三途さんが帰ってこない。彼が家を出るのを見送ったのが朝で、うとうとしながら気付けばもう24時間が経とうとしていた。彼が具体的に何処でどんな仕事をしているのかは聞かされていないものの、早ければ19時、遅いと夜中2時くらいの帰宅になることもある。どれだけ遅くなっても1日家を空けることはなかったので、何が起こっているのか不安で仕方がない。玄関の扉の開く音がしないか気になって、横になりながらずっと真っ暗なテレビ画面を見つめていた。
ホワイトアウト 12
三途さんも九井さんも、もう三人組のような人たちが家に押し入ることはないと話していたけれど、あれ以来上の階の物音が聞こえるだけでも鼓動が速くなる。軟禁されている立場なら、普通一人で過ごす時間の方が監視の目もなく、緊張から解放されそうなものなのに、今の私の場合はむしろ一人の時の方が物音に敏感になり、日中も昼寝をしなくなった。できなくなった、と言う方が正しいかもしれない。もう頬の痛みは治ったのに、今でもあの瞬間のことを思い出すと身体が震える。見たことも触れたこともない拳銃を三途さんに突きつけられたときも恐ろしかったし死を覚悟したけれど、痛みを伴う暴力の影響はそれ以上だった。
気が付けば、家の中に三途さんの気配がある方が安心して過ごせていた。彼だって反抗すれば何をするかわからないのに、彼の言いつけを守っていれば安全だと心が思い込んでいる。彼と一緒にいれば大丈夫なのだと、自分を軟禁している人間相手にあり得ない感情を抱いていた。
この家に誰かが訪ねてくることはなく、相変わらず私の世界に三途さんしかいないのも要因としては大きいだろう。九井さんにも、三人組が押し入った日以来会っていない。前に一度三途さんと話したくて「九井さんはお元気ですか」と尋ねると、信じられない物を見るような目で睨まれ無視された。
一人で家にいても不便はない。身体を動かさず頭を使うこともないとなるとお腹も空かないので、今のところ食べ物がなくても困ってはいなかった。ただ、身体を休ませるという意味では窮地に追い込まれていた。
身体は睡眠を欲しているようで、時々意識が飛ぶ。そのまま眠れたらいいのに、気が付くとまだ数分しか経っていないという状況が続いていた。物音に対する恐怖心はもちろん、もう三途さんが戻ってこなかったらという不安にも同時に押し潰されそうになる。連絡を取る手段さえなく、私はただ待つことしかできなかった。
ピンポーン
意識を手放しかけていたのもあって、滅多に鳴ることのないインターホンの音に飛び上がった。恐る恐るモニターの前に移動すると、スーツ姿の見覚えのない男性がエントランスに立っている。こちらは無視を決め込んでいるのに、男性は何やら袋のようなものをカメラに向けて突き出していた。知らない人に反応してはいけないと、留守番をしている子供のような心境でモニターを凝視する。やがて画面は真っ暗になり、その後も2回ほどインターホンが押されたものの、それ以外は何も起こらなかった。
何かの間違いであって欲しいと思いながらソファに戻って5分程経った頃、今度は家のインターホンが押されて、再び飛び上がった。モニターに映るのは先程と同じスーツ姿の男性で、恐怖心が加速する。相手が玄関にいるとなると逃げ場もなかった。三途さんに連絡できるはずもなく、とりあえず走ってトイレへと駆け込む。鍵をかけて男性の出方を窺った。
「お邪魔しまーす」
「!?」
間延びしたような声で挨拶したのは恐らく例の男性だろう。とうとう家の中に侵入されたとわかって動悸が激しくなる。兎に角今は気付かれないように、トイレの中で息を殺すことしかできなかった。
「あのー、何処っスかー?オレ、不審者とかじゃないんでー」
不審者が自分は不審者ではないと自己紹介をしていて、ますます怖くなる。どうか諦めて帰ってくれますように、トイレが調べられませんようにとひたすらに祈った。
「あんまり家の中うろつくと三途さんに怒られるんで、大人しく出てきてもらえません?」
「……三途さん?」
扉に耳を当ててリビングの様子を窺っていると急に三途さんの名前が出てきて、一気に警戒心が弱まった。また父の差し金なのではという疑いの気持ちと、三途さんの仲間なのではという気持ちで揺れる。直後に「出てきてくれないとオレ帰れないんでー」という男性の言葉を聞いて覚悟を決めた私は、ゆっくりと扉を開けた。
「あ、そんなとこに」
「こっ、来ないでください!」
「え?」
こちらに気付いた男性が近付こうとするのを言葉で牽制する。素直に歩みを止めた彼は、拍子抜けしたような表情でこちらを見つめた。
「あの……どちら様で何の御用ですか」
