九井からの連絡に気付いたのは車の中だった。例の件を除いてこいつから着信があることはまずない。数秒間待ち受けに表示されている名前を眺めた後に、電話に出た。

 「……どうした」
 『今日で決着が付きそうだ。長かったな』

 わざわざ何の件か聞くような野暮なことはしない。電話越しに機嫌の良さそうな声を聞きながら、最後の会合になるであろう時間と場所を尋ねた。
 これで今日予定していた仕事は全てキャンセルだ。取引が終われば即行で家に帰り、に事情を説明し、家を出て行く準備をさせなければならない。引き渡しは今日中だろう。まとめる荷物など何もないが、父親の元まで送り届ける役目は恐らくオレになる。最後のお別れというやつだ。

ホワイトアウト 20


 九井とは現地集合になった。オレが到着した時には既に奴は契約書などが入っているであろう、普段は持ち歩いていない大きな革の鞄を提げて入り口付近で待ち構えていた。九井もオレも殺し合いに来たわけではないので、お互い部下は連れていない。今から必要になるのは拳銃ではなく、紙とペンだ。

 オレたちは言葉を交わすことなく合流し、そのままビルの上階にある社長室まで通された。部屋には人質の父親である社長と、おそらく社長の父親、から見て祖父になるであろう会長の姿があった。室内には重苦しい空気が垂れこめていて、ソファに腰かける二人も項垂れた様子だ。オレたちが部屋の中に入った瞬間こそ顔を上げたものの、その後は視線を落としたままだった。向かい側のソファに軽快な足取りで近付き一息ついたところで、早速九井が口を開く。

 「よぉ、えらく時間かけてくれたなぁ?」
 「……じっくりと考えてくれて構わないという話だったからな。遠慮なく時間を使わせてもらった」
 「まぁいい。書類は全部持ってきた。今からオレらの目の前でサインしてもらう」
 「……その話だが」

 この時に初めて、目の前の男二人が顔を見合わせた。それを見た九井の眉間には、僅かに皺が寄っている。

 「そちらの条件は……呑まないことにした」
 「おいおい、何言ってんだテメェ」
 「確かにがこちらに戻ってくれるのなら全て丸く収まる。……だが、そのための対価があまりにも大きすぎる」
 「一度お前たちの言う事を聞けば、我々は一生言いなりだ。これから先、お前たちの陰に怯えて生きろと言うのか?」

 暫くの間、誰も言葉を発さなかった。罵声や怒号が飛び交ってもおかしくない状況で、布の擦れる音すら聞こえてこない。一度だけ言い返した九井も、オレの隣でどうするべきか思案しているのか、それとも曲がりなりにもこの件のリーダーであるオレの判断を待っているのか、それ以上は言い返さなかった。
 
 一瞬強気に出た以外はオレらと目を合わそうともしない、二人のジジイの頭の中はなんとなく予想できる。今回の件をなかったことにした報復として、に関する親子スキャンダルを世間に流されたところで、こちらの手を取った後の損失に比べればマシだという判断なのだろう。
 こいつらの話は間違いではなかった。契約書には理不尽な内容が含まれている可能性があるし、仮にそれらしいことは書かれていなかったとしても、今回の件をチラつかせれば同じことだ。一度脅迫に屈したら最後、弱みを突かれて搾り取られ続けるのはどこの世界でも同じ。その負の連鎖から逃れるには、そもそも第一段階で関係を絶つしかない。

 「人質はどうなってもいいんだな?」
 「……止むを得ん」
 「この決断が英断だったと思える日が来りゃいいな。行くぞ九井」
 「……あぁ」

 後継者に祭り上げようとしたのも、利用する気でいたのにに関して命乞いすらしなかったのも、全てこいつらの事情でしかなかった。反吐が出そうだ。彼女に説明する必要があるとしても、事実は話せないと思った。唯でさえ精神的に脆い状態にいるのに、最後に吐いた父親の言葉を知ったらきっと彼女は壊れてしまう。

 これ以上こいつらと同じ空間にいるのが絶えられず、九井を連れて部屋を出た。これから戻って結論を報告する必要がある。時間がかかりすぎているし、ほとんどの奴らは今回の件のことを忘れているだろう。わざわざ幹部を全員集めて報告をするほどでもない。マイキーの耳にだけは入れておく必要があるものの、ボスもこの件についてはもう興味を失っている気がした。

 「こんなオチありか?今更契約破棄って」
 「……あり得ねぇな」
 「猶予与えすぎて頭おかしくなっちまったか?」
 「さぁ。もう全部終わったことだ」
 「三途、テメェまさかこのまま終わらせる気かよ?」
 「……んなわけねぇだろ。こっちは散々振り回された結果がこれで、腸煮えくり返ってんだよ。どうなってもいいっつーなら全部ぶっ壊してやるまでだ」
 「ハッ、いいねぇ。会社を残すことを考えずに済むならいくらでも手はあるな」

