三途さんが1日中家にいた。彼は一歩も外に出ることなく、家で休日を過ごした。彼と一緒に食事をし、だらだらとテレビを眺め、今までで一番穏やかな日を過ごしたと思う。
ホワイトアウト 17
穏やかな一日でありながら、内心戸惑う時間もあった。普段私に話しかけることのない三途さんが珍しく私に質問してきたのは、丁度昼食を食べ終えた頃だ。始めは「どうして家を掃除しているのか」と尋ねられ、正直にすることがないからだと説明した。そして、三途さんが潔癖症故に、できるだけ協力したいのだということも話した。彼から直接潔癖症であると言われたことは今まで一度もない。それでも状況を察したのか、彼は表情一つ変えず次の質問をしてきた。
「父親との取引が終わったら、オマエはどうする?」
一番最初に浮かんだのは、三途さんとの生活の終幕だった。でも彼が聞きたいのはそんなことではないのはわかっている。私がここを出て行かない選択肢など存在しないし、質問の本質は父との向き合い方の話だろう。
はっきりと父とこれから一緒に何かしていくのは想像できないのだと答えてから、これでは三途さんを困らせるのではないかと思った。物わかりのいい女を演じるために、全て理解しているような口ぶりで自分の答えを否定する。それは彼の目の前でいい格好をしたかったのと同時に、自分に言い聞かせる為でもあった。
三途さんの言う取引が今どの段階まで来ているのか、私は一切知らされていない。聞くのが怖かったのもあり、自分から話題に出すようなこともこれまでしてこなかった。でもここに来て彼がこんな話をしてくるということは、いよいよ交渉が大詰めの段階に差し掛かっているのかもしれない。
私の抱いている様々な気持ちを三途さんに伝えるのは、今しかないと思った。何を伝えても最終的に私はここからいなくなる。わだかまりを感じる程の痕跡すら残さず、彼の前から姿を消す。私の気持ちを伝えたところで、彼の部下と同じことを言われるかもしれないけれど、それでもこの感情は本物だ。躊躇っている間にも時間が刻一刻と迫ってきているのは確かで、彼と過ごす時間が永遠に続くものでないのであれば、残された時間のことを気にしても仕方がない。
まず話したのは三途さんに対する感謝だった。最初は自分のことを不幸だと思っていたけれど、結果的に何も知らずに過ごすよりはよかったと思っていること。そしてそう思えるのは、彼あってのことだということ。
現在進行形で拘束されていても私の心は自由だ。私の思想は三途さんに縛られたりはしていないし、だからこそ彼のことを想う気持ちも許されている。ただ、それをはっきりと口にするのは憚られた。濁すために「三途さんのことは悪い人だと思っていない」と言うと、案の定彼は状況の所為にする。それでも少しでも信用してほしくて、逃げたいと思っていないことも、彼に嘘を吐きたくないと心から思っていることも伝えた。僅かばかり目を見開いた彼はショックを受けているようにも、疑っているようにも見える。罵倒されるのを覚悟したけれど、彼は私の言葉を遮ったりすることなく、黙って話を聞いてくれた。
自分の為に生きてこられなかった私が、今度はあなたに依存している。そんな告白は、恐ろしくもあり可笑しくもあったかもしれない。でもこれが、三途さんに嘘を吐かない理由であり、彼を愛する理由でもあり、今の私の全てだ。私を軟禁しているのが彼の部下や家に押しかけて来た三人組の男たちであれば、こんな感情は抱かなかっただろう。全てを状況の所為にはして欲しくない。三途さんだからこそ、今の私が在る。
ある意味普通の告白よりも重たい台詞を吐いた私にも、三途さんは優しかった。逃げるようにリビングを去った彼の後姿を見送りながら、後悔の気持ちがなかったと言えば嘘になる。いくら残されている時間が少ないからとは言え、何もかもが唐突すぎたし、軽蔑されてもおかしくない。
それでも彼は数分後にはリビングに戻ってきて、何事もなかったかのように話しかけてくれた。その気持ちを無碍にしないように、私も彼に合せて普通を装った。私の気持ちや都合ばかり押し付けるのは申し訳ない。もうあれでお終いだ。
その後一緒にテレビを眺め、気が付いた時には隣で三途さんも居眠りしていた。暫しの間彼の寝顔に見惚れていたものの、洗濯物を片付けるべく彼に毛布をかけてから洗面所に向かう。数分後、いつものように乾燥された洗濯物を回収していたところに現れたのは、勢いよく扉を開けた彼だった。
時が止まったみたいに見上げる私と、見下ろす三途さんが固まる。見たことがないくらい彼は焦っている様子で、思わず声をかけるのを躊躇った程だ。
三途さんの様子がおかしいのは明らかに昼寝をする前の私の発言が原因だろう。謝るべきか、何も知らないフリをするべきか。洗濯物を抱えたままそっとリビングに戻ると、頬杖をついた状態で彼はスマホを触っていた。状況的に謝るのはなしだと判断した私は、いつものようにソファで洗濯物を畳み始める。彼は何も言わなかった。
* * *
1日が終わるのは早かった。ほとんど普段と変わらない生活をしていたのに時間の経過が早く感じたのは、三途さんと一緒に過ごしたのが理由だろう。
「おやすみ」や何かそれらしいことは言われなかったものの、三途さんがベッドに移動して布団に潜り込んだのを見て、私も就寝準備を始めた。すぐに間接照明が消され、部屋の中が真っ暗になる。
