家の中を隅々まで掃除してからソファで休憩していると、玄関の方から物音が聞こえた。前に一度、家を出た彼が昼間に戻ってきて、掃除しているのを見られた事がある。その経験があったので日中に彼が帰宅することもあるのだとわかってはいたけれど、何だか前と様子が違う気がした。

ホワイトアウト 10


 不思議に思いながら耳を澄ませば明らかに彼一人ではない数人の足音が聞こえて、私は咄嗟にソファの影に隠れた。トイレに立て籠もるくらいできればよかったものの、気付いた時には人の気配がドア付近にまで近付いていて、それどころではなかった。

 「女を探せ!この家のどこかにいるはずだ!」

 響いた声は明らかに彼のものではなかったし、警察官のものでもなさそうだった。彼の仲間か、それとも父親側の人間か。どちらにせよ私が見つかるのは時間の問題だろう。武器になりそうなものも周りにはなく、時間の無駄だと知りながらも、息を顰めることしかできなかった。

 「いたぞ!捕まえろ!」
 「ッ来ないで!」
 「オイ、暴れるな!」
 「い、痛い!放して!」
 「早く拘束具を切れ!」

 突如リビングに現れた体格のいいスーツ姿の3人組はやはり警察官ではない。ソファの影で蹲っていただけの私は、予想通りすぐに見つかってしまった。
 三人組の一人は乱暴に腕を掴んでくる。手を振りほどこうと必死に抵抗すると、その男の拳が私の顔にヒットした。素人が咄嗟にかわせるはずもなく、脳天がぐらりと揺れる。揺れと痛みでわけがわからない中、気付いた時には自然と涙がこぼれていた。

 「おい、あまり手荒な真似は……」
 「うるせぇ!オレたちの仕事はコイツを引き渡すことだ。失敗したらこっちが詰められんだろうが!」
 「……」

 私を殴った男が叫んでも、他の二人は何も言い返さなかった。私を引き渡すのが仕事ということは、彼の命令でやって来た仲間なのかもしれない。交渉が成立して、私は父の元に連れて行かれるのだろうか。全て憶測でしかなかったものの、質問すればまた拳が飛んでくるかもしれず、怖くて何も聞けなかった。

 彼の強いた暴力とは無縁の軟禁生活に慣れ切っていた私は、人質がおおよそ受けるような恐怖に対する耐性を失っていた。その所為で久しぶりに受けた身体と心の痛みについていくことが出来ない。初めて拳銃を突きつけられたときの感覚は消え失せ、拳による暴力という新しい恐怖が上書きされた。
 この三人が拳銃を所持しているかはわからないけれど、私を殴った男なら話し合いの余地なく私のことを殺してもおかしくはない。三人組が敵なのか味方なのか実際のところは不明だとしても、殴られた以上、助けが来たと素直に喜べる状況ではなかった。

 「引き上げるぞ!」
 「わかってる!おい、早く歩け!」
 「っ……」

 腕に込められた力と殴られた痛み、それに加えて恐怖と不安、全てが歩みを遅らせる。足を動かしたくてもまるで自分のものではないかのように動いてくれない。もたつく私に苛立ちを募らせた男が声を荒げた。

 「さっさとしやがれ!テメェ、死にてぇのか!」
 「死にてぇのはどっちだ?」

 また殴られると覚悟して目を閉じた瞬間、聞き慣れた声が玄関の方から聞こえてきて、思わず顔を上げた。姿を現したのは目を細めて男を睨みつける、この家の主だった。

 「他人の家に無断で押し入るなんざ、犯罪者と変わらねぇなぁ?テメェら、どこの連中だ?」
 「クソッ、嗅ぎつけられたか……!」
 「ナメてもらっちゃあ困るんだよ。女置いて出て行け」

 見たことのない男が彼と一緒に三人組の前に立ちはだかる。よく見るとその後ろにもまだ二人ほど男が立っていた。数ではこちらが勝っているようだ。
 
 「女を置いて行け?オレたちは社長の命令で実の娘を連れ戻しに来ただけだ」
 「人を拉致して強請りの材料にしている犯罪者はお前らだろう」
 「お前たちこそ、大人しく人質を解放したらどうだ」

 それでも三人組は屈することなく、彼ともう一人に食って掛かった。今の発言で、三人組が彼の味方ではなく父側の人間なのだと確信する。
 拉致した側の犯罪者と、拉致された被害者の家族側の人間が対峙しているのだから、本来なら私は後者の側を味方と捉えるのが正しい。それなのに、私を連れて行くのに手段を選ぶ気配のない味方側の人間に恐怖を感じていた。この人たちに着いて行って、私の安全は本当に確保されるのだろうか?

