は空を見上げた。どんより曇った空からは、いつ雨が降ってきてもおかしくはない。雨が雪に変わるかもしれないと考え、彼女は小さく身震いをしてからブーツの底を鳴らした。彼女が震えたのを見かねた三途が、マフラーを首に密着させるように隣から手を伸ばす。
「もう準備できてるかな?」
「あと一時間くれって言うから時間潰して来てやったんだ。出来てねぇならぶっ殺す」
「そんな物騒なこと言わずに……」
三途を宥めているも、まさか彼が本気でそんなことをするとは思っていない。だとしても二度目はないだろうなと頭の片隅で考えながら、数歩先を歩く彼の後ろを追った。
ホワイトアウト 21
三途とが並んで歩く様は、誰がどう見ても普通のカップルだった。すれ違う人間は違和感を持つこともなく、誰も二人の関係を、ましてや先日までの二人にあった出来事を疑うことはない。
そんな二人の男女を、主にの方を凝視して立ち尽くす人影が現れたのは、二人がカフェを出て天気の心配をしながら目的地に向かい始めてすぐだった。歩道の真ん中で歩みを止めた人物は、始めはゆっくりと、徐々にスピードを上げながらに近付く。
「……!?今まで何処にいたの、心配したんだよ!?」
街中で出すのには少し大きめな、泣き出しそうな声を上げながらに迫ったのは、彼女の同僚であり友人だった。が姿を消してから上司と家の様子を見に行き、捜索願を警察に出すように上司に掛け合ったのも彼女だ。紛れもなく一番のことを心配していた人物だろう。
彼女は一人、あの後も何度もの自宅を訪問するなど出来る限りのことはしていた。それでも時間が経つにつれて周囲の状況も変わり、遂に職場からはの机が撤去され、諦めムードが漂い始めていた。そんな時にふと目の前に現れたのは、髪型や服装は違えど自分の知る友人の姿だった。冷静に様子を見ることなど出来るはずがなく、一目も気にせず声を上げ、目の前に迫った彼女は縋るような視線をに向ける。
数歩前を歩いていた三途は振り返り、二人の姿をただ見つめていた。自分だけ先を行くべきか迷った挙句、しばらく事の顛末を見届ける事にする。
は友人を目の前に固まったまま、ただ瞬きを繰り返した。必死の形相の彼女は、自分のことを本当に心配してくれていたのだと思うと嬉しさで涙が出そうになる。しかし、同時に悲しみと申し訳なさが込み上げてきて、すぐにその感情は掻き消された。
「!何か言って!」
「……すみません、多分人違いなさってます」
「……え?」
の返した言葉を聞いて彼女は目を見開いた。声を聞いても間違いなくの声なのに、目の前の女性は人違いだと言うのだ。伸ばしかけていた手が空を掴むように、力なく彷徨う。
「という方は存じ上げないです。人違いです、ごめんなさい……」
「そんな……」
「おい、置いて行くぞ」
「待って春千夜!……本当にごめんなさい、失礼します」
通り過ぎて行くは歩き出していた三途の隣に駆け寄ってから、そのまま彼の手を取り歩きだした。それをただ一人取り残された彼女が呆然と見届ける。あれだけ本人に「人違い」だと言われても、彼女はどうしてもそうは思えなかった。に瓜二つの人間がこの東京にもう一人存在しているだなんて、あるはずがない。声まで友人そっくりな女性の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
「という方は存じ上げないです」
はっとして彼女はと三途を振り返った。自分は「」と呼びかけはしたものの「」とは口にしていない。それなのに自らのフルネームを口にしたあの女性は、やはり。
追いかけてもう一度問いただそうとしたものの、既に通りから二人の姿は消えていた。周りを見渡してもいつもと変わらない町並みが広がるばかりで、先程と話したのも夢なのではないかと思うくらいだ。
しばらく彼女はその場から動くことができなかった。ただ漠然と、もうと再会することはできないのだと悟る。一人の友人を失った悲しみを背負いながら小さく溜め息を吐いた彼女は、やがて二人とは反対方向に歩みを進めた。
