なにやら視線を感じて振り向いてみれば、ニヤニヤしながらこちらを窺っているのは、 比喩でもなんでもなく『目に入れても痛くない』ほど溺愛しているだった。は後ろ手に腕を組み、背後に何かを隠している。 さてはノラ猫か迷いインコでも拾ってきたのだろうか、とシリウスは考えた。


「ねえシリウス、わたし、とっても楽しそうなことを教えてもらったの」
「…誰から、どんなことを?」
「ママから、イイ事!」


満面の笑顔で言い放つに、娘とそっくりな顔でニヤニヤしながら何かを吹き込んだであろうの姿が思い浮かぶ。そのは今は仕事に行っていて、家には居ない。 これはロクなことにならないぞ、とシリウスは本能的に悟った。


「ところでシリウス、今年のバレンタインの収穫はどうだったんだっけ? ママからカードとかチョコとか貰えたんだっけ?」
「嫌味だな、だってハロッズで俺を散財させた内のひとりだろう」
「えー、おぼえてなーい」


は視線を斜め上に逸らしてシラを切る。しかしシリウスは2ヶ月前の大散財を忘れてはいない。
事の始まりは、いやに真面目な顔をしたが『バレンタインにチョコを贈る習慣を打ち立てたジャパンでは、女から男への贈り物という 図式はもはや崩れ去り、男から女へと贈る習慣になったのだ』というようなことをシリウスに切々と語ったことだった。 催促されているのだな、と察したシリウスはも連れて快くロンドンに出向いた。日頃の感謝という意味もあって、がねだれば何でも買ってやるつもりだった。その結果、ジャンとかポールとかいう 高級な店でショコラをしこたま買わされたのだった。実際、それは値段に見合うほど美味しかったのだ。 ただ少し、予想外の総額になったことが、記憶にこびりついているだけで。


「あのね、それで、ママもわたしもホワイトデーをうっかり忘れちゃってたからね、」
「うっかり、な」
「うっかりだもん。だから代わりに、ブラックデーをお祝いしてあげる!」


そう言って、は背後に隠していたものを正面に持ってきた。 それは、犬のような形をしていて、黒のようなグレーのような色の、大きなケーキ(?)に、見えた。


「ジャパニーズ・ブラックセサミプリンケーキ・メタモルフォーゼ・パッドフット!」


ソファの、シリウスが座っている隣の席に、は跳ねるように飛び乗った。そのせいでスプリングが軋み、シリウスの身体が傾く。


「ブラックデーって、ジャパン式バレンタインに韓国が便乗してできた日なんだって。 何をお祝いするのかはよく知らないけど、でもシリウスにピッタリの日でしょ?」


どうやらは娘に中途半端な知識しか与えなかったようだ。期待でキラキラした目を向けられ、 シリウスは「ブラックデーは祝うものじゃないぞ」とは言えなかった。
もうずっと昔にした、図書館でのとの会話が脳裏に浮かんだ。あの時の出来事は、まさか今日のための伏線だったのだろうかとさえ思えてくる。 普通ならありえないことだが、“普通”の基準でを見ても理解できない場合があるのだから恐ろしい。


「……ありがとな」
「これ、シリウスの“動物もどき”の形にしたの。ブラックデーだから! 材料を揃えたのがママで、作ったのはわたし」
「ああ、よく出来ている。と違ってそういう所が器用だな」
「ママだったら途中で飽きちゃって吸魂鬼の形にしてたよ、きっと」


食べてみて、と促され、シリウスは皿に添えられていたスプーンで犬の尾から切り崩していった。 クリームチーズのような感じかと思いきや舌触りは少しザラッとしていて、後味がさっぱりしている。 今まで食べたことのない分野の味だが、悪くない。


「たとえ吸魂鬼型をしていたって、食べ切ってみせるさ」


なにせ、世界で一番愛している人がくれたものだ。たとえ形が自分を殺しかけたことのある吸魂鬼であっても、 喜んで食べることが出来るだろう。

こういう“ブラック”デーなら悪くない。と、シリウスは思った。