予定もないのに変に早い時間に目が覚めてしまった。特に意味もなくシャワーを浴び、買ったまま目を通していなかった雑誌を手にベッドに戻る。人質は未だにソファで眠っているので、オレの居場所はベッドしかない。仕方なく就寝時に消しているベッドサイドの間接照明を点け、とりあえずの間時間を潰すことにした。
ホワイトアウト 16
明確にオレ達にオフ日が設定されているわけではないが、特に仕事が立て込んでいるわけでもないので今日はオフということにした。相変わらず九井からの返事に変化はないし、計画の進展も見えない。このままなかったことになるのではないかと思うくらいだ。この件に関してオレが忙しく動いているわけではないので、報酬の面でもどうでもよくなり始めていた。
ただ問題は、オレの家に住み続けている人質だ。このままなかったことになって、コイツのことをスルーされるのだけは勘弁して欲しい。オレが家にいる時間が短いのと人質が問題行動を起こさないのもあって、今のところ生活への影響は少ないとは言え、女が家にいることでオレのプライベートが犠牲になっているのは事実だ。計画の結末が決まったのなら、早急にコイツをどこかに引き取らせるのか処分するのか、結論を出してくれないと困る。
ベッドの上から人質を見下ろす。規則正しく上下している毛布が、女がまだ眠ったままなのだと告げていた。
『何も、企んでなんかないです。ただ、三途さんが心配で……』
『もし三途さんが死んでしまったらって考えると……』
『三途さんにもしものことがあったら、私……』
一人でいるとき、人質の顔を見た時、たまにこの言葉を思い出す。消え入るような声で呟いた女の台詞が、頭に残り続けていた。オレに取り入ったところでせいぜい寿命が伸びるくらいで、外と連絡が取れるようになるわけでも、一時的な外出が許可されるわけでもない。オレを殺す気も、ここから逃げる気もないなら、何の為にあんな事を言う必要があったのか。
「……クソッ」
モヤモヤした気持ちを晴らすかのように遮光カーテンを開ける。昇り始めた太陽が淡く部屋の中を照らした。目を細めて理由もなく遠くの空を見つめていると、背後で人の動く気配がする。
「三途さん……?」
「……」
「おはようございます」
人質は身体を起こして挨拶した後、時計を確認した。二度寝する気はないらしく、毛布を被ったままソファに座り込む。今からでも着替えて、適当に外で1日時間を潰すべきか迷い始めたところで、女が話しかけてきた。
「目が覚めたとき三途さんがスーツ姿じゃないの、珍しいです」
「……オマエ、毎日何して過ごしてる」
「え?えっと……」
話しかけてきた内容と関係ない質問をしたせいか、人質は視線を迷わせてから言葉を詰まらせた。
「まず掃除して洗濯機回して、それからご飯食べたり、後はテレビとか動画見たり……ですかね?」
「……」
「三途さんに比べたら、何もしてないのと同じですよね」
自虐的に笑った人質は膝を抱え、小さく丸くなる。外との接触を絶っているので女の出来ることが限られるのは当然だった。あえてフォローする気もないので言われたことに関しては無視して、再び視線を雲一つない空に戻す。久しぶりに丸一日を自宅で過ごすことに決めた瞬間だった。
「今日もいつも通りにしてろ。オレのことは気にするな」
「三途さん、もしかして今日お休みなんですか?」
「……まぁ」
何故言葉を濁したのか、自分でもよくわからなかった。
「じゃあ、できるだけお休みの邪魔しないようにしますね」
そういう意味じゃないと言いたかった。口にするか迷っていたところで人質がリビングを出て行き、一人部屋に残される。後を追ってまで伝える様なことでもないが、消化不良を起こしたような気持ち悪さが残った。
