「あっ」と小さく声を零し、は足を止めた。
敷地内なら良いだろう、とが必死で口説き落とした成果である散歩のため、まさに草履に足を通した瞬間である。

幸村はぱっと振り向き、縁側に腰掛けたまま半端に口を開けているを見た。はぱちぱちと音がしそうな瞬きをしながら、張りに張った自身の腹にそっと手を遣る。
なにか良くない兆候でもあったのだろうか、幸村は途端に焦燥に駆られた。



「ど、どうした…!
 痛むか?侍医を呼ぶか?やはり大人しく部屋で――

「いいえ、平気。平気だからそんなに慌てないで。
 何回も言ったけど、わたし、もうしばらく部屋に籠もりきりなのよ」



は立ち上がり、自分の周囲をうろうろと落ち着かない幸村の腕を引っ張った。 せっかく“部屋から出ても良い”と侍医からも侍女からも佐助からも許可を取ったのだ、この機会を無駄にすることはできない。
幸村は釈然としない様子で、下がった眉尻と眉間の皺がそれを分かりやすく証明していた。が彼の腕を取って歩き出すのを一応は黙認しているが、ともすればすぐに帰ろうと言い出しそうな雰囲気である。

は少し笑って、あのね、と小声で幸村の注意を引いた。



「さっき、この子が動いたのよ。
 以前に母上が教えて下さった通りなら、きっと男子ね。あんなに元気よく蹴るんだから」

「………動いた?」



幸村は『よく分からない』というような顔でを見ている。思わずぷっと吹きだして笑えば、彼はまた狼狽しての顔と腹とを見比べた。

動いた。蹴った。
一体誰が?と不思議でならないが、は幸村の腕に掴まるのと反対の手を自分の腹に添えている。



「……動くのか?」

「動くわよ、だって生きているんだもの。
 きっとわたしと同じなんじゃないかしら、暇で暇で、もう一日中寝ているのに飽きたのね」

「…………動くのか……」



腹に切っ先や銃弾を受けたことはあっても、残念ながら幸村には腹の子が“動く”という感覚を身をもって経験したことはない。がさも当然のようにその感覚を受け入れているのが不思議なくらいだった。 むず痒いのだろうか、痛いのだろうか、まさか心地好いということはあるまいと思うが、果たして。

そうして一人で百面相をしている幸村を横目で窺いながら、はけらけらと笑い転げたくなるような気分だった。 彼が何を想像して首を捻っているのかなんてことは手に取るように分かる。 きっと次に聞いてくるのは『動くとどんな感触がするのか』ということだろう。


よもぎ色をした幸村の着流しが揺れている。今日のの着物はあやめ色なので、組んだ腕の部分が色目よく混じって見えた。




「あら、また動いた」




池の淵に差し掛かったとき、の腹の中で再びぽこりとした感覚があった。
思わず幸村の腕をぎゅっと掴んで、込み上げてくる笑い声をなんとか押し留めようとする。 幸村はまだ微妙な顔をしながらを見て、やがて恐々と口を開いた。



「その、腹の中で何かが動くというのは、一体どのような感じであろう?」

「ん、ふふふ。どんな感じって。どう言えばいいのかしら、ふふ」



やはり聞いてきた。
がにやにやしながら答えをはぐらかしていると、幸村は「何がおかしい」と拗ねたような声色で言った。 ばかにしている訳ではないと釈明して、さてどう表現したものかと言葉を探す。



「別に痛いわけじゃなくて。むず痒いというか、落ち着かないというか…
 でも落ち着かないのは何だか嬉しくなるからかも?だから、どう言えばいいのか…
 やっぱり、『内側から蹴られている感じ』としか言い様が無いんだけれど」

「腹に受けた傷の部分に折れた刃が残り、それが暴れるのとは違うのだろう?」

「物騒な話にしないでちょうだい」



痛くはないと言ったばかりなのに、戦本位の頭にも程がある。呆れたようなの視線を受け、幸村は誤魔化すように鼻の頭を掻いた。
いずれにせよ、男である幸村には一生かかっても実感できない種類の事柄だ。



「…しかし、いくら赤子とはいえ母を足蹴にするとはけしからん。
 出てきた暁にはよく言って聞かせねばなるまいな」

「足蹴に、って、そんな大げさな…」

「いや!赤子とて武家の子、真田の子であるからには甘やかす訳にはゆかぬ!
 ゆくゆくは武田家にお仕えし、天下統一への礎となるため、今から武田の魂を教え込まねば!」



幸村の語気が熱を帯びていく。
いくらなんでも、まだ生まれてもいない子に言ったところで聞こえているのかすら怪しいとは思うのだが、幸村は聞こえているどころか理解できることを前提にしているではないか。

あのねぇ、とは諌めるように腕を撫でた。



「武家の子らしくっていうは分かっているし、必要だと思うけど。
 でも、そんな風に言ったって今はまだ何も分からないと思うわ」

「しかし動いているではないか」

「そうだけど……寝返りみたいなものじゃないの?」



ふたりして足を止めて、互いに首を捻る。自分が幼い頃はどうだっただろうかと思い返してみても、 やはり母の腹の中に居た頃の事など覚えていないのだから、今この場に正解を知る者は居ない。


とりあえずこの問題は保留にして、気分を変えるために休憩することにした。
こまめに休むようにと侍女から何度も言われていたし、赤子の分だけ増えた体重を支える足が以前より動かし辛いことも、自身がよく分かっているのだ。

近くにあった蔵へ寄り、茣蓙を引っ張り出して地面に敷く。そこへ先ずは幸村が腰を下ろして、を手招きした。並んで座ろうとすると手を引かれ、胡坐に組んだ足の上へ否応なしに座らされる。 収まりを少し調整したあと、幸村は背後から腕を回して、の下腹部から押さえ込むように抱えた。



