宣言通り、1時間後には九井から緊急宿泊先であるホテルの住所が送られてきた。念のために予約は二泊で取ってあるが、クリーニング自体は明日で終わるとのことだ。部屋の荒れ具合から見てもこの程度で済むと踏んでいたとは言え、安堵の溜め息が漏れた。
ホワイトアウト 11
文面で九井からの連絡を確認した後、家を出る準備を始めた。当然ながら人質も一緒に連れ出さなければならず、仕方ないとは言え女の荷物も一緒に用意する。三人組の乱入のせいで放心状態の女は、自分で準備させられる状態ではなかった。
「着替えろ」
流石に外でジャージ姿の女を連れて歩くのは人目を引くので、オレのクローゼットから女が着られそうなものを適当に見繕って目の前に放り投げた。指示通りに着替えを始める人質に背を向けながら、話を続ける。
「聞いてたか知らねぇが、明日家にクリーニングが入ることになった」
「……」
「今日と明日はホテルだ。当然、テメェも連れて行くことになる」
反応がないので人質の様子が気になり振り返ると、女は無言で頷いた。こちらを見つめる赤い目と視線がぶつかる。念のためにいつも言い聞かせていることを繰り返そうとした矢先、先に口を開いたのは女の方だった。
「不自然に思われるような行動はとりません。助けを求めたり、逃げようともしません。……これでいいですよね?」
「……わかってるならそれでいい」
呪文のようにオレの言いつけを復唱した人質に向かって顎をしゃくる。意味を理解したであろう女が、黙って立ち上がった。
今回の外出は女にとってまたとないチャンスだ。いくら普段家で大人しく過ごしているからと言って油断はできない。とは言え移動中も拘束するのは不可能だし、女がこう言っている以上、ひとまずそれを信じるしかなかった。
* * *
家から車へ、車からホテルへの移動は順調だった。家を出る前からあまりにも聞き分けが良すぎてそれがかえって心配だったが、女はホテルの従業員とも視線すら合わせようとはしない。チェックインしている間は唯一オレの視界から消えていたものの、フロントの人間とのやり取りを終えると、女がキャリーケースの持ち手を両手で握りしめ大人しくこちらを見上げていた。
チェックインを済ませた後は、部屋まで移動するために人質を連れエレベーター乗り場へと向かう。左斜め前を女に歩かせ誘導しながら、ほとんど中身の入っていないキャリーケースを引いた。
エレベーター乗り場にはほとんど人はいなかった。上階へ向かうエレベーターをやり過ごそうとしたところで、閉じかけていた一基の扉が開き、中にいた年配の女が声を掛けてくる。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
「いいのよ。何階かしら?」
「8階お願いします」
「あら奇遇ね、私も8階なのよ」
断るのも不自然かと仕方なく乗り込むと、階数を尋ねられる。グレイヘアにスカーフを巻いた女の風貌は、このホテルの客層を思わせるものだ。もっと適当な安いビジネスホテルならこんな風に話し掛けられることもなかっただろうと考えると、気を遣ったであろう九井のチョイスに文句を言いたくなった。
「貴方達、とても仲が良いのね」
「?」
8階のボタンを押した後、女が振り返り微笑む。エレベーターの中にはオレと人質、そしてこの年配の女しかいないので、女の言う「貴方達」とは必然的にオレと人質ということになる。当然、お互い黙って立っているだけで仲が良いと言われるようなことは何もしておらず、返す言葉が見つからなかったオレは訝しげな顔をしてしまったかもしれない。
「実はさっきロビーで貴方達のこと見かけたの。貴方、とても目立つ髪型をしているでしょう?」
女はオレの表情を見てフォローを入れたつもりだろう。女の言う「目立つ髪型」という表現に悪意のようなものは全く感じず、相変わらず品の良さそうな笑みを浮かべていた。
「最初はとても綺麗な髪色だと思っていただけだったのよ。そうしたらチェックインする貴方にぴったり寄り添う奥様の姿が見えたの。片時も離れたくないのねって、微笑ましかったわ」
女の一言には先程から俯きがちだった人質すらも顔を上げた。何処を見て勘違いしたのかは知らないが、まずコイツは「奥様」ではないし、寄り添っているように見えたのは逃げないという意思表示のためだ。離れたくないという意味では同じでも、離れたくない理由が根本的に違っている。
