情報に関するものは見つけられなかった。次にリビングを出て風呂場や脱衣所を探ってみる。その場にあって当たり前の物しか見つけることはできず、ここも空振りだった。
唯一中に入ったことのなかった玄関の隣の部屋は主に服や季節ものが収納されてあって、物置部屋状態だ。それなのにこの部屋の中ですら綺麗に片付けてあって、家主の性格が垣間見えた。半ば諦めていた通り結局この部屋にも彼の手掛かりになるようなものは見つからず、掛かってある服がどれも細身の男性サイズなことから、この家の家主が彼であるとほぼ確定されたくらいだった。
違和感のないように漁った部分を戻しながら、私を閉じ込めておくなら物置部屋にすればいいのにと人質の身分ながら疑問が浮かぶ。ここならほとんど彼が出入りすることはないし、私の顔も見なくて済む。何かここにいられると困る理由でもあるのかと、もう一度物置部屋を見渡してみた。
透明な引き出しに服が綺麗に整頓されており、その中を一つを確認する。そこには似たようなジャージやスウェットが大量に収納されていた。私が身に着けているものとそっくりで、やはりこのスウェットは彼の私物だったようだ。それにしても、こんなに大量のジャージやスウェットを何に使うのだろうか。
そう言えば昨日、口論の後一度リビングを出た彼がスウェットを持って現れて「着替えろ」と言ってきたのを思い出した。そう言う彼も既にスーツからジャージに着替えているし、ハーフアップのようにまとめられていた髪の毛も下ろしていた。こんなラフな格好の彼でも拳銃を携帯しているのか気になりつつも言われる通りに従うしかなく、理由がわからないまま数十分の間に二回着替える羽目になった。
綺麗に片付いていて掃除の行き届いた部屋、所々に設置されたウェットティッシュ、ここに到着するなり人質に入浴を強要。前にテレビで自らを潔癖症だと言っていた俳優が「自宅に遊びに来た友人にはまず風呂に入ってもらう」と言っていたのが思い浮かんだ。もしかして彼も……?この物置部屋はスーツなど毎日洗うことのできない衣類も収納してあるので、そこに私を留まらせたくないのならば辻褄は合う。トイレなどやむを得ない理由で私がこの部屋から出た場合、別の部屋に外のあれこれを持ち込まれるのが許せないに違いない。
物置部屋に入ったことが知れたら嫌な顔をされそうなので、そそくさと部屋から出てリビングに戻った。結局家のどこを探しても彼に関するものは何も見つからないまま、唯一わかったのは恐らく彼が潔癖症だということくらいだ。電気代の請求書くらいあるかと思っていたのが甘かった。ここまで何もないと、本当にこのマンションが彼の自宅なのか疑問だ。
部屋を見渡す限り、私を軟禁するための部屋と言うよりも実際に誰かが住んでいるような雰囲気はしている。雑誌やチェス盤などのゲーム類は生活感があるし、部屋の内装もお洒落だ。ただ、生活感に反して何も見つからないとなると、このマンションは仕事用の別宅なのかもしれない。とにかく、これ以上の情報に関しては望み薄だった。
何の手掛かりもないに等しいのに状況を推測するのは困難だった。彼が何を目的にしていて何を考えているのかわからない以上、あからさまな監視の目がないからと安易に外に出るのは危険だ。
散々部屋を物色した後はソファの上で丸まったまま、玄関には近寄ることすらなかった。監視されている可能性があるとしても家に一人でいるという安心感からか、気が付けば眠ってしまっていた。目が覚めた時には既にジャージ姿の彼がいて、ベッドの上でパソコンを睨みつけていた。
2023/06/10