自分以外の人間の気配を確かに感じつつ、今日一日を振り返った。少しの後悔もあるけれど、これでよかったと言い聞かせながら毛布の中で丸まる。
「……くしゅんっ!」
静かな夜の部屋に私のくしゃみが響いた。今夜はやけに冷えるなぁと、鼻水を啜りながら更に身体を縮める。日中テレビで今晩から明日にかけて気温が下がると報道されていたのを思い出し、もうすっかり冬になってしまったのだと改めて実感した。きっと処分されてしまったであろう、私がここに連れてこられたときに着ていたカーディガンでは物足りない時期になってしまった。
季節の変化をこの部屋の中で感じながら、二回、三回と立て続けにくしゃみが出た。昼間はエアコンをつけているけれど就寝時は消されるのもあって、寒さと温度変化の所為かくしゃみが止まらない。恥ずかしさで一時的に洗面所に逃げるべきか考え始めたところで、間接照明が点けられた。
「……寒ぃのか」
「……少し」
背後で布の擦れる音が聞こえた。
「使うか?」
「?」
上半身を起こして振り向くと、ベッドから出た三途さんが私を見下ろして腕を組んで立っていた。何を「使う」のかわからずに首を傾げれば、彼は無言のまま後ろのベッドを指差す。彼のベッドは毛布に掛け布団、そして冬用の敷きパッドが設置されていて、見るからに暖かそうだった。
「いいんですか?」
「あぁ。くしゃみがうるせぇからな」
「……ですよね、すみません」
自力でくしゃみを制御する自信はない。理由が理由なので、ここで遠慮してまた三途さんに迷惑をかけるわけにもいかないと思った。彼からの申し出ということもあり、私はありがたく彼のベッドを使わせてもらうことにした。明日には追加の布団か何か用意されるだろう。
「おい、さっさと奥詰めろ」
「え?あの」
「オマエ、家主にソファで寝ろってか?」
「そういうわけではないんですけど」
三途さんのことだから私の所為で眠れなくなってしまって、ソファで作業をすると言い出すような気がしていた。それもあって図々しくも躊躇いなくベッドに潜り込んだのに、彼が隣で眠るなんて聞いていない。彼の言うように、じゃあ彼はどこで睡眠をとるのだと言われればその通りだけれど、この選択肢は可能性すら考えていなかった。
仕方ないので目一杯壁側に詰めてから横を向いた。意識してしまっているのは私だけだろう。三途さんにとってはベッドの面積の半分を私に譲ってでも静かな環境で眠りたいだけだ。できるだけ端のほうで眠れば彼の邪魔にはならないと思いたい。
そうこうしているうちにスプリングが揺れて、三途さんと同じベッドで横になっているのを実感した。先程まで彼が使っていたのもあって布団の中はとても暖かいのに、今はそんなことに幸せを感じている暇はない。心臓がものすごい速さで動きだして、しばらくは眠れそうにもなかった。今なら寒さを我慢してでも、ソファで横になっているほうがリラックスできるかもしれない。
寝付けないからといってベッドの上で動き回るわけにもいかず、ひたすら眠気が下りてくる様念じた。三途さんはあれから全く動くこともなければ、寝息が聞こえてくることもない。できるだけ息を殺して頭の中を空っぽにすることに意識を集中させながら、眠ってしまうか朝が来るのを待つしかなかった。
「……もう寝たか」
「……いえ」
目が暗闇に慣れてきたところで、すぐ隣から三途さんの声がした。寝たふりをするか迷ったものの、気付かれてしまうような気がして正直に起きていることを伝える。
直後に布団が擦れる音と、すぐ背後に人の気配を感じて、緊張がピークに達した。三途さんから話しかけられたのに、彼の顔を見る為に身体の向きを変えられる程、余裕がない。無言のまま固まっていると何かが肩に触れた。恐らく三途さんの手だ。
「私、やっぱり……!」
驚き、緊張、様々な感情で混乱して思わず飛び起きようとした私の上に三途さんが馬乗りになった。初めてこの家に来た時にも同じようにして、彼に銃を突き付けられたことを思い出す。あの時は全てを恐怖に支配されていたけれど、今は全く違う感情が心の中で渦巻いていた。
明かりのない部屋の中、ぼんやりと浮かび上がった三途さんの表情は硬い。以前はにやにや笑いながら「殺す」を連呼されていたのに、今は楽しそうどころか辛そうにも見えた。一体どうしたのだろう。理由もなく彼がこんなことをするとは思えなくて、黙って彼の言葉を待つ。
沈黙の中、暗闇に白く浮かび上がったのは彼が伸ばした腕だった。ゆっくりと迫るそれの行きつく先が恐らく喉であることを悟っても、恐怖は感じなかった。私が生にしがみ付く理由はない。私の命は三途さんに預けているも同然なのだから、彼がこの道を選ぶのならそれでいい。目を閉じて喉に手がかかるのを待った。
命が三途さんによって奪われるのを覚悟した私が感じたのは、彼の手の温度でも、喉を圧迫される感覚でもなかった。耳に届いたのはジッパーが動く音で、起伏のない開閉音が聞こえると同時に、首元が開放されていく。
ジャージの下は下着しか身に着けていないのに、胸が見えるか見えないかの辺りでようやく三途さんの手が止まった。今から何が起こるのか、全く予想ができずにただ彼を見上げることしかできない。寒さを感じている暇もなかった。開いた首元から指が差し入れられ肌をなぞられれば、思わず身体が反応する。それでも彼は表情を変えなかった。
2023/07/22