「……随分と大きくなったな」

「ええ、もう暫くの辛抱でしょう。
 このあいだ診てもらった時は、あと一月か一月もかからないくらいじゃないかって」

「そうか。……それで、こうしていれば動いたのが分かると思うか?」



の肩口で幸村がもそもそ喋る。「多分ね」と短く答えたら、締める力がほんの少しだけ強まった。 そんなに“蹴られる感覚”が気になるのだろうかと、は笑ってしまう。

ふと見れば、昨秋の名残であろうか、木の実が落ちているのが視界に入った。は腕を伸ばしてそれを拾い上げる。軽く振ってみると、からからと中身の詰まっていなさそうな音がした。



「空だな。虫にでも食われたのだろう」

「そうね、でもこういう感じに似ているかも。
 中に残った粕が動いて、殻にぶつかるときの感じというか、」



は幸村にその空の実を渡した。
彼は受け取るなり強く振り、分かるような分からないようなと呟く。



「あ。じゃあ南瓜でもくり貫いて、中に胡桃でも椎の実でも入れて、
 それを懐に仕込んで歩き回ってみれば分かるのかも!」

「それは…なるほど…」



木の実と残り粕では小さすぎて分からないのなら、単純に大きくすれば分かるかもしれない。はふざけてそう提案したのだが、幸村は納得したように頷いた。 きっとこの散歩が終わったら、厨へ行って「南瓜はあるか?」と尋ねまわるのだろう。
城主のそんな姿を曝して良いものかどうかは迷ったが、きっと彼は自分の中できっちり折り合いをつけるまで諦めないことだろうとも思うので、 戻ったら先ず侍女に簡単に説明しておこうとひっそり決意した。(それに、もしかしたらその前に佐助が止めてくれるかもしれない)


さて、これでしばらく休んだということで、ふたりは立ち上がった。 歩いているときはあんなに頻繁にごそごそしていたというのに、腹の子はとうとう動かずじまいだった。
幸村は少し不満そうで、少し残念そうな顔をしている。

部屋に戻ってしまえば、次はいよいよ生まれるまで外には出られないことだろう。障子を開けて見渡せる範囲でも庭の景観は美しいのだが、は切り取られた情景よりも全身で感じる自然の方が遥かに好きだ。

井戸の脇に生えている名も無き花も、松の根元で綻ぶ蕾も、全て瞳の奥に焼き付けておいて。
そうして、生まれてくる子に、この美しき地が上田であると、お前の父上様の国なのだと、自信をもって教えてやりたい。

何を笑っているのかと幸村が不思議そうに尋ねてくる。
そのしっかりした腕に掴まって、はただ幸せなだけだと答えた。











◎ ◎ ◎
◎ ◎ ◎












敷地内を一周して、さて夕餉は何だろうかとくだらない予想をしていたとき。
またしても腹の辺りでぽこりと軽い感触があって、は草履を脱ぐ手を休めた。



「……本当に、落ち着きの無い子。どなた様に似たのやら、似るのやら」



すかさず女中たちが寄ってきて、の足から草履を外していく。跳ねた泥を手拭いで拭き取られている間に、手のひらで優しく撫でながらぽつりと零した。

ようやく世話焼きから開放されると、先に草履を脱ぎ終わった幸村がをひょいと抱えて部屋まで歩く。「またさっき動いたのよ」と教えてやれば、彼は僅かに目を瞠って、ちらりと視線をの腹へ遣った。



「先刻、俺が待ち構えておった際には微動だにせなんだではないか」

「とと様が嫌いなんですって、厳しいことばかり仰るんだもの」



ねえ、と誰にともなく語りかけてみると、応えるような感触がまたひとつ。はそれ見たことかと足をばたつかせて笑ってしまった。「じっとしておれ!」と少し慌てたように幸村が言う。 落とされては一大事なので、それからはも大人しく運ばれるがままになった。


の部屋へはすぐに着いた。
散歩の間に交換されていた寝具の上に降ろされ、すぐに膝と肩に羽織が掛けられる。 ほんの少しの時間しか出ていなかったはずなのに、存外にくたびれた。それほど身体が重くなっていたとは思ってもいなかった。

幸村は夕餉までに着替えてくると言って、部屋を出て行こうとする。外はもう昼間ほどには明るくなく、まだ蝋燭を灯すほどには暗くない。 それほど長い間ではないと分かっていても、薄く染まった障子で区切られた部屋にひとり残されるのだと思ったとき、は咄嗟に幸村の着物を掴んで引き止めていた。



「嫌いなんて、うそよ。大好きよ。
 だから生まれてくるのが男の子じゃなくても、真田の子だって、認めてくれる?」

「…要らぬ心配をするな、身体に障る。俺との子以外に真田の子が居るものか。
 男児であれば立派な侍に、女子であればのような姫に、それぞれ育て上げるだけのこと」



振り向きざまに、大きな手がの頭をくしゃくしゃに撫で回した。それなら良かったと安堵の息を漏らすと、彼はもう一度「要らぬ心配だ」と繰り返し、部屋を出た。

は腹を抱えながら横になり、目を瞑る。この子の性別はどちらなのだろう、性格は誰に似るのだろう。世継ぎ云々の話を抜きにしても、にとっては幸村のような男の子であって欲しいと思うのだが、幸村はどちらが良いのだろう。 尋ねてみたところで、どちらにしても無事に生まれればそれで良いと、そんなことを言い返されそうだ。


幸村が戻ってきた時には、この胎動を感じさせてあげられたら。
「お願いね」とひとりごとを言いながら、近付いてくる足音に耳を澄ませた。
















リクエストありがとうございました!
夫婦いちょいちょさせるの楽しかったです。