* * *
触れた手が震えているのがわかって、三途は視線をへと向ける。やや俯きがちに歩く彼女の頭頂部を眺めながら、何と声をかけるか迷った。
「あれでよかったのか」
「ん?」
「さっきの女。ダチだろ、それも同僚の」
「……知ってたんだね」
先程話しかけてきた女の顔を三途は覚えていた。まだを拉致する準備段階で九井が彼女や周辺の人間を盗撮していた写真の中に、彼女の写真も含まれていた。と話している写真もあった。説明には確か、「の友人であり同僚」と書かれていたと記憶している。あの様子から、彼女がを心配し、探していたことは明白だろう。彼女の表情を目の当たりにすれば、と親しい間柄であったと察しがつくくらいには、必死の形相だった。
女に絡まれるに助け舟を出すのは三途にとって簡単だった。無理矢理会話を遮って終わらせることも、相手にせずその場を離れることもできた。しかしそうしなかったのは、が彼女に対してどのような反応を示すのか興味があったからだ。
「一番仲良くしてた友達だったから、本当は寂しいよ。でも前の私と今の私を繋ぐ接点はないほうがいいと思うの。私には親もいないし、友達と職場の人くらいしかいないけど」
「……」
「だから、これでいい」
「……そうだな」
口にしているよりもはるかに、は苦しい思いをしているだろう。かつての友人に面と向かって心配されれば尚更だ。自分のことを気にかけてくれていたと知ってしまったからこそ、余計に辛い。だとしても、友人に事情を説明したところで今の状況やこれからの彼女の生き方を受け入れてもらうことも、理解されることもないのははっきりしていた。
大切な友人を失ったことや、それと同じような「どちらかしか選べない」という場面に、はこれからも直面するだろう。選ばれた自分には責任がある。に後悔させないためにも、三途は一言同意してから空いている方の手で彼女の頭に優しく振れた。
九井のオフィスに到着してから受付に向かうと、三途は約束通り九井の部屋に通されることになった。同席しても問題ないとは言われたものの、はロビーで待つことにする。出来れば帰り際に九井に直接お礼を言いたいと申し出る彼女の声に応えてから、三途は一人九井の待つフロアへ続く道を進んだ。
断りもなく三途が九井の部屋に入室すれば、九井が待ち構えるようにソファに座っていた。目の前のテーブルには書類が綺麗に並べられている。黙って部屋に入った三途を気にする素振りも見せない九井が「よぉ」とだけ挨拶した。三途は返事をしないまま、九井の向かいに座り足を組む。
「早速だが、頼まれてた書類一式だ。言われた通り、下の名前はアイツも母親もそのままにしてある。その他は全部いじってあるから、同一人物だと疑われることはねぇはずだ。犯罪者でもなけりゃ国外逃亡するわけでもねぇ一般人なら、ここまでやれば十分だろ」
「あぁ」
「これがパスポートと、保険証。後こっちはいじった後の確認用の戸籍のコピーな。運転免許は持ってねぇんだよな?」
「あぁ」
「多分頼まれてたのはこれで全部のはずだ」
「手間かけさせたな」
「ハッ、マジで手間かけさせやがって。テメェのことだからさっさと処理して終わると思ってたぜ?」
「……」
「そこはいじって欲しくねぇってか?」
けらけらと笑う九井とは引き換えに、三途はにこりともしなかった。この反応も想定内だ。九井は気にすることもなく、見せた偽造書類を封筒に戻しながら、話を続ける。
「オマエにあの女の手続きを頼まれた時は耳を疑ったな」
「……だろうな」
「あいつはまだ家の中に閉じ込めてんのか?」
「人聞きの悪ぃ言い方すんじゃねぇ。もう普通に外に出てるし、今も下で待ってる」
「連れて来てんのか?」
「オマエに礼が言いてぇんだとよ」
「礼を言われるようなことした覚えはねぇよ。それよりも、受付の女に何かされても知らねーぞ?」
「は?」
「オマエ一時期手ぇ出してただろ。知らねぇと思ってんのか?」