今日はオレも外に出ないと決めたからには、1日中この家に二人でいることになる。ここまで長時間、同じ空間で過ごすことになるのはホテルに滞在した時以来だ。これまでは……少なくともオレが泥酔して醜態を晒すまでは人質に対して興味はなかったものの、その考えに終止符を打つのならばコイツの存在を無視していては意味がない。僅かでもいい、この女が何を考え何をしようとしているのか、それが知りたい。オレ相手に全てを晒しているなんて思ってはいないが、コイツの本音に近付きたかった。
リビングに戻ってきた人質の手には掃除機が握られていた。窓を開けてからあらゆる箇所を掃除しているのを横目に、オレは雑誌を眺める。外の冷たい風がエアコンの温風に勝りかけたところで女は姿を消し、再びリビングに現れた時にはスウェットからジャージに着替えていた。
午前中は何をする訳でもなく時間が過ぎ去り、頃合いを見計らってデリバリーで二人分の昼食を頼んだ。あまり家で食事をしないのもあって、自分以外の人間が目の前で食事している姿が新鮮だった。
人質は「いただきます」と言った以外は何も発さず、部屋の中は静かだ。これも「休みの邪魔をしないようにする」に含まれているのかもしれない。こんな時に限って何も話しかけてこない女にもどかしさを感じつつ、気を紛らわすために適当にテレビをつけ、音量を小さ目にBGMの代わりにした。選局するわけでもなくただ番組を垂れ流しているだけで、自分の出す音がテレビに掻き消されて少しだけ気が楽になる。
怒鳴り声とも悲鳴とも無縁の、平和で穏やかな平日だった。お互いがたまに興味のないテレビに視線を送る以外にすることもなく、干渉することをあえて避けているような雰囲気以外は、悪くないと思った。
食事を終え、いよいよ本格的に手持無沙汰になり始めたところで、オレは人質に話しかけることにした。
「……頼まれてもねぇのに、掃除なんかし始めた理由は何だ」
「掃除ですか?……毎日時間を持て余してたのもありますけど」
まるでオレの声掛けを待っていたかのように、自分の分とオレの分のプラスチック製スプーンとデリバリー用の容器を人質が回収した。全てを袋に入れ、部屋に置いているウェットティッシュでテーブルを拭きながら、女が苦笑する。
「三途さん、潔癖症なんだろうなって思ったので」
「掃除くらいしか協力できないじゃないですか」と続けてから、元の位置に女が納まった。潔癖であることは事実だし、協力的なのは問題ない。家の中の状況やオレの指示で察したことだろうが、理由として改めて口にされると、自分で聞いておきながら何とも表現し難い気持ちになった。
それよりも、こんなに落ち着いた状態で人質と会話らしい会話をするのは初めてかもしれない。しっかりと視線を合わせてくる女を見つめ返しながら、この雰囲気ならと更に話を続けた。
「父親との取引が終わったら、オマエはどうする?」
「……まだ顔も見たことない相手なのではっきりとはわかりませんけど、一緒に働くとか、想像もできないです。父の会社のために働くなんて、もっと想像できない」
父親の話は拉致したその日と、男達が乗り込んできた日くらいにしかしなかった。それでも考えは以前と変わっていないようで、きっぱりと父への思いを口にする。
「……でもきっと私に拒否権なんてないですよね。父が三途さんと取引してるのも私に後を継がせたいからで、ここまでしておいて私の我が儘なんて聞いてくれるはずもないですから」
「……だろうな」
「前に三途さん『私の感情は関係ない』って言ってたの、本当にその通りだと思います」
人質が何故ここを出ることや逃げることに対して消極的なのか、全てはこの先に待つ自分の運命を受け入れたくないからだ。ある意味オレが甘やかしたと言うべきか、日常を恐怖や痛みを感じずに過ごしているせいで、コイツはすっかりここにいることの方が平和で安全だと思い込んでいるに違いない。
「自由って何なんでしょうね。私、こうして三途さんの家にずっといることに、不自由を感じてないんです。外に出られないし三途さん以外の人と会うこともほとんどないのに」
続けて女の口から発せられた台詞は、軟禁されている人間のそれとは思えなかった。こちらに訴えかけるでもなく、まるで最近あった出来事を報告するかのように胸の内を吐露しているのが異様に見えて、訝しげな表情をしてしまったかもしれない。
