最初に飲んだテキーラだけでなく、望月を始め他の人間にも酒を飲まされる羽目になり、久々に酷い酔い方をして帰宅した。部下に車を運転させマンションまで送らせたまではいいが、一人になると気持ちが緩むのか、途端に猛烈な吐き気と眩暈に襲われる。マンション内に人影はなかったものの、できるだけ泥酔していると悟られないように、気を張って家路を急いだ。

ホワイトアウト 15


 時刻は夜中1時過ぎ。いつ帰っても人質が先に就寝していることはないので、恐らく今夜もまだ起きているだろう。流石に家の中で朝まで平然を装うのは無理だと判断したオレは、今更ながら人質に隙を見せることになるのを後悔した。

 エレベーターに乗り廊下を通り抜け、なんとか玄関の鍵を開けて家の中に入りはしたが、最早手を拭く気力すら残されてはいなかった。立っているのも辛く、倒れ込むようにして壁に寄りかかる。案の定リビングの電気は点いていたので、今の音で人質が警戒して様子を見に来るかもしれない。
 
 「三途さん!?」

 予想通りリビングから顔を覗かせた人質は、オレに駆け寄ってからすぐ部屋の中に引っ込んだ。戻ってきた女から水を渡され、素直に受け取る。
 この時程、コイツに起きていて欲しくなかったと思った事はなかった。トイレで嘔吐している間もつきっきりでオレの背中を擦り、水を飲ませ、たっぷりと世話を焼かれる。消えろ、ほっといてくれと言い返すほどの元気もなく、されるがままだ。酒の所為とは言え、ここ最近で間違いなく体調は最悪だった。人質に見せるような姿ではないとわかってはいても、もう何もかも遅い。

 オレの体調を察した人質にやんわりと休むよう促されるも、こんな状態でも風呂に入らないのは気持ちが悪く、このまま眠れるとは思えなかった。風呂に入っている場合ではないのかもしれないが、人質に止められるのを覚悟して風呂場に向かうと、女は口出ししてこなかった代わりにジャケットを渡せと言ってくる。
 ジャケットの内ポケットには拳銃が入っていた。人質を脅すのに使用した物であり、もちろん実弾が入っている。今すぐにでも使える代物だ。どれだけバカだろうとポケットを探ればすぐにこれが何かわかるだろう。
 女は何も言わないオレを黙って見つめていた。純粋に世話を焼こうとしているだけとも、こうして純粋そうに振る舞うこと自体が何かの企みとも受け取れる。初心者がまともに扱えるのかどうかは別として、拳銃を手に入れることが目的かもしれない。
 体調は良くなる所か悪化している気さえして、本音を言うと今すぐにでも横になりたかった。迷った挙句、オレは人質にジャケットを渡す選択をした。

 人質にジャケットを渡してからは、とにかく早急に全身の汚れを落とすことしか考えていなかった。気を張っていないとすぐにでもぶっ倒れそうだとは言え、拳銃を構えた女に命を狙われるかもしれないのだから、時間をかけている場合ではない。
 途中、洗面所に人の気配がして、その瞬間だけはそっちのことに集中できた。動く人影を目で追ってはいたものの結局何も起こらないまま、全ての工程を終えて風呂場を出る。ご丁寧にタオルや着替えが準備されてあって、呆れると同時に謎の安心感を得た自分を殴りたくなった。
 
 熱気の所為か、風呂から出た直後再び吐き気に襲われてすぐにトイレに向かえば、先程と同じように人質に付き添われ、見られたくない姿をまた晒す羽目になった。背中を見せて蹲っている状態は、オレを殺すには絶好のタイミングだろう。殺るなら今しかない。いつ拳銃が突きつけられるか、頭の片隅で常にその意識は持ちながらも、背中を擦られている手が離れることはなかった。コイツにオレは殺せない。そんな変な自信が芽生えそうになる。
 


 吐き気が治まってリビングに戻ると、今度は人質に髪の毛を乾かすことを提案されて、オレは本格的にコイツが何を考えているのかわらなくなった。オレが風呂に入っていて丸腰のタイミングも、トイレで死んでいるときも何もしてこなかったのに、散々油断させてオレが眠った後に全て片付ける気なのか。そもそもコイツに逃げる意思はあるのか疑問だ。
 洗面器を持たされたオレは髪のブラッシングからドライヤーまで、ただされるがままだった。時折水を飲みながら、黙って全てが終わるのを待つ。
 コイツには本当にオレをどうこうしようという考えがないのか。先程から殺せと言わんばかりに隙を見せているオレに対して、何もそれらしき行動はしてこない。恐怖心が勝っていると言われればそれも納得だが、それならばここまで世話を焼く必要もないはずだ。オレを排除しようというよりもまるで心配し、気遣うような行動の数々に、九井の部下に言われた言葉を思い出す。

 『あの女、ずっと三途さんのこと心配?してたのが気になって』

 あの時人質がアイツに何を質問したかは知らない。心配するフリをして、オレの行動を探っていたとも考えられた。ドライヤーが耳元で唸るのを聞きながら、人質の考えているであろういくつかの可能性を導き出す。

 1、九井の部下の前でもオレの前でもオレを心配するフリをして油断させ、機会を窺っている。
 2、オレを心配するフリをしておきながら、九井と人質がグルになって何か企てている。
 3、九井の部下の報告がそもそも嘘で、九井が何か企てている。
 4、人質は何も考えていない。オレを殺す気も、逃げる気もない。

 現段階ではどの可能性も捨てきれなかった。結局九井が何か企んでいるのかはっきりしていないし、人質の女も九井も、それぞれに思惑があるように思えてならない。今のところそう言い切れる材料がないものの、オレだけが騙されているのだとしたら一番バカなのはオレだ。