「手ぇ出してたんじゃねぇ、出されてたの間違いだ」
「どっちも変わんねーだろ」
「……クソが」
「口軽ぃ奴に引っかかるテメェが悪ぃんだよ」
三途は心底面倒くさそうな顔をして置いてあったコーヒーを啜った。向かい側に座る九井は対照的に楽しそうだ。
九井の機嫌がいいのは、三途をいじって楽しんでいる以外にも理由があった。完全に失敗に終わったと思っていた計画が、水面下で莫大な利益を生んでいたことも、九井がこの件について今後誰に話すこともなく終わらせる気でいることも、三途は知る由もない。
始動した頃は、九井も三途と練った計画を実行するべく動いていた。相続問題の核であるを拉致し、それをきっかけに彼女の親の会社に揺さぶりをかける。シンプルでわかりやすい計画ではあったが、他にも揺さぶれる点はないかと探っているうちに、競合会社の存在を知った。三途にすら相談することなく、一人で競合会社に赴いた彼は新たな計画を思いついてしまう。競合相手と秘密裏に手を組み、親の会社が揉めていることを理由に信用を落とすことで、競合会社からも報酬を得る。そうすればの親の会社からも競合会社からも、利益を得ることができると考えたのだ。
本来人質を取ってまでする取引に時間をかけるメリットは梵天にない。あえての親の会社に猶予を与えていたのは、彼女の親の会社の株主や関係者などに不信感を与え、じわじわと会社を追い詰めていくためだった。見つかった後継者があっさり向こうの手に渡り、会社の評判が下がる前に問題が解決してしまっては、自分の報酬も下がり競合会社も満足しない。時間をかければかけるほど競合会社にもできることが増えるので、九井には交渉を急かす理由がなかった。問題がはっきりと明るみに出なくとも、関係者は社内の噂やリークなど勝手に情報収集して焦ってくれるし、実際に後継者問題については事実なので信憑性が高かったのも都合がよかった。結果的に、の親が三途の家に襲撃し彼女を連れ戻そうとするなど想定外の動きもあり、交渉の期間は彼の予想よりも遥かに長期に及んだ。
当然だが、九井にとっての親の会社がどうなろうと眼中にはない。かと言ってに死なれると彼女の親の会社からの取り分もなくなるので、交渉を長引かせ会社の信用が落ちきったところで人質を解放、の親の会社からも競合会社からも報酬をむしり取るのがベストだと彼は考えていた。仮にの親の会社が潰れてしまえば競合会社からの報酬は増える。会社が倒産してしまうとなると関わりを持った相手として競合会社からは今後も搾り取ることができるので、の親の会社が弱りきるのはそれはそれで悪くはなかった。の親の会社は捨て駒、競合会社は継続相手というわけだ。三途の目があるので会社を倒産させることを前提とした計画は難しかったものの、どちらに転んでも九井は三途と計画した内容よりも利益を得ることに間違いなかった。
九井にとっても会社が存続している限り人質の身柄は渡す予定でいたので、取引すら白紙にされたのが唯一最後まで読み切れなかった点だったと言えるだろう。
「つーか戸籍、三途にしとかなくてよかったのか?」
「最初から三途にしたら兄妹になっちまうだろーが」
「そこはそうならないようにすんだろ。テメェのも一緒にいじることになるが」
「面倒くせぇ。必要ならまた手続きすりゃあいい」
「役所で正式なやつをか?オマエがそんなことしたら笑っちまうな」
笑いながら話しているが、まさか三途が人質として拉致した女の戸籍を偽造してくれだなんて言い出すとは、九井は夢にも思っていなかった。最初は言われた意味を理解できず、処理したのなら戸籍を偽造する理由はないだとか、当たり前の返答をしてしまった。その反応に一番気まずそうな顔をしたのは三途だ。そういう偽造ではないとだけ話した三途の顔を、九井は今でもはっきりと思い出せる。あんなばつの悪そうな彼の顔を見たのはあれが初めてだった。ようやく言われた意味を理解した九井は笑いが止まらなかったし、その反応にまた三途が機嫌を悪くしたのは言うまでもない。