「衣食住を提供してもらってるのも理由の一つだと思います。働いていないのにご飯が食べられるなんて、普通じゃあり得ないですし」
「……」
「でも、そういうのとは違うんですよね。繋がれてたり行動が制限されていても、私は私でいられてる。きっと私にとって重要なのは心の自由なんだなって」
「軟禁されてても心が縛られてねぇなら関係ねぇってか。よくそんなことがオレに言えるな」
「……私、三途さんに感謝してます。何も知らないまま父のところに連れていかれてたら、こんなこと考えることもなかったと思うし、父と母の真実も知らなかったかもしれないですから」
人質の口から感謝という言葉が出てきて、眩暈がしそうになった。コイツは確実に病んでいるし、その所為で判断能力がまともに機能していない。真っ当そうな理由を並べてはいるが、人質を日常から切り離し、都合の言い様にしている人間に対して抱くような感情でないのは確かだ。
「今となっては三途さんのこと、悪い人だってあんまり思ってません」
「……人間、長期間隔離して閉じ込めておくと頭がおかしくなっちまうんだな」
「そう思われても仕方ないと思います。無理矢理ここから逃げたいとも思ってないですし、もしかしたら私はまともじゃないのかもしれない。でも……」
「……」
「三途さんに嘘は吐きたくないので」
先程から常に頭を殴られているような状態なのに、ここにきてバッドで思い切りぶん殴られるような衝撃だった。今まで聞いたことが既に全て嘘のような話なのに、それを信じろと言うのか。時折視線を落としながら、相変わらず新聞でも音読するかのように淡々と、女は話を続ける。
「私、ずっと自分の為に何かしようって思ったことないかもしれないです。母が生きていたときも、きっと母の為に幸せになりたくて……」
人質の言葉とは裏腹に、オレは自分以外の誰かのために幸せになりたいだなんて考えたこともなかった。ほとんど関わりのなかった両親も、兄や妹でさえも「誰か」にはカウントされない。
共感できる部分がないまま、それでもオレはコイツの話を聞かなければならないような気がした。この機会を逃せば、という人物とは分かり合えないような、予感みたいなものがある。
「母が亡くなって、なかなか前を向けないまま過ごしてきました。……それでこんなことになって。大学に行かせてくれて、家まで残してくれた母には感謝してます。でも大学の費用も、家を買えたのも、父のお金のおかげだって三途さんから聞いて気付いたんです。だからって父に感謝したいとはあまり思えないんですけど……。真実を知って、母も亡くなってしまった今、今度は自分の為にって思わなきゃいけないのに……」
そこまで言うと人質は顔を上げてオレを見据えた。テーブルを挟んで斜め前に座る女とはそれなりに距離が近い。先程とは違い緊張感を孕んだ空気が部屋を包む。
「今は三途さんの為に家を綺麗にして、取引のためにここに残って、人質でいることが多分私の生きてる理由です」
「……ちょっと待ってくれ」
思いも寄らぬ人質の発言に、視線を振り切って一人洗面所へと向かった。洗面台の蛇口を捻ると勢いよく水が流れる。髪が濡れるのもお構いなしに何度かその水で顔を洗った。顔を上げて鏡に映ったオレは、混乱と情けなさが入り混じったような表情でこちらを睨んでいる。
生きている理由などと、どんな大層なものをオレに背負わせるなとか、オマエは頭がおかしいとか、言い返す言葉はいくらでも思いついた。それなのに何も言えなかったのは、自分に返ってくるような気がしたからだ。生きてきた環境が違うし、対象も違えど、コイツの言いたいことはわかる。オレにとってボスがそうであるように、見返りを求めない行為や感情は、存在するにはすると思っている。だが、自分がそちら側になるのは慣れていなかった。
