いつものようにリビングで三途さんの帰りを待っていた。私が彼の帰りを待っていることを彼は知らないし、もちろん頼まれてもいない。むしろ悟られないほうがいいと思っているので、待っていましたという雰囲気は出さないようにして、眠れずにいたら彼が返ってきた、というような反応をいつも心掛けていた。彼が帰宅しても会話をすることはほとんどないけれど、家事と動画視聴と三途さんが全ての私にとって、彼の存在そのものに意味があった。
ホワイトアウト 14
玄関の鍵の開く音が三途さんの帰宅を告げる。反射的にドアの方に向いてしまう視線をテレビに戻した。彼は帰宅してからまずお風呂に入るので、すぐにリビングに来ることはない。シャワーで外の汚れを洗い流さないと気が済まないのだろう。
三途さんの帰宅後のルーティーンに気付いたのは軟禁生活を始めてすぐだ。まず、こっそりこの家の中を物色した時に彼が潔癖なのだと気付いた。そしてその日の夜、帰宅したはずの彼がジャージに着替えた状態でリビングに現れたのを見て全て察しがついた。帰宅後に姿を現す彼はスーツではなく、必ずスウェットかジャージ姿だった。
時刻は既に夜中の1時を過ぎている。思えば数日前、三途さんが初めて丸一日家を空けた日の少し前辺りから、毎日日付が変わってからの帰宅が当たり前になっていた。数時間眠ってからまたすぐに出て行くような日が続いたにも関わらず、どれだけハードスケジュールでも帰宅後の彼がそのままベッドに倒れ込むなんてことは一度もない。何時に帰宅しようとも三途さんのルーティーンは変わらないので、今日もそうなるのだろうと思っていた矢先に、玄関からドンという鈍い音が聞こえた。人が争う様な気配はない。心臓が大きく動き始める中、そっとリビングの扉を開けて様子を窺う。
「三途さん!?」
玄関には壁にもたれかかる様にして蹲る三途さんの姿があった。先程よりも更に心臓が跳ねる。何が起こったのかとリビングを飛び出して彼に駆け寄った。殴られたり、刺されたりといった光景が過ったものの、外傷は見られない。その代わりに近寄るだけでも感じるお酒の匂いと、それに混じって嗅ぎ慣れない香水の香りが鼻をついた。ぐったりしている彼は、ものすごく顔色が悪い。
とにかく水を持ってこなければとリビングに引き返し、小型冷蔵庫の中に常備されているミネラルウォーターを掴み再び三途さんの元へと走った。ペットボトルのキャップを開けた状態で水を差し出すと、彼が素直にそれを口にする。数口だけ飲んでからまた壁にもたれかかった彼は、明らかに泥酔状態だった。
三途さんを抱えて移動できるわけもなく、黙って寄り添っていると彼が眉間に皺をよせ、おもむろに立ち上がる。数秒前まで蹲っていた人とは思えないスピードでリビングに入り、真っ直ぐに目指した場所はよりによって家の一番奥に設置されているトイレだった。
何が起こるのかはもう予想済みなので、着いて行ってとにかく背中を擦った。可哀想だけれど今の私には水を渡すことと背中を擦ってあげることしかできない。先程よりも更に白い顔をした彼に再び水を渡しながら、着替えを用意した方がいいかと声をかけてみる。
「もう横になりますか?」
「いや……」
まさかと思ったものの、トイレを出た三途さんはよろよろとお風呂場に向かって歩き出した。こんな状況でもお風呂に入らないのは我慢ならないようだ。止めても聞かないのはわかっているので、見守るしかない。
「スーツ、かけてきます」
「……」
「あの部屋ですよね?」
物置部屋をスルーして洗面所に入ろうとした三途さんの背中に声をかける。顔色の悪い三途さんは、辛そうな顔で目を細めてこちらを見ていた。睨まれること数秒、彼はジャケットを脱いで私に投げて寄越す。何も言わないまま、洗面所に入って扉を閉めた。
