悪あがきに反する現象 05


 竜胆くんから電話があったことは友人にまだ話していない。友人にこのことを話せば、また何か勘違いされるかもしれないと思ったのが一つ。それともう一つ、本当は今日にでも友人に話す決心はあったものの、肝心の本人が学校を休んでいたのだ。
 私としては長い間ピアスを預けっぱなしにするのに申し訳なさがあって、あまり日程を先延ばしにしたくなかった。友人が休んでいるので迷ったものの、ダメ元で竜胆くんに連絡をしてみる。竜胆くんと話した二日後に電話したときには彼と連絡はつかなかったのに、こういう時に限って簡単に電話が繋がってしまい、友人への事後報告が確定した。俺も一緒に行きたかった!と友人に拗ねられないことを祈るばかりだ。


* * *


 竜胆くんに会う約束を取り付けた私は、予定通り彼の住むマンションを訪れた。前回から少しだけ時間が経ったけれど、今でもインターホンを押した記憶は鮮明に覚えている。この前と違うのは、一人で玄関扉の前に立っているという事だ。インターホンを押して暫く待っていると、静かに扉が開いた。

 「よぉ」
 「こ……」
 「どうした?」

 「こんにちは」と言おうとした私は、竜胆くんの顔を見た途端に言葉を失ってしまう。左頬には大きなガーゼ、目の辺りは僅かに腫れて、青紫色になっていた。他にも小さな傷が何か所かある。固まったまま竜胆くんを見つめていると、彼が後ろを振り返った。

 「……何?オレの後ろに何かいる、みたいなの怖いんだけど」
 「えっと」

 あからさまな態度を取ってしまったけれど、言葉にして傷のことを突っ込んでいいのか気がかりだ。そんな私を後目に、竜胆くんは「入れよ」と言って道を空けた。

 そのまま2人でリビングへ直行してソファに座る。彼に話したいことがたくさんあったはずだった。でも今は顔の傷どうしたの?大丈夫?そんな言葉ばかりが頭に浮かぶ。

 「マジで後ろに誰かいたとかじゃねぇよな?言っとくけど兄貴はいねぇから」
 「そうじゃなくて……」
 「じゃあ何?」
 「聞いていいのかわからないけど……その傷、大丈夫?」

 ここでやっと竜胆くんの顔を直視する。彼は一瞬視線を迷わせてから、息を吐きだした。

 「これ?大したことねぇよ」
 「何があったの?」
 「兄貴の買い物付き合ってて、オレだけ外で待ってたら急に後ろから何か飛んできた」
 「後ろから?」
 「その後すぐに何人か出てきて殴り合いになっただけ。流石に後ろからいきなりは気付けねぇよ」

 殴り合いになっただけ。私にとっては大事件だけれど、竜胆くんにとっては知り合いに話しかけられるくらいのことなのかもしれない。そんな彼でも不意打ちには敵わなかったらしく、その結果今の顔になってしまったらしい。殴られたのは丁度私が初めて電話した日で、電話に出られなかったことを謝られた。更に彼は溜め息を吐きながら続ける。

 「でもその所為で兄貴がキレちまってよ。それで今家にいねぇの」
 「仕返しに行ったの?」
 「知らねぇ」

 竜胆くん本人は微塵も弱々しさを感じさせない。彼曰くもう痛みもほとんどないとのことだった。そうは言われても痛そうなものは痛そうで、無理しているようには見えなくても心配してしまう。
 まじまじと顔を見つめていると頬のガーゼを止めているテープが少しだけ捲れかかっていて、思わずそっと手を伸ばした。伸ばした手は一瞬で竜胆くんに掴まれて、息を飲む。腕を掴んだ彼も驚いた表情をしていた。暫しの沈黙。

 「ご、ごめん。テープが取れそうなのが気になって」
 「……」
 「急に触られそうになったら怖いよね」

 竜胆くんが黙って腕を解放した。宙ぶらりんになった腕をそのまま伸ばして、テープを軽く頬に押し付ける。彼はそれを黙って受け入れてくれた。
 直後に彼は無言のまま立ち上がった。恐らくピアスを持ってきてくれるのだろう。
 