数分間、ただ流水音を聞きながら気持ちを落ち着かせようとした。この話は終わりにする。もう十分だ。リビングに戻って何事もなかったかのように振る舞えば、女も空気を読むはずだ。そのためにも、まずオレが切り替える必要がある。
意を決してリビングに戻ると、人質はソファの定位置に座ってテレビを眺めていた。ソファの余っているスペースに腰かけたとき、視線を感じたような気がするが無視する。
「……面白いのかこれ」
「個人的にはまぁまぁです」
思えば女が家に来て以来、ベッドの代わりに使われているのもあってソファはコイツの場所になっていた。泥酔して帰宅し、ここに座って髪の毛を乾かした時に久しぶりにソファに座った以外で使用した記憶がない。オレはベッド、女はソファと自然にエリア分けされていて、互いにその境界を破ることはほとんどなかった。
「この番組、本当にまぁまぁ面白ぇんだろな」
「個人的にはです。三途さんにとって面白いかは……」
言いかけてから人質がテーブルに手を伸ばす。リモコンを手にした女が、それをオレに差し出してきた。
「今日は三途さんのお休みの日ですから、三途さんが好きなものを見てください。私は何でもいいので」
仕方なくリモコンを受け取ると、女は視線をテレビに戻して丸くなった。見たい番組なんてものはない。テレビはただのBGMであり、沈黙が流れるよりマシだと思っただけだ。それに正直これ以上の情報を頭の中で処理する余裕は、今のオレにはない。何を見たところで右から左だろう。結局チャンネルを変えることはなく、オレも視線をテレビに戻すしかなかった。
* * *
どうやら居眠りしてしまっていたらしく、気付けばテレビには知らない番組が流れていた。窓からは日光が降り注ぎ、電気も点けていないのに部屋の中は明るい。もう冬なのもあってエアコンは使用しているが、何処か冬らしくなかった。
同じくソファに座ってテレビを見ていた人質は、反対側の肘掛に身体を預けて居眠りしていた。自分のことを脅していた相手の隣で、無防備に寝息を立てている。まともじゃないと呆れると同時に、自分もある種人質のことを信用しきっているのだと気付かされてやるせない。何が平和で穏やかな平日だ。そんなものはオレと無縁だと言ってもおかしくないのに、バカも休み休み言え。こんな何の利益も生まない、かりそめの信頼関係が何になる。ただの金蔓に、オレは何を期待している?
考え始めると気分が悪くなった。認めたくないオレと楽になりたがっているオレがせめぎあっている。自分の中で巡る感情を、なかったことにしてしまいたかった。
肘掛にもたれかかり目を閉じて、全て白で塗りつぶそうと試みた。人質を殺してしまえば、全て忘れることができる。そうしてしまうほうがきっと楽だ。どんな方法でもいい、隣で眠っている女の息の根を止める、ただそれだけの事なのに。
一番の近道で一番手っ取り早い方法だと頭では理解しているはずか、身体は一向に行動する気配がなかった。脳は行動を起こさせるための信号を送る気がないらしい。結局は、わかっているようで拒んでいる。理屈ではない、ということか。
いつの間にか外の日は落ち、部屋は薄暗い状態でオレは毛布を掛けられていた。再び居眠りをしてしまっていたことに呆然としながら身体を起こしてみる。
何気なく目をやったソファの反対側の肘掛から、人質の姿は消えていた。部屋を見渡してもいない。一番最初に頭に浮かんだのは逃げられたというよりも裏切られたという感情で、舌打ちをしながら女を探すべくリビングを出た。
最初に探しに行った洗面所で、人質はあっさり見つかった。洗濯機から乾燥済みの洗濯物を取り出していた女は、オレが勢いよく扉を開けると目を見開いてこちらを凝視する。
コイツに何か言われる前にこの場を去らなくては。咄嗟にそんなことを考えて、そのまま扉を閉めてリビングに戻った。ソファに腰かけると、息を止めていたのかと思うくらい大きな溜め息が漏れる。自分自身に対する呆れと安堵が混ざり合っているのだと気付いて、本当に、つくづく、バカだと思った。
2023/07/20