受け取ったジャケットを抱え物置部屋に向かい、ハンガーを手に取る。ジャケットをハンガーにかけるだけなのにバランスが上手く取れず、片側に重さを感じて布の上からその部分に触れた。それが何なのか気付いた時、息ができなくなった。
ここに連れて来られてすぐの私なら、このタイミングで拳銃を奪って、三途さんに突きつけたかもしれない。恐らく彼は今までで一番無防備で弱っている。素人が撃つとは言え、流石の彼でも撃たれればタダでは済まないだろう。一連の流れを想像してごくりと喉が鳴った。きっとこれが最初で最後。無傷で彼から拳銃を奪う機会はもう巡っては来ない。
私は深呼吸してから、ジャケットを他のと同じようにしてハンガーラックにかけた。何事もなかったように物置部屋を出て、洗面所を覗き込む。幸い三途さんはまだお風呂場の中で、床には衣類が散乱していた。ズボンだけ回収して、それ以外は全て洗濯機の中に放り込んでから脱衣所を後にした。ズボンもかけておかなければ皺になってしまう。
ジャケットと同じくズボンをハンガーにかけ、三途さんの着替えのスウェットと私の着替えのジャージだけを持って部屋を出た。今は拳銃を手にすることができるとわかっていても、彼を撃ち殺すなんて考えられない。私が彼の命を奪う理由はもうなかった。
* * *
お風呂から出てきた三途さんはいつもと全く違っていた。まずリビングに入ってきた彼はトイレに直行し、私は再び彼の背中を擦ることになった。彼の髪の毛はびしょびしょに濡れていて、乾かすどころかタオルドライする余裕すらなかったのだと悟る。
男性にしては長髪の彼は派手な髪の割に綺麗な髪質していて、手入れにも拘っているのは知っていた。そんな彼がこの状態の髪のまま、ベッドに入るとは思えない。
「三途さん、ソファ座ってください。髪の毛乾かしましょう」
「……はぁ?」
「立ってるの辛いと思うし、ここで乾かしましょう?ちゃんと明日、髪の毛は掃除しますから」
意を決して声を掛けたのに、白い顔で三途さんに睨みつけられた。そんな視線を振り切るようにリビングを飛び出し、洗面所からドライヤーとヘアオイルとブラシ、そして風呂場から洗面器を集める。ヘアオイルは前に偶然髪を乾かす前の彼に遭遇した時、使っているのを目にしたものだ。できるだけ早く休めるようにしてあげたいけれど、彼は妥協を許さなさそうなのでなるべくいつもと同じ状態に仕上げたかった。
不安な気持ちでリビングに戻ると、ペットボトル片手にソファに座る三途さんの姿があった。どうやら私の提案に応じてくれるようだ。
「これ、どうぞ」
「……」
「間に合わなかったら洗面器に出してください」
三途さんのことだ、何が何でも部屋の中で嘔吐するなんて許せないだろう。もしものことを考えて洗面器を彼に渡すと、辛そうな顔のまま鼻で笑われた。
「じゃあ、乾かしますね」
三途さんは何も返しては来ない。無言は肯定と受け取ることにした。
まず髪の毛全体をブラッシングする。「痛ければ教えてください」と声をかけたものの、相変わらず返事はなかった。ブラッシングしてからヘアオイルを手に取り、毛先を中心に馴染ませる。再度ブラッシングしてから、ドライヤーを開始した。細い彼の髪の毛が絡まないように細心の注意を払いつつ、かつできるだけ早く渇くように手で髪の毛を散らす。他人の髪の毛なんて乾かしたことがないので、自分が美容師さんにしてもらうときのことを思い出しながら、痛くないように、熱くないように、早く渇くように必死だった。
「……こんな感じでいかがですか」
「あぁ」
ドライヤーの電源を切って三途さんに尋ねたところで、初めて返事が返ってきた。彼は返事をしてくれたものの髪の毛には一切触れず、そのままベッドの中へと潜り込んでしまう。