今回の計画がこんな予想外の終わりを迎え、それで全て許してくれと言う気は九井にはさらさらなかった。ある意味金よりも大切なものを、金では買えないと言われているものを図らずとも三途は手に入れたが、黙って新たな計画を押し進めたこととはまた別だ。が生き延び、三途と生活を共にすることになったのは結果論で、三途が彼女を殺す結末になっていたとしても九井の考えは変わらなかっただろう。
九井にはこの計画の全てを三途に話す気は毛頭ない。三途には適当な理由や別件を見繕って今回の計画の正当な取り分を渡し、それで自分の中でかたをつけるつもりでいた。要するに金で全てを解決する気でいたのだ。は偶然ついてきたおまけでしかない。それでも、計画に失敗したと思い込んでいる三途の対応が幾分穏やかなのが彼女のおかげなのだとしたら、九井にとってはそれもまた嬉しい誤算だった。
九井の部屋を出た二人は、エレベーターに乗って一階のロビーを目指した。エレベーターの「閉」ボタンを数回連打した三途から、焦りを感じた九井は小さく噴き出す。彼女が心配だと正直に口にすればいいものを、余裕ぶってコーヒーを啜り出すのが悪いのだと思わずにはいられなかった。
「結構長い期間隔離してたが、もう普通に生活してんのか?」
「あぁ。今は仕事探してる」
「何で仕事なんか探してんだよ?働く理由ねぇだろ」
「オレに聞くな」
「ウチで雇ってやろうか?」
「さっきの話聞かされて、頼む奴がいんのかよ」
三途が先程の受付嬢のことを意識しているのだとはっきりして、九井は込み上げてきた笑いを押し殺した。今更だろうと言いたくなるのを堪えながら、落ち着かない三途の後姿を見守る。
一階に到着したエレベーターの扉が開ききるのを待ちきれない様子の三途が、薄く開いた隙間に身体を滑り込ませるようにして外に出た。急ぐことなくそれに続いた九井の視界に広がった光景に、彼は違った意味で驚かされた。
* * *
九井の元へと向かった三途を見送ったは、ロビーのソファに座って三途が戻るのを待っていた。
静かに待機しているだけにも関わらず時折視線を感じるのは、三途と一緒に来たからだろう。彼が組織の幹部であることを知っている人間なら、に興味を持ってもおかしくない。受付の女性意外にも立ち話をする人や電話をかける人などロビーにはそれなりに人がいて居心地がいいとは言えなかったが、長くかからないと聞いていたので、数十分だけの我慢だとは自分に言い聞かせた。
「……あれ?」
「……!」
ソファに深く座りなおしたところで目の前に人の立つ気配がして、は顔を上げた。スーツ姿に不釣り合いなピアス……この男に見覚えがある。彼女が目を見開いたのに気付いた男は、躊躇いもせず隣に座ってから顔を覗きこんだ。
「君、三途さんのとこにいた子だよね?」
「は、はい」
「オレのこと覚えてる?」
「……九井さんの部下の方ですよね?ご飯を届けにきてくれた」
「そーそー!びっくりした、何でこんなとこいんの?つーか外出て大丈夫?」
矢継ぎ早に質問をしてくる九井の部下に圧倒されながらも、どこまで話すべきかは悩んだ。自分が外にいることに疑問を持っているということは、例の件の幕引きについて知らされていない可能性が高い。それは意図的なものなのか、それともただの伝達不足なのか、それがわからない限り余計なことを言うのは避けるべきだと判断する。
「えっと、勝手に出てきたとか、逃げてきたとか、そういうのじゃないです……」
「あ、そーなの?だったらよかった。逃げてきたなんて言われたら、オレ九井さんに報告しなきゃだしさー」
「大丈夫なので、ご心配なく」
「……で、何でここにいんの?まさか偶然辿り着いたなんてことないよね?」
質問には言葉を詰まらせた。今日三途についてきた目的は九井に礼を言うことだが、それを正直に話せば何の礼だと詰め寄られるだろう。どうして今なのか、何故一人でここで待っているのかとあれこれ聞かれれば、ボロが出るのは時間の問題だ。