 あいつらの考えの甘かったところは、オレたちがこのまま手を引くと思っているところだ。目を点けられた時点で全て終わっていたのだと、服従以外に自分たちが生き残る道はなかったのだ思い知らせる必要がある。スキャンダルを流すような生温い方法では終わらせない。
 ボスの元に向かうまでに報告の内容をまとめるべく、黙って後部座席に滑り込んだ九井の姿を確認したオレは、静かに車を発進させた。



* * *



 こんな時間に帰宅することはまずないので、を怖がらせないように静かに玄関の扉を開けた。それでもやはり人の気配には気付いていたのか、リビングに入ると緊張した様子の彼女と目が合う。相手がオレだとわかった瞬間に彼女が安堵したのがわかった。

 「おかえりなさい。今日は早いんですね」
 「……オマエに話がある」

 まともに説明していたら話を切り出せなくなるような気がしたので、の言葉を無視して一方的に話を始めた。彼女は震えた声で気丈に振る舞っているものの、話の内容は口にせずともほとんど理解しているだろう。手短に今朝の出来事を報告した。
 父親の発言に関しては若干濁したが、嘘を吐いたわけではない。それでも心配した通り、視線を落としたを見て真実を伏せて正解だと思った。どんな事情があれ、父親が彼女のことを見捨てたと言っても過言ではない。いくら父親を父親と思っていないと本人が名言していたとしても、この結論を受け入れるのは辛いだろう。生まれた時から父親を知らず、一般的な家庭とは違う育ち方をしてきたのなら少なからず羨望もあったかもしれない。
 父親のその後についてはオレたちに任せる判断をした後、次にが口にしたのは彼女のこれからについてだった。そしてすぐ後にオレの心配が続く。彼女は人質としての役目を果たせなかった自分を責めていた。先程九井と二人で報告に行った時のことを思い返す。


 報告のためにボスの下へ向かうとその場には武臣もいて、結局二人に対してだけ今朝の出来事を話すことになった。案の定時間が経ちすぎているのか、そんなことあったようなという反応をする武臣と、とっくに興味が失せた様子のマイキーの僅かな反応があっただけだ。逆にそれくらいの反応である意味助かったとも言えるが、人質に関しても同じく無関心の二人からは、最早どうでもいいという雰囲気しか感じられなかった。
 事実、に心配されているような問題は起こっていない。この案件に取り掛かっている間も他の仕事をこなしていたし、最初の話こそ大掛かりなものだったが、こういう大きな企画が上手く行かないことなど珍しくもない。計画の割に結果は散々ではあったものの、全て九井と二人で進めていて、他の幹部に迷惑をかけなかったことも事の収拾には大きく関係しただろう。とにかく、人質であった彼女が原因の結論でもなければ、彼女が心配することも気に病むこともない。「用済み」だなんて表現は酷いかもしれないが、これで彼女は晴れて自由の身だ。

 「三途さんに被害はないんですか。もし何かあるのなら私を……」
 「こうなった腹いせにオマエを殺したところで、今となってはオマエの親父に何のダメージもねぇよ。報復するなら向こうに直接だ」
 「……そうですか」
 「じゃあオマエはどうなるんだっつー話に戻るが、具体的な指示は組織からは何もねぇ。殺すなり売り飛ばすなり好きにしろ、だとよ。ただオマエは全てを知ってるし、このまま解放する理由も組織にはねぇな」

 問題は、自由になったをこれからどうするかだった。正直こんな結論になるとはオレも彼女も予想外で、人質としてこの家にいるか父親の元に身柄を引き渡すかの二択しか、選択肢になかったのだ。第三の選択肢が必要になるなど考えもしなかった。
 武臣はどうせだから売って金にするなり、風俗で働かせればどうかと提案してきた。それを聞き流しつつ、オレはボスの言葉を待った。マイキーが何と言うかは大抵決まっている。「好きにしろ」もしくは「殺せ」だ。8割方殺せと指示があるし、最終的に面倒臭がってオレが殺すことを視野に入れた「好きにしろ」の場合もあるだろう。実際9割くらい、対象はこの世から消す形で処理してきた。そんなオレに対して、今回ボスが言い放った結論は「好きにしろ」だった。

 確かには今回の計画について全てを知っている数少ない人物ではある。だが、組織の人間の顔を見たのはオレを含め4人。オレの車のナンバーも、このマンションの具体的な住所も知らない。仮に彼女が警察に行って話せるのは、拉致された事実と自分の父親に関することと、計画の全容についてだけだろう。拉致するときも防犯カメラは気にしていたし、物的証拠があるわけでも現行犯で人質を見つけたわけでもない警察が、どこまでオレらを追い詰められるか。
 ここまで想像しておいて、オレの中では警察に行くことはないという自信があった。警察に行くこともなければ、この件を他言することもないだろう。根拠はないし理由を聞かれても困るが、信じているからとしか言えない。自分でもどうかしているとわかっていてもとにかくオレは彼女を信じているし、殺すという選択肢も、身体を売らせて生活させることも選択肢にはなかった。