「お手洗い行かなくて大丈夫ですか?」
「……いい」
三途さんの顔色は全く良くなっておらず、青白い顔のままだった。布団を被った彼が目を閉じたので、部屋の明かりは消して間接照明だけにする。このまま眠れるのなら、眠ってしまった方がいい。
泥酔状態で横になる三途さんを眺めていると、頭を過ったのは海外ドラマ「Go Astray」のワンシーンだった。違法薬物に手を出した女性が眠ったまま嘔吐してしまい、吐瀉物を喉に詰まらせて亡くなってしまう恐ろしくも悲しいシーン。ドラマを見た時はフィクションとして捉えていたものの、目の前で眠る三途さんと彼女が重なる。もし同じことが起これば、三途さんが死んでしまう……?そうなると決まったわけではないのに、ものすごい勢いで心臓が動き出す。
飲みすぎて体調を崩すなんてよくあることだ。街に出ればそんな人には大勢遭遇するし、飲み会シーズンになるとそこら中で酔いつぶれている人を目にする。でもそれが三途さんとなると話は別だ。早く彼を休ませてあげたくてとにかく必死だったけれど、彼がベッドに入った途端本当にこれでいいのか、もっとしてあげられることはないのかと不安になる。少しでも楽になる様に、薬や栄養剤的な物を買いに行けたらいいのに、今ほど自分が軟禁されていて辛いと思ったことはないかもしれない。彼の為とは言え、外に出るのは彼を裏切ることになってしまう。例え私が繋がれていなくても、外に出ない決断をしただろう。
不安を抱えながらも今の私にできることは何か、自然と答えは出ていた。一晩眠らずに三途さんの様子を見ることにすればいいのだ。もし眠っている最中に彼が嘔吐してしまったらすぐに助けられるし、途中で目を覚ました時に水分補給もしてもらえる。そうと決まればソファから私の使っている毛布を引っ張ってきて、肩から被った。もうすっかり寒くなってきたので、防寒対策は必要だ。毛布に包まっていれば寒くない。
この家にはソファ以外に座る場所がないので、申し訳ないとは思ったものの、毛布に包まった格好でベッドの端に腰を下ろした。私の体重でベッドが沈んでも三途さんからの反応はない。恐らくもう眠ってしまったのだろう。
三途さんを眺めることが今の私の使命なので、ただひたすらに彼を見守るだけの時間が流れた。初めて彼の顔を落ち着いた状況でまじまじと観察する。彼の顔を正面に捉えることはあっても命懸けの場面が多く、今まで彼の顔の造形について考えるような余裕はなかった。一方的に私が三途さんを観察するのは少し緊張する。
一番最初に目が行ったのは口の両端の傷跡だった。初めてここに連れてこられたときも、笑った三途さんの口元が気になったのを覚えている。どうしてこの傷がついたのかと想像してみるけれど、何も答えは出てこなかった。次に視線を移したのは彼の目元で、閉じられた瞳は長い睫毛に縁どられている。女から見ても羨ましくなるような長い睫毛は、気分が悪いのか苦しいのか、たまに小さく震えていた。
その他、特別な手入れをしているのかと聞きたくなるような綺麗な肌、通った鼻筋、観察すればするほど、三途さんの顔は端整としか言い様がなかった。何度も思うけれど、自分を拉致、監禁している相手に対して顔が整っているとか睫毛が長いとか、そんな事を考えてしまうのはやはり異常だろう。
「……ッう……」
「大丈夫ですか?気持ち悪いですか?」
布団に潜り込んであまり時間の経たないうちに、三途さんが呻き声を上げて目を覚ます。洗面器を持ってスタンバイしたところで、起き上がった彼は水を欲しがった。水を飲んだ彼はいつもより弱々しい視線で私を見つめる。
「……こんなに隙だらけなのに、逃げないのか」
「……逃げないですよ。それに、逃げられないじゃないですか」