「偶然ではないんですけど……」
「うん。それで?ここ、九井さんのオフィスって知ってるんだよね?」
「……」
「何で黙るの?」
黙りたくて黙っているわけではないが、上手い返しも浮かんでこない。このままが言い淀んだところで、人目もあるこの場所で男が何かしてくるとは思えないものの、ずっと黙り込んでいるのも怪しいだろう。
が途方に暮れていると、男は先程まで真剣だったのが嘘のように表情を崩した。
「ごめんごめん、言いたくないならいいよ。いじめるつもりじゃなかったんだけど」
「……」
「それよりもさ、結構雰囲気変わったね?」
「お兄さんにはすぐ気付かれましたけど……」
「なーんか見たことあるようなって思ったら、気になっちゃってさー」
九井に何も聞かされていなかった男も、がこの場にいることで彼女が人質としての役目から解放されているのだけは勘付いていた。もしまだ人質なのだとすれば、こんな場所に一人にしておくはずがないだろう。受付嬢は一般人なうえ、自分以外にここに出入りしている別の本業を持ったダミー会社勤務の人間もそう多くはない。第一その一部の人間が事情を知らなければ人質に何かあっても対応できないし、だからと言って自分以外に計画について知らされている人間が増えている気配もなかった。詳しいことはさて置き、彼女は計画から外れた人間なのかもしれないと思いながら、警戒心を解くように話題を変える。
「外、どう?何か前と変わった?」
「……寒いです」
「当たり前じゃん、冬だし。他には?」
「……景色は変わってないんですけど、前とは少し見え方が違います」
「……へぇ」
謎かけでもされている気分になりながら、男はの言葉の続きを待った。話を促すべく更に彼女の顔を覗きこんだ彼は、自分の目の前で何物かが足を止めた気配に、何気なく顔を上げる。
「三途さん!お疲れ様です!」
「……待たせた」
反射的に立ちあがって三途に頭を下げた男は、三途から発せられた言葉が自分宛ではないのに気付いた。三途の視線の先には先程まで話していた女の姿があり、彼女の同行者の謎が解けたと同時に別の謎が深まる。
「タイミングがいいんだか悪ぃんだか」
「九井さんもお疲れ様です!……オレ、何かマズイことしたっスか?」
慌てる男の言葉を鼻で笑った九井が三途の隣に並ぶ。それと同時に立ち上がったが、深々と九井に頭を下げた。
「九井さんがいろいろと手続きをしてくださったと聞きました。本当にありがとうございます」
「これも仕事のうちだ。大したことはしてねぇ」
「そんなこと……感謝してもしきれません」
「大げさなんだよ」
人質だったはずのが九井に感謝の意を述べているのを見て、男が二人の顔を交互に見つめる。そんな部下を一瞥してから、顔を上げたに九井が封筒を差し出した。訳がわからないまま、無視することもできず彼女がそれを受け取ると、何も知らない三途も不思議そうに九井の顔を窺う。
「それはオレからの餞別でもあり、手続きの手数料だ」
「手数料?」
封筒の中には紙の束が入っていた。が封筒から中身を取り出し、内容を確認する。そこには見覚えのある社名が書かれてあり、続けて紙を捲ると何やらややこしい文章が一面に並んでいた。
「これは……?」
「オマエの元親父が経営してた例の会社の権利書だ」
「権利書……」
「簡単に言うと、あそこはオレが買収した」
「買収!?」
「計画がパーになってむしゃくしゃしてたからな。三途と潰してやろうって話してたんだが、いろいろとツテがあってこういう形で潰すことにした」
「……オレは聞いてねぇぞ」
「事後報告になったが悪ぃ話じゃねぇだろ?」
三途が顔を顰めたのを確認した九井は落ち着けと言わんばかりに片手で三途を制してから、再びを見据える。
「上の方の人間は解任したから、オマエにその会社やるよ。これからはオマエが経営しろ」
「私がですか!?急にそんなこと言われても……」
