軟禁生活が始まって一週間くらい経っただろうか。もう何度朝と夜を迎えたのかも覚えていない。気が付けば夜になっているし、いつの間にか朝日が昇っている。軟禁される前、OLとして働いていた頃としていることが違うだけで、毎日を消化するだけの日々を繰り返していた。
ホワイトアウト 07
大抵は彼が家を出る準備をしているのを眺めることから一日が始まる。人の活動する気配で目覚め、ソファから身体を起こすと部屋の中を動き回る彼の姿がある。いつもスーツに身を包んだ彼は、身だしなみはきっちりとしていた。ただし、家を出る時間が決まっていなさそうなのと、何よりも彼の身なりがまともな会社員ではないと物語っているのは言うまでもない。スーツ姿とは言えピアスに染髪。あそこまで派手なのはベンチャー企業勤務の知り合いでもなかなかお目にかかったことはない。あの服装でなければ別の可能性も探れたものの、スーツなのがかえって「ヤ」のつく職業的なものを連想させた。
善か悪かは別にして、彼は何かしらの組織に所属しているようで、組織のために日々働き、私をここに閉じ込めていた。一日のほとんどの時間ソファの上で思いを馳せているだけの私は、今や世間にとっていてもいなくても大差ない存在だ。彼が本当にあちらの世界の住人だとしても、外で活動しているだけ彼のほうが人間らしい生活をしているのかもしれない。あとどれくらいこの時間が続くのかわからないけれど、繰り返していた当たり前がずっと前のことようだった。
職場はどうなっているのだろう。上司や同僚は警察に相談してくれただろうか。元の生活のことを考えると胸が詰まるような思いになる。当然ながら軟禁生活が始まってから、職場には連絡すらできていなかった。私のスマホは取り上げられてしまったし、外との連絡も禁止されている。それに最初の数日間は得に、考えることが多すぎて仕事のことまで気を回せるほどの余裕もなかった。
せめて「長期間休みます」や「退職します」でも一言連絡できれば、これ以上職場に迷惑をかけることもないのにと、自分の状況を差し置いて冷静な考えが過った。続きを入力しようと思っていた資料や、掻き集めたデータの保存場所を伝えることばかり考えている私は、前の日常に戻ることを既に諦めているのかもしれない。彼にも言ったように、日常を取り戻したところで私には何も残っていないのだ。
母を病気で失い、それ以上に大切な存在もない私は生きる理由みたいなものも同時に失った。家族、恋人、ペットや趣味、仕事……生きる理由なんて様々なのはわかっているけれど、簡単に新しい理由を見つけることができなかった。母の死はいつか必ず訪れることで、乗り越えなければならないと頭では理解していても心が追いついて来ない。大切な友人もいて恵まれているはずなのに、心の中の大きな穴は埋まることなくそこに存在し続けていて、こんな目に合う前から孤独だった。
母の死から緩やかに落ち着きを取り戻していっていた最中、訳がわからないまま拳銃を突きつけられ、繰り返される「殺す」という脅しに初めて自分の死を覚悟した。その時は生きることに必死で、それ故にここから逃げる勇気もなく、言われるがままこの家の中に閉じこもる選択をした。私には生きる目的や理由もないことを忘れて、ただ「生きたい」しかなかった。死への恐怖が何物にも勝っていたのだ。
ストレスだったのは自分が死と隣り合わせなことだけではない。時を同じくして聞かされた顔も見たこともない父親の存在、そして父を含むその家族のせいで今自分がこんな目に遭っているのだと知ったとき、全て投げ出してしまいたい気持ちになった。彼は父と交渉すると言っていたけれど、そんなものは本当に成立するのか。交渉が成立するかどうかは別として、そんな人々のために私が生き残る価値はあるのか。
全く出口の見えないトンネルの入り口に立っているような気持ちで毎日を過ごし、理由もなく生にしがみ付いていた私が時間を追うごとに「もう死んでもいい」と考え始めるのは、ある意味必然だったのかもしれない。自ら命を絶つ勇気も外に殺されに行く勇気もないくせに、生への執着は時を重ねるごとに薄れていった。トンネルの中は真っ暗で、外からの音は聞こえない。唯一聞こえるのは私を拉致した彼の声と、一方的にテレビから流れてくる音声だけだった。
* * *
「あ、あの……」
「……」
「ご相談があるんですが……」
職場のことを思い出したその日のうちに、帰宅した彼に思い切って声を掛けた。リビングにジャージ姿で現れた彼の顔を見つめても目線さえ向けられず、まるで私の声が届いていないかのようだ。仕方がないので返事を待たずして用件を口にしてみる。
「……少しだけでいいので職場に連絡させてもらえませんか?」
「……」
「要件だけ話したらすぐに切ります」
「……オマエ、自分が何言ってるかわかってんのか?」
相談内容を聞いてようやく彼が口を開いた。それでも視線は相変わらずスマホのまま、画面を見つめる目が僅かに細められただけだ。
「違うんです、警察呼んでもらおうとしてるとか、そういう目的じゃ」
「だったら目的は?」
「ただ、謝罪したくて……。休職とか退職の意向だけでも伝えたいんです」
「……ナメてんのか?口では何とでも言えんだろーが。相手が電話に出た瞬間助け呼ばれるだけでアウトなんだよこっちは」
「で、でも……」
「うるせぇなぁ……いい加減黙らねぇと殺すぞ?」
ここで初めて彼がこちらを向いた。不機嫌そうな鋭い眼光が突き刺さるようだ。ベッドを下り、数歩で間合いを詰めてきた彼に殴られることを覚悟した私は恐怖で目を閉じる。歯を食いしばって耐えようとしたものの、痛みもなければ胸倉を掴まれることもなかった。薄く目を開けてみると、すぐ目の前に迫っている彼の素足が見える。
「社会にはテメエの代わりになる奴なんざいくらでもいる。会社は社員を心配するポーズくらい取ってんだろうが、んなもん形だけだ。オマエがいなくなろうと他の奴らはいつも通りに生きてんだよ」
彼の言っていることは間違いだと言い返せないのが悔しくて、唇を噛む。そんな私の行動が面白かったのか、彼は更に至近距離に近寄り、耳元に顔を寄せてきた。
「可哀想になぁ?だがオマエを必要としてる奴らがいるのも事実だ。余計なことして無駄に命を使うなよ?」
心底楽しそうに、弾むような声で言ってから彼はベッドへと戻って行った。まるで考えていることを見透かされているような一言に心臓が跳ねる。
「殺す」と脅されても死ぬことは許されない。私が死ぬのは彼に殺される時だけだと言われているようで、苦しくなった。
2023/06/24