手を上げて繋がれているワイヤーを見せると三途さんは鼻で笑って、もう一口水を飲んだ。
「ジャケットにアレが入ってたの、気付いただろ」
「……何のことですか」
「こんなもの、一発撃てばどうにでもなるだろうが」
私の嘘を見透かしたのか、それともそもそも聞いていないのか、三途さんは私の返事を無視して続ける。嘘に対しては言及せずに、とにかく今は私の意思を伝えようと言葉を探した。
「……そんなこと出来ません。逃げたら三途さんに殺されるんでしょう?」
「先にオレを殺れば関係ねぇ」
「……」
「なぁ、逃げずにここにいる理由は何だ?何企んでやがる?」
三途さんが私の両腕を掴んだ。
逃げずにここにいる理由。そんなの私が逃げたら三途さんが困るからに決まっている。取引が終わるまで必要とされているのなら、ここに残りたい。私が必要なくなったのなら、殺してくれても、お金に換えてくれたって構わない。出て行けと言われれば今すぐにでも出て行くし、私は三途さんの言葉で生かされている。何も企んでなどいない。歪んでいるけれど、きっと異常だけれど、それでもこれは心からの私の純粋な気持ちだ。
これを全て今三途さんに伝えることができたらいいのに、そんなことはできるはずもなかった。きっと理解されない、それどころか嫌われてしまう。前に尋ねてきた彼の部下のように、それは間違った感情だと諭されるだろう。
相変わらず三途さんの体調が芳しくないのが腕を掴む力加減から伝わってくる。こんな場面で彼の体温を感じて緊張しているのを悟られたくなくて、視線を外した。
「何も、企んでなんかないです。ただ、三途さんが心配で……」
「……テメェ何言ってんのかわかってんのか?」
「わかってます、でも本当に心配なんです。もし三途さんが死んでしまったらって考えると……」
「死ぬ?オレが?泥酔が原因で?」
話さないと納得してくれそうにない雰囲気なので、私は素直に例のドラマのことを話した。三途さんは黙って聞いていたものの、だんだんと眉間に皺を寄せる。
「オマエ、オレが寝ゲロ詰まらせて死ぬと思ってんのか?」
「三途さんを見てると彼女と重なってしまって……」
「…フィクションだぞ」
「でも、絶対にあり得ないとは言い切れないじゃないですか。三途さんにもしものことがあったら、私……」
事実、三途さんは帰宅してから何度もトイレで嘔吐していた。眠っている間に、無自覚に嘔吐してもおかしくない。大真面目に言い返すと、三途さんは大きく溜め息を吐いた。
「……そのドラマ、前見てたやつか」
「そうです」
「死体溶かしてたやつだろ?寝ゲロ詰まらせて死ぬ奴までいんのかよ」
呆れたように話す三途さんは、この数分間で少し元気を取り戻したように見えた。口数が増えたし声色が先程よりも明るい。それを感じれただけで安心できたし、少しは彼の役に立てたかもしれないと思うと嬉しくなった。
「もうだいぶ酔いもマシになったから、オマエも寝ろ」
「い、嫌です!」
「……ハァ?」
「心配なので今晩だけは様子見させてください」
「……チッ、勝手にしろ」
三途さんの命令に久しぶりに反抗したような気がする。彼はもういいと言ったけれど、それでも心配なものは心配だ。彼にはいつも通り休んでもらって構わないし、私のすることは保険だと思ってもらえばいい。その気持ちが伝わったかは別として、彼は私に何を言っても無駄だと諦めたのか、勝手にしろと言い捨ててから布団に潜って壁側を向いてしまった。何だか拗ねている子供のようだ。
「……安心して休んでくださいね」
私の呟きは三途さんに届いているかはわからない。届いていても返事をしてくるような人でもないのも承知だ。それでも、私の心は穏やかで、彼を一晩見守るのは全く苦ではないと思った。
汚い表現が多くて申し訳ないです。
2023/07/16