あの夜から、私と三途さんの関係は大きく変化した。私に馬乗りになった彼が、何を考えていたのかはわからない。初めからああするつもりだったのか、それとも私が「抱いてくれるんですか」なんて尋ねたからなのかもしれない。相変わらず彼は何も言葉にしないし、そういう意味では私達の関係に新たな呼び名や肩書きが加わったわけではなかった。だとしても、実感として変わったことはたくさんあると思う。
まず「いってらっしゃい」や「おかえりなさい」の挨拶に、たまに返事が返ってくるようになった。今までは振り返ったり直後に目が合うことはあっても返事が返ってくることはまずなかったので、初めて「行ってくる」の声を聞いたときは耳を疑った程だ。
その他だと、夕食を一緒に食べることが増えたのは些細なことかもしれないけれど嬉しい。でも何より一番の変化は、夜眠る時にソファを使わなくなったことだ。簡単に言えば三途さんのベッドで一緒に眠るようになった。そして、毎晩のように肌を重ねるようにもなった。私を拉致したその日から彼が望めば無理矢理にでも実行できたことなので、このような関係を持ったことはネガティブには捉えていない。言葉にはされないけれど、何か彼の中で心境の変化や私に対する扱い方が変わったのだと思っている。拘束具も外されたまま、既に撤去されてしまったので、私は人質でありながら人質ではないのかもしれない。流石に浮かれすぎているかもしれないけれど、私自身仮に彼の都合のいい女になっているのだとしても悲観する理由もなかった。今は彼に必要とされることが何よりも嬉しい。
ホワイトアウト 19
日課である掃除を終えて、ソファで一休みしていると玄関の開く気配がした。まだ昼を過ぎたころで、三途さんが帰ってくるには早すぎる。
また誰か来たのかと身構えていると、静かにリビングに現れたのは三途さんだった。胸を撫で下ろしながら「おかえりなさい」と声を掛けてみても心なしか彼の表情は硬く、不穏な空気が漂っている。
「今日は早いんですね」
「……オマエに話がある」
いつもなら帰宅してすぐにお風呂と着替えを済ませる三途さんが、スーツ姿のまま動こうとしなかった。すぐにまた家を出る予定があるだけだと自分に言い聞かせながらも、そんな単純なことではないと気付いていた。なるべく動揺しているのを悟られないように「何の話ですか?」と明るく返してみても、声は少し震えている。
「長かった軟禁生活も終わりだ」
「……」
「今朝、オマエの父親との話に決着が着いた」
本当はこうなるとわかっていた。三途さんが私に話さなければならないこと、一番重要なことは私が本来ここにいる理由についてだ。
長い軟禁生活で様々な変化があった。私の心境も、三途さんの心の中もきっと何かが変わっているに違いない。だからと言ってこの生活がずっと続くことはないとわかっていたのに、いざ終わりを迎えると思うと心が苦しかった。急に決まったことなのか、それとも前々から今日が予定されていたのかはわからない。今朝家を出るときは彼にそんな素振りすらなくて、余計に混乱した。
「結論から先に言う。交渉は決裂した」
「決裂……?ダメだったってことですか?」
「あぁ。テメエの親父がオマエのことを諦める選択をした」
元々父の会社の後継者が他にいないからという理由で、私が候補に挙がった。それを先回りして三途さんが私を拉致し、私の身柄と引き換えに何か見返りを貰う予定だったはずだ。私を諦めると言うことは、私は父の会社の後継者ではなくなるし、彼と組織の人間の利益にもならない。
「こんなに長引かせておいて結論がこれじゃ話にならねぇ。遅かれ早かれ、オマエの親父は無事では済まねーよ」
「父の安否についてはお任せしますが……私はどうなるんですか」
父の会社を継ぎたいと思ったことは一度もないし、一緒に仕事をする気もなかった。そういう意味ではこの結論にある意味安堵した。しかし残る問題は私の身柄についてだ。これまでずっと父に引き渡される前提で過ごしていて、この取引の終わりとそれはイコールだと思っていた。