 「三途さん」
 「何だ」
 「やっぱり、私のこと殺してください」
 「……何だと?」
 「売り飛ばしてくれても構いません。三途さんに迷惑がかからなくて、組織の方が納得する方法で私のこと処理してください」

 自分の中で殺すという選択肢を消したのに、の口からその言葉が出てきて、少し動揺してしまったかもしれない。不安にさせるようなことを言った自覚はあるが、まさか本人から一番避けたいであろう提案をされるとは思ってもいなかった。
 
 「三途さんお願い……死ぬのなら、三途さんの為に死にたいの」
 「……ッ」

 からオレを試しているという空気は感じなかった。本気で、殺される覚悟があるという目をしている。だが、触れた唇は僅かに震えていて、恐怖を隠しきれてはいなかった。引き留めて欲しいとは思っていなくても、本心では死にたくない気持ちが勝っているに違いない。死にたくない、生きて外の空気を吸いたいと言わないのは、恐らくオレを困らせないためだろう。彼女もまた狂っている。でもそれはお互い様で、もうとっくに気付いていたことだ。

 ジャケットから拳銃を取り出して、のこめかみに当てた。初めてこの家に連れてきたときも、こうして彼女が逃げないように脅したのを思い出す。あの時と同じ状況なのに、今は何もかもが違っていた。いつでも彼女を撃ち殺せると思っていたあの時とは、もう違う。
 今からは脅しではなく、本来の用途で拳銃を使うことになる。を殺す。そのためにこれを突きつけている。目を開いたままずっとこちらを見つめている彼女が震えていて、再び彼女の覚悟を目の当たりにした。そんな彼女にオレが出来ることは、こんなことしかないのか。

 「……あんなこと言ったけど、本当は怖いんです。だから手を握っていてもいいですか」
 「……あぁ」
 「ありがとう三途さん。ずっと言えなかったけれど……三途さんのこと、愛してました」

 死ぬ間際に告白するなんて最低な女だ。しかしそれは情けを掛けてもらう為でも何でもない。の別れの挨拶に他ならなかった。
 拳銃に力を込めてこめかみに押し付けると、流石のもきつく目を閉じた。1秒、2秒、3秒……部屋は静寂に包まれている。

 「……はたった今、オレが殺した」
 「三途さん……?」
 「撃ち殺した。死んだんだ」

 ゆっくりと目を開いたと目が合う。彼女がこめかみに触れた後、手を確認した。もちろん血は流れていないし怪我もしていない。ジャケットのポケットに拳銃が仕舞われるのを見つめながら、気が動転した様子の彼女が小さく呟いた。

 「どうして……」
 「オマエを殺す理由がオレにはねぇ。それだけだ」
 「でも……」
 「このままオマエを逃がすよりも、この方が今までの人生にけじめがつくだろ?」
 「……!」
 「オマエは違う人間として生きろ。今まで持っていたものはほとんど捨てることになるだろうが」
 「……もう捨てるものなんて残ってないです。捨てたくないものも、三途さん以外ないです」
 「……そーかよ」
 
 引き金を引かなかったので当たり前だが、確かに目の前では生きている。どうしても彼女を殺したくなかったオレのエゴでしかない言い分を、彼女は上手い事丸めて全て飲み込んでくれた。それに加えて、欲しかった言葉や知りたかった胸の内を形にしてくれる彼女を、信じてよかったと思う。
 今日初めて涙を見せたが控えめに胸元に顔を埋めてきた。片手で彼女を抱き寄せると、オレのシャツを握る手に更に力が篭る。

 「私、三途さんと一緒に生きてもいいんですか」
 「何気にすげぇ大胆なこと言ってんな」
 「そ、そういう意味じゃないんですけど……!ここから出て新しい人生を始めるんじゃなくて、ここからやり直したいんです」
 「あんまり言ってること変わんねぇよ」
 
 今日のことがあって正式には人質ではなくなった。犯罪者と人質という歪な関係は終わりを告げ、事情を知らない人間から見ればどこにでもいる普通の男女だ。相変わらず彼女は依存体質のままだろうが、そこも全てひっくるめて中身は以前と変わらないだろう。
 戸籍を変え、名前も変えて、これから先は父親とは無縁の生活を送る。ボスの言う通り、好きにさせてもらうのだ。




























「これで完結です」感が溢れていますがまだ少し続きます。
2023/09/02