 「社長の命令?過去に切り捨てたくせに、必要になったら取り戻すってか?身勝手な親だなぁ?」
 「黙れ!お前には関係ない!」

 彼の言葉を聞いて私の中で何かがすっと引いていくのがわかった。理由があったにせよ父が過去に私と母を捨てたのは、誰も弁解しないのを見る限り間違いないのだろう。にもかかわらず自分の会社のことで行き詰まったからと、こうして一度捨てた私を巻き込んでまでも会社を維持しようとしている。彼の言う通り、身勝手だと思った。
 それに本当に私のことを心配してくれているのなら、こんなヤクザ紛いの人間を差し向けたりせずに話し合いで解決しようとするはずだ。連れ戻すのに失敗すれば私の命が危険にさらされる可能性があることだってわかっているのに、このような強硬手段を選んだのは父なのだ。私の安全を第一に考えてくれているとは言い難かった。
 結局全ては父の為、そして父の会社の為でしかなく、私は数十年の時を経て、そのいざこざの中心になっている。父が助けてくれるかもしれないと心の底で僅かながら信じていたのに、その希望は父によって粉々に砕かれた。
 
 「ガキがナメやがって!」

 三人組のうちの一人が隙を見て彼に殴りかかろうと襲い掛かった。しかしそれを簡単にかわしてから、彼は男に拳銃を突きつける。三人組の1人が人質に取られる格好になり、形成は大きく傾いた。ここで一人殺されたとして、残りの二人が生きて私を連れ帰ることなどできるとは思えなかった。

 「手を引かねぇってことは、死んでもいいんだな?」
 「おい、拳銃持ってる奴がいるなんて聞いてねぇぞ……」
 「それは残念。いいのかオマエ等、このままだと本当にコイツ、仲間撃ち殺すぜ?」
 「……それとも、もっと面白れーもん見せてやろうか?」
 「!?」

 先程まで男の一人に突き付けられていた銃口が突如私に向けられる。思わず身体が強張ったと同時に、私を拘束している男の身体にも緊張が走ったのがわかった。

 「オマエ等が突入したせいで娘は殺されましたって筋書も悪くねぇな?」
 「お前、自分が何をしているのかわかってるのか!?」
 「わかってんに決まってんだろ。ホラどうした?もたもたしてっとコイツ撃っちまうぞ?」
 「この……外道め!」

 私の耳元で男が叫んだ。自分の命と私の命を天秤にかけてわけがわからなくなってしまったのか、呼吸が徐々に荒くなっている。

 「……ッ女を開放する」
 「最初からそうしとけ」
 「テメェらのボスに伝えろ。こんなことしてタダで済むと思うなってな」

 私を突き飛ばすように彼に渡してから、男は走って部屋から出て行った。後の二人もそれに続き、リビングには彼と彼の仲間らしき人と私の三人だけになる。急に静寂に包まれた部屋の中で、彼の仲間が肩を竦めた。

 「オマエが人質を撃つって言い出した時は流石のオレも焦ったよ」
 「バーカ、あれはブラフだ。ああいう連中は想定外の事が起きれば尻尾巻いて逃げる」

 先程まで張りつめていた空気が嘘だったように軽くなったような気がした。彼が静かに拳銃をジャケットに片付けるのを眺めながら、この数十分の間に起こったことを整理しようと試みる。味方だったはずの父が敵のようなことをして、敵だったはずの彼が味方になってくれて……?私の頭の中はごちゃごちゃで、上手く整理できそうになかった。その代わりに急に頬の痛みが、じんじんとぶり返してくる。