 竜胆くんはそういう世界の人なのだ。私に乱暴なことをしないから実感はないけれど、殴ったり殴られたりが普通の世界に身を置いている。彼らには彼らなりの理由があって、そういう世界を生きている。
 先程の話を聞く限り、竜胆くんは始めから狙われていたんだろう。あんな話を聞いた後だと、2人ともその辺にいる不良みたいに、ただ威嚇しながら街を歩いているようなレベルの人ではないのだと痛感する。リーダーのような存在だと聞いたのも納得できた。詳しくは知らないけれど、よくよく考えればこんな都会の広いマンションに、私と同世代くらいの兄弟が2人で住んでいるのだって普通ではない。やはり、只者ではなさそうだ。
 お酒が入っていないとこんなに人は冷静になれるものなのだと、身をもって知った。だから未成年はお酒を飲んではいけない決まりなんだ。勢いに任せて馬鹿なことをしてしまわないように。

 すぐに竜胆くんが戻ってきて、先程と同じ場所に腰を下ろした。握られた右手の中にはピアスがあるに違いない。何故かこのタイミングで、彼の右手に刺青が入っているのに今更気付いた。どうしてこの前は何とも思わなかったんだろう。

 「見つかってよかったな」
 「ご迷惑をおかけしました」
 「ピアスあいてるって、あの時気付かなかった」
 「実はお母さんにも内緒にしてて……」

 私の掌にピアスを落とした後、おもむろに伸ばされた竜胆くんの右手。右手はそのまま私の髪の毛に触れて、髪が耳にかけられる。本当に穴が開いているか確かめているのか、次は耳たぶが摘ままれた。
 不意打ちだった。彼氏でもない異性に顔周りを触られる機会はほぼないし、ましてや相手は竜胆くんである。意識してしまっている相手だ。隣り合って座っているだけならまだしも、こんな展開は予想していない。顔に熱が集まってくるのを感じつつ、平然を装うためにこっそり拳を握った。

 「あのさぁ、聞きたいことあんだけど」
 「……何?」
 「あの日、兄貴の部屋で何があった?」

 手は触れるか触れないかの微妙な手つきで耳の輪郭をなぞっている。竜胆くんがこういうことをするのが意外だ。
 咄嗟に思い出したのはお兄さんのことだった。意味深な行動はお兄さんに似ている。ただ、その話をするということは、お兄さんの部屋であった出来事を話すことと同義だ。大げさにしたり勿体ぶるようなことではないのはわかっているのに、彼の行動と質問の内容に動揺を隠せなかった。

 「えっと……」
 「そのピアスどこで見つかったと思う?」
 「……」
 「兄貴が見つけたんだぜ?ここまで言えば場所もわかるよな?」

 あの日は何も起こらなかった。それは事実だ。お兄さんにからかわれただけ。でも竜胆くんの一言でピアスがどこで見つかったのか大体の見当がついたし、あの時だろうなと身に覚えもあった。
 お兄さんはあの日の出来事について、どんな風に伝えたんだろう。お兄さんを悪くは言いたくないけれど、竜胆くんの口ぶりだと、確実によくない方向に勘違いしている。軽蔑なのか憤りなのか、兎に角マイナスなイメージが働いているように思えてならない。

 「お兄さん目が覚めちゃったって言ってたし、私のことからかって遊んでたんだと思う。ベッドに押し付けられた時は正直びっくりしたけど、その後の台詞が『音量下げて』だよ?身構えたのが馬鹿らしくなっちゃって……」

 本当の事しか話していないのに、饒舌な語り口がまるで嘘を吐いているかのようだ。無駄に明るい声だけがリビングに響いて空しい。これでは逆効果な気がしてきた。竜胆くんが眉一つ動かさず、いつも通りなのがまた気まずい。

 「とにかく、竜胆くんが考えてるようなことは何もなかったよ。お兄さんに聞いてもらったらわかると思う」

 信頼度で言えば、お兄さんと私を比べたとき、お兄さんが圧勝しているのは揺るぎない。私がどれだけ必死になっても、お兄さんの説明の内容によっては意味がないのではと不安になった。でも、私のことはからかっていただけだとして、彼が竜胆くんに意味のない嘘を吐いているとは思いたくない。