見たことも話したこともない父親のことなど、どうでもよかった。母を想うと不憫で、父の事を受け入れられるはずもなかった。それでも、心の底で父が「軟禁されている」という危機的状況から救い出してくれると信じて疑わなかった。仕方なくだとしても、向こうには私を家族として受け入れる準備があるものだと思っていた。なのに、結論はこれだ。父は私に降りかかる脅威に興味がないのだろう。自分がこの選択をすることで娘が生き残るか死ぬかなど、どうでもいいのだ。
何を理由にこういう結果になったのか三途さんは口にしなかったものの、理由は何にせよ、私は二度も父に捨てられたことになる。家族という、無条件に愛情を注いでもらえる対象に、最後まで私はなれなかった。
「ウチの考えとしてはオマエはもう用済みだ。取引は終わっちまったんだからな」
「これだけ時間をかけたのに、何の利益にもなれないなんて……」
そして何より辛いのは、三途さんの役に立つことすらできなかったという事実だ。人質としての役目すら全うできないまま終わってしまうなんて予想もしなかった。こうなった責任を、彼は取らされてしまうのか。
「三途さんに被害はないんですか。もし何かあるのなら私を……」
「こうなった腹いせにオマエを殺したところで、今となってはオマエの親父に何のダメージもねぇよ。報復するなら向こうに直接だ」
「……そうですか」
「じゃあオマエはどうなるんだっつー話に戻るが、具体的な指示は組織からは何もねぇ。殺すなり売り飛ばすなり好きにしろ、だとよ。ただオマエは全てを知ってるし、このまま解放する理由も組織にはねぇな」
当然の結論だった。私は何もかも知りすぎている。警察にも行かないし今回の出来事は一切口外しないと約束したところで、組織にとって私を信用する理由がなかった。そんな不安要素を残しておくくらいならいっそ、存在ごと消してしまったほうがいいに違いない。
「三途さん」
「何だ」
「やっぱり、私のこと殺してください」
「……何だと?」
「売り飛ばしてくれても構いません。三途さんに迷惑がかからなくて、組織の方が納得する方法で私のこと処理してください」
僅かに三途さんが目を見開いた。私は本音を悟られないように、出来るだけ真っ直ぐ彼を見つめる。
本当のことを言えば、三途さんのために生きたかった。この家の中で過ごしていたように、彼のために全てを捧げたかった。もう何も残されていない今、三途さんの存在が私にとっては一番大きく、かけがえのないものになっていた。でも、彼に迷惑がかかるならいっそのこと彼の手で、という気持ちも少なからずある。きっと彼に殺してもらうのなら後悔はない。
「三途さんお願い……死ぬのなら、三途さんの為に死にたいの」
「……ッ」
背伸びをして三途さんの口に触れるだけのキスをした。私からこんなことをするのは初めてだ。
あの夜のことがあってから、ごくたまにではあるけれど、三途さんは行為中以外に私にキスしてくれるようになった。偶然隣り合った洗面所で、くつろいでいるソファの上で……ふとしたときに目が合うと、何となくそうなるのがわかった。言葉はなくても、これが彼の意思表示なのだと思えた。何よりも嬉しくて、幸せな瞬間だった。
三途さんがジャケットから拳銃を取り出すのが見えて、目を閉じようか迷う。でも怖がっていると思われると、彼に罪悪感が生まれてしまうかもしれない。
結局目は開いたまま、硬い拳銃の先がこめかみに突きつけられるのを眺めていた。いよいよだと思うと身体が震え出す。三途さんのために嘘を吐くと決めたのに、恐らく彼に本心は知られているだろう。彼には申し訳ないけれど最後に嘘を吐いたまま別れるのが嫌で、結局胸の内は白状することに決めた。
「……あんなこと言ったけど、本当は怖いんです。だから手を握っていてもいいですか」
「……あぁ」
「ありがとう三途さん。ずっと言えなかったけれど……三途さんのこと、愛してました」
2023/08/26