「オレ?三途さんに言われてご飯届けに来た、名乗る程もない下っ端っスよ」
彼は困ったような笑顔でコンビニの袋を掲げた。なおも疑いの目を向ける私に、今度はポケットから鍵を取り出して見せる。
「これ、三途さんから預かったこの家の鍵。多分次は使えないように鍵変えられるだろうけど」
「……」
「いきなりこれ使って入ったらビビるかなぁと思ってインターホン押したのに、シカトしたっしょ?」
「そんな事よりも、三途さんは……?」
「その話はご飯食べながらしましょーよ」
鍵まで見せられてしまってはとりあえず彼の事を信用するしかなく、言われる通りトイレから出た。コンビニの袋を私に渡して、彼がソファに座ろうとする。
「ダメですっ!」
「!?」
「その格好で座ったら三途さんが怒るので……」
「あぁ、そういうことね」
苦笑しながら座るのをやめた彼は、耳についているピアスをいじりながら床に胡坐をかいた。床なら後で掃除すれば怒られない……と思いたい。
「お腹空いてない?それ食べていいっスよ?」
「……ありがとうございます」
お礼を言いながら袋の中を覗きこめば、サラダとお弁当とデザートのスイーツまで入っている。三途さんには絶対ないラインアップと、なんとなく女性慣れしてそうな雰囲気に圧倒された。ただ、今の私は空腹よりも三途さんのほうが気がかりで、袋を丁重にテーブルに置いてから彼に向き直る。
「それで、三途さんは……」
「三途さんは今別の仕事中。どこで何してるかは言えないけど、遅くても明日には帰れそうだってさ」
「そうですか……」
「君の食事と、ついでに様子見て来て欲しいって頼まれたってわけ。今回の計画知ってるの、幹部以外だとオレとあともう一人だけだから」
「あの時の怪我大丈夫だった?」と言いながら顔を覗きこまれる。三人組が押し入った日、九井さんの他にあと二人いたのを思い出した。後ろに控えていたうちの一人が彼なのだろう。
三途さんとも九井さんとも違う、ずいぶん気さくな彼は相変わらずにこにこしながら、何故か距離を詰めて来た。
「あの……」
「ん?」
「三途さんに、何の問題もなく過ごしていますとお伝えください」
「わかった」
あまりに気まずくて、彼が任務を終えられるように声を掛ける。それでも彼との距離は開かず、空気が先程と違うことに気付いた。
「……あの、まだ何か?」
「三途さんに様子見てきてって頼まれてるから、君の様子見てるだけ」
「……」
徐々にソファへと追い詰められているような気がする。その圧迫感のせいか、初めて会う人と至近距離で話す緊張感からか、息苦しくなってきた。じりじりと近寄ってきた彼がすんと鼻を鳴らす。
「めっちゃいい匂いするじゃん。三途さんと同じシャンプー?」
「多分、そうですけど……」
「ハハ、あの人潔癖なのは知ってたけど、人質が人質してなさすぎ」
くすくす笑いながら彼は「同棲してるカップルと変わらないじゃん」と付け足した。毎日お風呂には入っているし、不衛生とは無縁の生活をしているだけで、私と三途さんの間にそんな雰囲気は微塵もない。恐らく彼が潔癖症でなければ、こんな皮肉を言われることもなかっただろう。
「もっとボコボコにされてるのかと思ってたけど、めちゃくちゃ元気だね」
「……三途さんは暴力振るったりしません」
「えー本当に?信じらんないなぁ」
私よりも三途さんのことを知っているであろう彼は驚いていたけれど、暴力を受けていないのは事実だ。正確に言えは乱暴な扱いをされたのは始めだけで、今は何もない。彼に逆らっていないし、暴力を振るうほどの関心もないのだと思う。
そんな話をしながらも、遂に私の背中がソファにぴったりとくっついてしまった。すぐ目の前には薄らと笑みを浮かべる彼が迫っている。一見無害そうに見える彼が何を考えているのかわからない。そして、他人にこの間合いに入られるのが怖い。三途さんが殴らなくても、この人が何もしないとは限らなかった。
「見えないところに痣とかあったりして?」
伸びてきた手が身に着けているスウェットの裾を掴んで、今度は別の恐怖で頭がいっぱいになる。抵抗するものの向こうの力の方が強く、手を押し退けることができない。肌が空気に晒され、ひんやりとした何かが腹部を撫でる。それが彼の手だとわかった瞬間に涙が溢れてきた。
声も出せないまま目いっぱい顔を背けたところで、部屋に低いバイブ音が響く。溜め息を吐きながら身を引いた彼は、内ポケットからスマホを取り出した。
「もしもし、お疲れ様です。丁度今三途さんのお宅です。……大丈夫ですって、家の中無駄にうろついたりしてないっスよ!」
電話の相手は恐らく三途さんだろう。彼は三途さんに相槌を打ちながら、片手でピアスをいじっている。