 「それよりもテメェ、マンションなら連中も派手なことは出来ねぇんじゃなかったのかよ」
 「頭の悪ぃ連中の考えることはわからねぇよ」
 「あぁ?こうなってからじゃ遅ぇんだろーが!」
 「オレに言うな。まぁ、同じこと繰り返すほどバカな連中じゃねぇことを祈るよ」

 彼らにとっても三人組の奇襲は想定外のようだった。まさかこんな白昼堂々、マンションに侵入してくるとは思わなかったのだろう。こちらも警戒を強めるだろうし、もう同じ手は使ってこないと思いたい。
 
 「あんな下っ端の下っ端寄越してくるとは、オレらもナメられたもんだなぁ、三途?」
 「……部屋のクリーニング代請求するからな」
 「ま、この有様だとそうなるな」

 彼らの会話を聞いていて、思いがけないタイミングで彼の名前を知ってしまった。今頃になって名前を知るなんておかしな気分だ。今度「あの……」ではなく「三途さん」と呼んだら、彼はどんな反応をするんだろう。
 土足で三人組が踏み入ったせいで大荒れの部屋を見渡しながら、三途さんが大きな溜め息を吐いた。普段なら信じられないことに、彼も土足のまま家の中にいる。急いで駆け付けてくれたと思っていいのだろうか。

 「オイ、オマエ大丈夫か?顔腫れてんぞ」
 「……」
 「九井、そこの冷蔵庫に氷がある」

 九井と呼ばれた三途さんの仲間が、床にへたり込んだ私に目線を合わせて眉を顰めた。キッチンからビニール袋を持ってきた三途さんに氷が手渡され、水の足された袋が最終的に私に回ってくる。お礼を言って受け取ると、九井さんが鼻を鳴らした。

 「礼言われると変な気分になるな」
 「……」
 「こんなことに巻き込まれて殴られて、可哀想に」
 「……巻き込んでる張本人がよく言う」
 「それはテメェも共犯だろ、三途」

 べ、と舌を出してから九井さんがスマホ片手に部屋を出ようとする。「クリーニングとホテルは手配しとくから、荷物でもまとめとけよ」と言い残して彼がリビングを出た後、玄関の扉が閉まる音が聞こえた。

 九井さんが部屋を去ると、そこに広がっているのは荒れた状態のリビングだった。私と三途さんだけが残され緊張の糸が切れたのか、引っ込んでいた涙がここで再び溢れてくる。

 「口の中切れたりしてねぇか?」
 「……」

 三途さんの問いかけに、頷くことしかできなかった。このタイミングで心配してくれているような言葉を掛けられるとは思っておらず、「大丈夫です」も「すみません」も言葉にならなかった。

 「まさかテメェの親がここまでバカだとはな」
 「……本当にバカです。バカだし最低な親です」
 「間違いねぇ」

 慰めようとしてくれているように感じるのは、私を油断させる為かもしれないし、私が都合よく解釈しているだけなのかもしれない。それでも、父の無謀とも思える強硬手段の後だと、まるで三途さんに暴力から守られたような心境になった。彼の言動のほうが余程人の心があるように思えてならないのは、心の歪みの生み出す錯覚なのだろうか。

 そもそも、三途さんと彼の組織が私に目をつけなければ私はこんな目には合っていない。だとしても、何も事情を知らずに父に見つかっていたら、私はどうなる運命だったのだろう。少なくとも今は母の事も、父の事も、二人の真実を知れてよかったと思っている。何も知らないまま父と共に残りの人生を歩むことになっていたのだと考えると、その方が恐ろしかった。
 ……こんなことばかり考えて、何だか自分が拉致されたことすらも肯定的に捉えようとしているみたいだ。三途さんのしたことは許されることではない。立派な犯罪行為なのに、彼を庇おうと思考が働く。ブラフでも自分に銃口を向けた彼の事を、許してもいいとすら思った。彼は悪くないとでも言いたげに心の中で言い訳を重ねる私は、多分もうとっくに狂い始めている。



























ようやくわかりにくかった「彼」呼び終了です。
2023/07/02