 「わざわざ竜胆くんに言うことでもないかなと思って話さなかったの。でも、こんなことになるとは思わなくて」

 これだけ必死になって当時の状況を説明しようとはしているけれど、竜胆くんが心配しているのはお兄さんの身の安全と、私の人間性についてだろう。軽い気持ちでお兄さんに近付く変な女を招き入れてしまったとか、初対面の相手に色目を使うユルい女とか、そういう類のもの。
 冷静になろう。勢いに任せるのはよくないとさっき考えていたばかりなのに、焦っていた。竜胆くんに勘違いされたくないし軽蔑されたくない。

 「……疑って悪かったな」
 「竜胆くんが謝ることじゃないよ」
 「泣きそうな顔すんなって。逆に何かあったのかって焦る」

 竜胆くんは「オマエ嘘吐くの下手くそだろ?」と笑っていた。そこまで必死な姿に映っていたことが恥ずかしい。
 こうして目の前で笑う竜胆くんは、私にとって男の子でしかなかった。決して普通の男の子、ではないけれど、一緒にいるといろんな気持ちにさせられる、そういう存在。もう一度冷静になろう。冷静になれば、私と竜胆くんがこの先、どうこうなるだなんてありえないことはすぐにわかる。生きている世界が違いすぎるし、きっと見えているものだって全然違う。私はあっち側には行けない。竜胆くんもこっち側に来ることはない。私の知っている竜胆くんはほんの一部でしかないのだ。
 二種類の気持ちが私の中でせめぎ合っていた。小さな覚悟のために、口を開く決心をして竜胆くんを見据える。嘘を吐くのが下手くそだって言われたばかりだけれど、今から吐く嘘だけは最後まで隠し通さなければならない。

 「……嘘吐くの下手な私だけど、これからも友達でいてね」
 「何、急に」
 「なんとなく」

 竜胆くんの顔がまともに見られない。友達だなんて、自分で言っておきながらおこがましいのわかっている。でも一線を引くためにも、この関係に無理矢理にでも何か名前を付けておきたかった。

 「本当に下手くそだな」
 「……私嘘吐いてないよ?」
 「どうだかなぁ」
 「吐いてないってば。竜胆くんに嘘吐く理由なんて私には……」
 「下手くそなくらいのほうがいいって。オレは嘘吐けねぇ女の方が好き」
 「!?……そっか」
 「ハハ!今日はこれくらいにしといてやるか!」

 いつの間にか外は暗くなり、夜が訪れようとしていた。竜胆くんと一緒にいると時間が過ぎるのが早い。時間も何もかも、感覚がおかしくなってしまうような気がする。お酒のせいだと思ってたけれど、そうではなかった。全部彼の所為だ。

 竜胆くんの顔が真っ直ぐ見られなくて、黙って鞄を持って立ち上がった。彼がどんな表情をしているのかはわからない。何も言わずに帰るのは失礼なので「帰る」とだけ呟いたら、自分でも驚くほど声が小さく、掠れていた。それが面白かったのか、彼がまた隣で笑い声を上げる。

 「……お邪魔しました」
 「またな」

 今度はしっかりと、竜胆くんの顔を見て挨拶をした。ガーゼや傷が痛々しいのは変わらないものの、口元は僅かに上を向いている。
 座ったままの彼と立ち上がった私とでは、背の高さが普段とは逆転していた。見下ろす形になる彼に、何故だか無性に触れたくなる。伸ばしかけた腕を引っ込めて、もう一度声をかけてから玄関に向かった。要するに、完敗だった。




























不意打ち食らった竜胆を見て蘭はその場では笑っていそう。
下に会話文のみのおまけがあります。本文で触れられなかった部分です。

2022/08/27








 おまけ

 ―後日―

 「もうこんな時間……そろそろ帰るね」
 「も混ざれば?」
 「課題やらなきゃいけないし、今日は帰る。男の子だけで盛り上がって」
 「えー」
 「竜胆くんチーッス!蘭くんが入っていいって言って……は?お前なんでいんの?」
 「!?あの、えっと……私はもう帰るから!……っていうかどうしたの、その傷。また喧嘩した?」
 「これは竜胆くんの敵討ちをだなぁ」
 「それで学校休んでたんだ?」
 「ンなことよりもお前だよ!何で!?」
 「何でだろうなぁ?」