「使えそうな人間は残しておいてもいいし、外部から呼ぶなら協力してやる。会社の経営なんてしたことねぇだろうから、ある程度は面倒も見てやるよ。ただしどちらにせよ、オレらの役に立ってもらうのが大前提だぜ?」
「……」
「仕事探してんだろ?三途の役に立ってみせろよ」
最後の一言が決定打になった。挑戦的な視線を向ける九井を静かにが見つめ返す。そこには手元の書類を握りしめ、俯いていた彼女の姿はなかった。
「……わかりました。やってみます」
「オイ、そんな二つ返事で決めるようなことじゃねぇだろ」
「そうかもしれないけど、このままじゃ私、春千夜の役に立てないと思うから」
「だとしても……」
「九井さんの息のかかった会社だから、綺麗な仕事ばかりじゃないのもわかってる。……ですよね、九井さん」
「酷ぇ言われ様だが、そこまで理解してるのなら話は早ぇ」
人質という役目を終え、生きる伸びる理由も一先ず終わりを迎えた。そんなにとって初めのうちはとにかく三途と一緒に過ごすことが幸せであり、生きる理由になっていた。しかし時間が過ぎていくにつれて、ただ三途に守られ、面倒を見てもらいながら彼と時間を共にしたいのではないと考え始める。「三途と一緒に生きること」だけでなく、再び「三途のために生きること」に、徐々に理想形が変化していくのは彼女にとって自然なことだった。
相変わらず眉を顰めている三途に「お願い、春千夜」とが真剣な眼差しを向ける。この場で全てを説明しなくても、三途なら自分の考えていることを理解してくれると、彼女には確信があった。
案の定、普段我が儘を言わないからの「お願い」に三途は溜め息をこぼす。彼女が興味本位や金銭目当てで無茶をしようとしているのではないことがわかるだけに、自分の心配や不安な気持ちを押し通すことができず、最後には渋々首を縦に振った。
「テメェが捨てられねーようにしねぇとなぁ、三途!」
「あり得ねぇ」
面白そうに目を細めながら言う九井をたしなめるように、三途が言い返した。そのまま九井は踵を返すと、真っ直ぐエレベーターに向かって歩き出す。それを見た三途も、ビルの出入り口へと身体の方向を変えた。
「それじゃあ二人とも、お幸せに!」
「バカか!うるせぇ!」
別れの言葉も言わずにその場を去った九井が、エレベーターに乗る間際、顔だけで三途との方を見て片手を上げる。二人に届く様に九井が声を張れば、ロビーは一瞬沈黙に包まれ、直後に出入口に佇む二人に視線が集まった。振り返ってもう一度九井に頭を下げる彼女とは対照的に、凄んでいるはずの三途からは恥じらいの色が見えて、普段のような貫禄は消え失せている。あの場に居合わせた人間への牽制とも挑発とも取れる九井の行為に、三途は舌打ちをしてからビルを後にした。
「驚かねぇんだな」
「え?あ、はい」
上階を目指すエレベーターの中、先に声を発したのは九井だった。何のことか九井ははっきりと口にしなかったが、内容を察した部下の男は顔色一つ変えず返事をした。
九井の部下である彼は計画について知る数少ない人間であり、それ故にのことも知っている。元人質である彼女が梵天の幹部である三途のことを今や「春千夜」と呼び捨てにしていれば、どれだけ鈍くても辿り着く結論があるだろう。普通は様々な感情が顔に出てもおかしくはない。むしろ内心驚いていたのは、部下の反応を目の当たりにした九井の方だった。
「いやー……勘って当たるもんなんスね。手ぇ出してたらオレ今頃どうなってたか……」
「オマエも相変わらずだな。ロビー降りたとき女と話してるの見て、バーカって思ったわ」
「ハハ……」
厳密に言うと、部下の男の言う「手ぇ出してたら」は今日のことではない。以前の出来事を知っているのは飲みの席で話した三途と灰谷兄弟だけで、その場に居合わせなかった九井が勘違いしていても無理はないが、がその事を他言していないのを知って彼は少し安堵した。
本名とは別に三途が「三途」という名前で戸籍を作っている前提で書いています。
次で最終話です。
2023/09/19