「え?ちょっと待ってください……はい」
「?」
「三途さんが君に代われって」
やり取りを傍観するしかなかった私に、急に彼のスマホが手渡された。言われるがまま受け取り、耳に当てる。なるべくいつも通りの声とテンションを保てるよう、一度深呼吸してから第一声を発した。
「……もしもし」
『生きてるか?』
「……生きてます」
『飯、食っとけよ』
「はい、いただきます」
『アイツに代われ』
あっさりとした生存確認という、予想通りの内容に胸を撫で下ろしつつ、スマホを持ち主に返した。ほんの少し、数秒のやりとりだったけれど、久しぶりに三途さんの声を聞いたような気がする。彼に動揺が悟られていないか心配ではあるものの、いつも通りの素っ気なさは私の心を落ち着かせてくれた。
「……もしもし?あー、ハイ。はい、はい……わかってますよ」
立ち上がって彼がリビングから出て行く。彼との間に距離が生まれて安心したのも束の間、電話を終えたであろう彼がリビングにひょっこりと顔を覗かせた。弾かれる様に立ち上がる私を見た彼は苦笑しながら、鍵を手渡してくる。
「三途さんが君に鍵託して帰れってさ。だから玄関の鍵、自分で閉めてくれる?」
「わかりました」
「鍵かけるついでにお見送りくらい、してくれるよね?」
彼にお見送りを頼まれたからではなく、彼が家の外に出ないと施錠できないので、警戒しつつも後ろを付いて行った。玄関で皮靴を履く為に腰を屈めていた彼が、私を上目遣いで見つめる。
「ねぇ、もしかしてさぁ」
「?」
「三途さんと寝た?」
一瞬呆気にとられた後、何を言い出すのかと全力で首を横に振った。私の反応を見た彼は笑い声を上げながら「三途さんは女に困ってないか」と独り言のようにこぼした。
「だとしても君、三途さんにおかしな感情抱いてるっしょ?」
先程とは違い、急に真面目な顔で畳みかけられるように問いかけられる。立ち上がった彼と再び距離が縮まると全て見透かされそうで、彼の目を見るのが怖くなった。
「……私人質ですよ?三途さんに銃突きつけられて、逃げたら殺すって脅されて、ここに軟禁されてるんですよ?」
「でも三途さんは暴力振るわないし、今のとこ優しいんでしょ?」
「……だったら何だって言うんですか」
「多分それ、一時的に自分を守る防衛反応?みたいなやつだよ。何だっけ、ストックホルム症候群?」
彼にとっては何の悪気もない一言だろう。人当たりの良い彼から急にこんな言葉が飛び出して、驚いたと同時に胸が締め付けられる。
「このまま大人しくしてれば身柄は引き渡されると思うし、ここから出たらちゃんと精神科で見てもらったほうがいいよ?」
彼は背筋を伸ばし、真剣な表情から一変、柔和な笑みを浮かべた。それなのに笑顔に反して放った言葉は、ずっしりと重い。
もう何も言い返せなくなってしまった私を置き去りに「鍵閉めといてね」と告げてから、彼は部屋を出て行った。再び私一人になってしまった空間、静寂が辺りを包む。
薄々自覚してはいた。関わる人間が三途さんしかいないからと「人質としてでも構わないから三途さんに必要とされたい」と考え始めたくらいから、何処かおかしかった。そこからずるずると堕ちて、三人組が押し入った時にギリギリ踏み留まろうとしていたラインを超えてしまった気がする。
先程、三途さんの部下だという男性に触れられた時、この人に触れられるのは嫌だとはっきりと思った。それと同時に心の中で「三途さん助けて」と叫んでいた。自分を拉致、軟禁している相手に助けを求めるなんて、どう考えてもまともではない。短時間で彼はそんな私の異常性を感じ取ったのだろう。だから三途さんと関係を持ったかなんて質問してきたのだ。
その後彼に指摘されたことも間違ってはいない。あり得ない感情を私は三途さんに抱いてしまっているし、きっと三途さんに依存している。そしてそれは恐らく彼の言うように、何かしら名前のつくような障害であることも、理解しているつもりだ。
母以外に家族の存在を知ったら利用され、傷つけられた。惹かれている相手は私を軟禁している加害者で、客観的に見て精神的なものから来る感情の暴走。どうしてこんなことになってしまったのだろうと悲しくなったけれど、涙は出なかった。
リビングに戻ると、ローテーブルの上に置いてあるコンビニの袋が目に入った。相変わらずお腹は空いていない。恐らく三途さんが帰ってこないと何も感じない。それでも、彼に食べろと言われたからには食べなければ。三途さんに嘘を吐かなくてもいいように、彼が帰宅してからも生存している為に、使命感を持って袋に手を伸ばした。
2023/07/12