 「……こんな感じでいかがですか」
 「あぁ」

 女が髪を乾かす手を止めて話しかけてきた。どう仕上がっても文句をつける気はなかったので、適当に返事をしてベッドに向かう。

 「お手洗い行かなくて大丈夫ですか?」
 「……いい」

 幸い吐き気は治まっていた。無駄に体力を消耗した所為で身体がだるい。眠気だけが一時頭の片隅に追いやられているようだった。普段なら酔った状態で横になれば即落ちできるのに、九井の部下の話が頭から離れない。

 ベッドの端が重みで沈んだのを感じながらも、何が起きているのか確かめる気にはなれなかった。渡された水に薬でも盛られていたのかと考えもしたものの、連日働いた後をあんな風に締めれば、こうもなる。
 このまま眠ってしまおうと意識を手放しかけた時、強い痛みが走って思わず声が出た。ついに頭痛まで襲ってきたようだ。
 オレが再び嘔吐すると思ったのか、人質が洗面器を持って覗き込んで来る。九井の部下の言う「心配そうな」表情とはこういうのを指すのだろうか。僅かに眉を寄せた女は、オレに憐みの視線を送る。
 コイツが眠らずに何をしようとしていたのかは知らないが、いつまでも自分の中で疑問をこねくり回したところで答えがでるはずもない。鎮痛剤がまだ家に残っているか記憶を引っ張り出しながら、気が付けば人質に対して皮肉にも似たような疑問をぶつけていた。

 「……こんなに隙だらけなのに、逃げないのか」
 「……逃げないですよ。それに、逃げられないじゃないですか」

 弱々しく微笑んだ人質は、ワイヤーを見せつけるように腕を持ち上げた。もう片方の手でワイヤーを擦るその表情は拒絶の色は全くなく、むしろ慈愛に満ちているように見えた。オレがおかしくなってしまったのか、女が狂っているのか、考えたくもない。

 「ジャケットにアレが入ってたの、気付いただろ」
 「……何のことですか」
 「こんなもの、一発撃てばどうにでもなるだろうが」
 
 言葉を無視して拳銃のことを尋ねると、相変わらずの様子のまま女はしらばっくれた。見え透いた嘘だ。

 「なぁ、逃げずにここにいる理由は何だ?何企んでやがる?」

 こんな聞き方をして素直に答えるはずもないのに、人質の両腕を掴んで正面から疑問をぶつける。時刻は恐らく午前2時か、もしかしたら3時近くになっているかもしれない。他人の立てる物音も、外を走るサイレンの音もない静かな夜。間接照明だけが点けられた部屋の中で、お互いの顔が照らされて浮かび上がる。女は腕を掴んだ瞬間だけこちらを見たものの、目が合うとすぐに視線を外して下を向いた。

 「何も、企んでなんかないです。ただ、三途さんが心配で……」

 人質が「心配」という単語を口にした。暗闇に吸い込まれる様に、徐々に声が尻すぼみになっていく。
 相変わらずコイツの本心はわからないままだ。どうとでも嘘は言える。オレを殺して逃げると言うよりも、オレに取り入ることが目的なのかもしれない。情に流されて、オレが自己判断で人質を解放することを期待しているのか。
 ただ残念ながら、そうしたところでオレが今回の計画を無にすることはない。必要だから生かしているだけで、人質が不要になればこいつの生活は一変する。オレに取り入って綱渡りのような駆け引きをするくらいなら、今夜のタイミングでオレを殺した方が余程手っ取り早いし確実なのは明らかだ。絶好の機会を捨て、わざわざオレを介抱することに何の意味があるのか。

 「……テメェ何言ってんのかわかってんのか?」
 「わかってます、でも本当に心配なんです。もし三途さんが死んでしまったらって考えると……」
 「死ぬ?オレが?泥酔が原因で?」

 この後人質が話したのは、ふざけた理由でオレが死ぬかもしれないという妄想だった。呆れながら返すオレに反して女の表情は真剣そのもので、本当に僅かな可能性を恐れているようだ。
 オレの存在はコイツにとって巨悪でしかないと思っていた。計画のために自分を拉致した全ての原因。憎まれることはあっても助けられる理由がない。外界との接触を絶ったことで、やはり気でも狂ったか。或いはこれが九井の部下の言う依存なのか。

 「三途さんにもしものことがあったら、私……」

 オレにもしものことがあったらどうなる。自分が飢え死にするとでも言いたいか。言葉の続きを濁した人質に、これ以上の説明は期待できなかった。もうこの話題について言及したくもない。

 結論の出ない疑問と酷くなる頭痛のせいで、本格的に考えるのを放棄したくなった。眠らずにオレの様子を見ると宣言した人質に背を向けるようにして布団を被る。これでオレが二度と目覚めることがなければ笑い者だが、今まで散々あったチャンスを全て棒に振ってきたコイツのことだ、恐らく何も起こらないまま翌朝を迎えることになるだろう。「コイツにオレは殺せない」という根拠のなかった自信は、「オレを殺す計画など立てるはずがない」へと僅かに形を変えた。

 こんなことをされてもオレの意思も、立場も、何も変わることはない。見返りに何を求めているのかは知らないが、人質の命の保障もできない。……そもそも、女は生きてここを出たいと本気で考えているのだろうか。
 女の言葉を全て信じるのならばコイツの考えは『4、人質は何も考えていない。オレを殺す気も、逃げる気もない』だった。その答えの持つ意味を、オレはまだ理解できていない。




























2023/07/18