ただ、今ここで人質との関係を「親戚です」や「友人です」と訂正するのは状況が悪化する気がした。それに対する説明や設定が新たに必要になるうえ、そこで質問が終わるとも限らない。言われてみれば、大抵の場合チェックインに行くのは一人で、連れはロビーで待ってる場合が多いとは言え、目ざとくそこを指摘してくるような女だ。下手に嘘を重ねるとそれすらも墓穴を掘る可能性がある。
気が遠くなるのを感じながら、オレはその場を笑って誤魔化すしかなかった。「そんなところまで見られていたなんて……お恥ずかしいです」などと適当に返しておく。人質は隣で固まっているものの、照れているくらいに勘違いされているのを祈るばかりだ。
「行先も同じだって言うから、それで思わず声を掛けちゃったの。驚かせてごめんなさいね」
「いえ、お気になさらないで下さい」
「きっとこういうのもご縁よね。でも、よくよく考えれば私お邪魔かしら?」
「とんでもないです」
正直言うと邪魔だなんていうレベルの話ではない。ここがこんな公共の場でなければ、女を黙らせるくらいのことはとっくにしているだろう。考えていることが顔に出ないように、笑顔で場を取り繕うのに必死だ。この必死さが逆に表に出ていないか心配になる。
「優しい旦那様ね?」
「あっ……はい」
黙りっぱなしだった人質に気を遣ったのか、急に女が話を振る。消え入るような声で返事をした人質だったが、先程から一貫して消極的なのが逆に好印象だったようで、女は満足そうに頷いて見せた。
1階から8階までをこれ程までに長く、苦痛に感じたことはなかった。ようやくエレベーターが8階に到着すると、オレ達は右、女は左に向かうことになりここでようやく別れることができた。まだ気が抜けないので若干速足で部屋へと向かい、カードキーを指した後、さもレディーファーストだと言わんばかりにドアを開けて人質を中に入れる。ドアを閉めて鍵をかけた瞬間、オレと人質はほぼ同時に盛大な溜め息を吐きだした。
「面倒くせぇ……」
「怪しまれてなくてよかった……」
独り言をこぼしたのもほぼ同時。お互いに一瞬だけ顔を見合わせてから、洗面所へ向かう足並みが揃う。
「……驚きましたね」
「オマエ連れてなかったら完全にシカトしてた」
「三途さんあんな風に返すんだって……何だか意外でした」
「……こういう場所で無駄な争いは避けるに越したことはねぇ」
洗面台の蛇口を捻ったところで人質の口から何気なくオレの名前が出てきて、一瞬言葉に詰まった。九井とのやり取りを思い出してあの時かと、一人で納得する。名前を覚えられようと呼ばれようとどうでもいいが、ごく普通に口にしている女の神経は理解できなかった。
「すごく鋭いと言うか、観察力のある方でしたよね」
「意味不明な勘違いしやがって、あの女がバカで助かった。いや、バカだから面倒くせぇことになってんのか?」
「……本当は何か疑われてたなんてこと、ないですよね?」
「知るかよ」
人質の言う「疑われている」とは、オレ達の関係や、コイツがトラブルに巻き込まれていると察知されているという意味だろう。仲が良さそうだとかそんなことは建前で、本当は何気ない会話から探りを入れたり、人質からSOSを受け取ろうとしていたのなら、あの女は只者ではない。或いは映画やドラマの見すぎなだけだ。だが仮に刑事ドラマに憧れてあの女が真似事をしていたところで、人質にはむしろ好都合だろう。先程のやり取りを経て、あの女が自室から「様子のおかしい二人組がいる」とでも警察に通報すれば、状況は人質にとって有利に傾く。エレベーターの中で助けを求めるのは無謀だとしても、違和感を抱かせる糸口になればいい。にも関わらず、人質がそれを恐れる理由がオレにはわからなかった。
以前からバレるようなことをすればその場に居合わせた他人も殺すと脅していたからなのか、それとも父親の手下の乱入で他人の事を敵と疑い怯えているのか。いずれにせよ人質の言動には疑問が残った。
人質の考えていることはともかく、部屋を出るときは今日以上に警戒が必要なのは明言できる。警戒する相手が人質の親の差し向けた連中でも警察でもなければ、ただの一般人の年配の女だと言うのは癪だが。
2023/07/09